【明治文豪、令和を歩く】第62回:黄砂むぞうさ
現代の東京、とある落ち着いた喫茶店のテラス席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、カップを前に向かい合っている。

荷風君、近頃の空はどうもいけませんな。窓を開ければ、何やらどんよりと黄色い帳が下りたようで、遠くの景色が砂に埋もれてしまったかのようだ。倫敦の霧は煤煙で黒かったが、現代の東京に降るのは大陸の砂ですか

先生、これは『黄砂』と申しまして、はるか西の砂漠から風に乗ってやってくるのだそうです。私がかつて愛でた隅田川の土手も、今やこの砂にまみれて、情緒も何もあったものではありません。せっかくの春の陽気だというのに、蝙蝠傘を差さねば着物が汚れてしまう。実に無風流な話です

砂漠の砂が海を越えてくるとは、文明がこれほど進んでも、自然の猛威には抗えんということですな。私の『三四郎(※)』に出てくるような、あの澄んだ青空はどこへ行ったものか。今の若者たちは、この煙った空の下で、あの小さな硝子板を一生懸命に拭いながら歩いている。砂を拭うのか、それとも己の迷いを拭っているのか

左様でございますな。私は先日、市川の町を歩いておりましたが、砂埃を防ぐために溝の水を撒く昔の光景を思い出しました。あの頃の砂は、まだその土地の土の匂いがしたものですが、この黄砂とやらは、どこか得体の知れない異郷の乾いた味がいたします。江戸の文人たちが愛した『春霞』とは、似て非なる不気味な代物です

霞といえば聞こえはいいが、これはもっと即物的な、肺の奥まで入り込んでくるような不快さだ。私は近頃、この砂のせいで外に出るのが億劫でね。書斎に籠もって、古い漢籍でもめくっている方がよほど心安らかだ。現代人はこの空の下でも平気な顔をして闊歩しているが、その精神のうちは、この空模様のように混濁してはおらんのかと、余計な心配をしてしまう

先生、それは仰る通り。街の雑草でさえ、この砂を被って心なしか色が褪せて見える。私は雑草の逞しさを愛しますが、こうも空が濁っては、写生帖を開く気にもなれません。文明の利器がどれほど発達しようとも、一握の砂が空を覆うだけで、人間はこうも不自由になる。滑稽なものでございますな

全く、土を掘り返してレアアースを得たと喜んでいる間に、空からは別の土が降ってくる。人間は土から離れては生きられんと言いながら、その土に悩まされているのだから、皮肉なものだ。荷風君、今日はもう散策は切り上げて、どこか埃の入らぬ店で、濃い茶でも飲みませんか。この砂が過ぎ去るまで、我々は言葉の海にでも潜っているとしましょう

それが良ろしゅうございます。幸い、私の鞄には読みかけの草紙が入っております。砂に汚された現代を忘れ、ひととき、古き良き時代の夢でも見るといたしましょう
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