【明治文豪、令和を歩く】第63回:捨て身のアカデミー賞
現代の東京、とある落ち着いた喫茶店のテラス席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、カップを前に向かい合っている。

荷風君、近頃は『あかでみい賞』なるものが世間を賑わせておりますな。海の向こうの、あの巨大な活動写真の祭典のことです。なんでも、日本の作り手たちがこしらえた作品が、いくつも賞を授かったとかで、新聞も雑誌も大層な騒ぎだ

ええ、先生。私も耳にいたしました。あの『ごじら』という怪物の映画や、アニメエションという手法で描かれた幻想的な物語が、西洋の地で高く評価されたそうで。かつて私が巴里や紐育で、東洋の芸術がいかに軽んじられているかを肌で感じた頃を思えば、実に不思議な心持ちがいたします。しかし、あのように華々しい賞杯を手にすることが、果たして芸術の真価を決めるものなのでしょうか

そこですな。私も文芸委員なるものに駆り出されそうになった際、国家や権威が芸術に等級をつけることの危うさを説いたことがありますが、この賞というのも、ある種の巨大な権威による選別です。もちろん、金銭的な生活の安定や、世に認められる喜びは文士や芸術家にとって切実な問題ではあるが……。賞という器に収まりきらぬ、もっと個人的で、深い魂の叫びこそが、本来の芸術ではないかと思うのです

仰る通りです。私は、あのような大掛かりな仕掛けや、大衆の喝采を浴びるための趣向には、どうも馴染めません。芸術家最高の事業は劇部にありと信じた時期もありましたが、今の活動写真は、あまりに技術と資本に寄りすぎている。私が愛するのは、路地裏の片隅で、誰に知られることもなく綴られる一篇の詩や、消えゆく江戸の情緒を惜しむ静かな筆致です。賞を獲るために芸術があるのではなく、芸術のために孤独があるべきではないかと

ははあ、相変わらずの徹底した芸術至上主義だ。だが、今の日本の若者たちが、西洋の真似事ではなく、自分たちの内側から湧き出た想像力で世界を驚かせたという事実は、あながち悪いことではない。私がかつて『自己本位』を確立せねばならんと苦闘した、その一つの結実のようにも見えます。もっとも、その賞を獲った途端に、周囲が掌を返して崇め奉る今の世の軽薄さには、些か胃が疼く思いがしますがね

左様でございますな。賞杯の輝きばかりに目を奪われ、その作品の奥底にある孤独や苦悩を理解しようとする者は、果たしてどれほど居るものか。流行の波に乗って騒ぎ立てる群衆は、また次の新しい刺激が現れれば、すぐに忘れてしまう。私は、そんな華やかな授賞式の喧騒よりも、雨の日の午後に、誰もいない部屋で古い脚本を読み返す方が、よほど豊かな時間を過ごせると信じております

全く、我々のような隠居人には、あの眩しすぎる電光石火の祭典は、少しばかり目が眩む。賞を獲ろうが獲るまいが、良いものは良い、悪いものは悪い。その単純な真理を、自分一人の胸に抱いていれば、それで十分ではありませんか。さて、荷風君。あのアカデミー賞とやらで賑わう銀座の通りを避けて、我々はもっと暗くて静かな、古い活動写真館の裏手でも歩きましょうか

それが良ろしゅうございます。先生、あちらの古い喫茶店へ参りましょう。あそこなら、流行の映画の話に興じる客も少なく、静かに文学の行く末を案じることができそうです
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