【明治文豪、令和を歩く】第58回:名探偵の判定
春を待つ夕暮れの銀座、カッフェーのテラス席。漱石は運ばれてきた「名探偵」と銘打たれた新刊小説の帯を眺め、荷風は静かに煙草の煙を燻らせている

荷風君、先ほどからこの表紙を眺めているのだが、近頃の読物はどうしてこうも「名探偵」という存在を英雄視したがるのだろうね。知らぬ間に人の心を読むのは、本来、泥棒の同類のようなものではないか。ダンビラで金を奪うのが強盗なら、言葉を並べて人の意志を強いるのが探偵だ。私に言わせれば、彼らはスリや強盗の一族で、到底人の風上に置けるものではない。

先生、それはまた手厳しい。ですが、確かに今の世で持て囃される名探偵とやらは、他人の隠し事を暴くことに異様なまでの執着を見せますな。私が愛する江戸の戯作や情話の世界では、人の過ちや隠し事は、どこか「粋」な計らいで覆い隠すのが美徳とされておりました。それを白日の下に晒して「真実だ」と叫ぶのは、どうにも野暮な振る舞いに思えてなりません。

全くその通りだ。二十世紀の人間は、どういう訳か皆が探偵のようになる傾向がある。個人の自覚心が強過ぎるせいか、あるいは文明の角が生えて、金米糖のようにいらいらしているからかもしれん。他人の秘密を暴くことで、己の優越を確認しようとする。そんな奴の言うことを聞くと、癖になってしまうから用心が必要だよ。私の知る理学士などは「千人や二千人の探偵が襲撃したって怖くない」と豪語していたが、あれは新婚の元気旺盛な空元気に過ぎん。

ははは、その理学士の方の気風は、宝生流の謡(うたい)でも聞くようで愉快ですね。しかし、今の世の名探偵たちが、まるで神のごとく崇められているのは、文明がそれだけ「正解」という名の残酷な光を求めている証左でしょう。私は、隅田川の濁った水の中に沈んでいる秘密や、路地裏の古びた家屋に潜む男女の機微は、そのままにしておく方が、よほど文芸的な情緒があると思うのですが。

うむ。探偵が個人の私生活に土足で踏み込み、その動機を解剖して見せるのは、芸術趣味を解しない無粋な行為だ。彼らが使う「論理」という名の暴力は、人間の複雑な内面を、無理やり一筋の線に繋げようとする。そんな刺戟ばかりを求めていては、人心はますます荒廃するばかりだよ。私などは、学位を辞退した時もそうだったが、お上が勝手に決めた枠にはめられるのが一番の苦痛でね。探偵に自分の正体を暴かれるくらいなら、猫にでもなって、ただ超然と世間を眺めていたいものだ。

左様でございますね。私は名探偵が解き明かす「事件の真相」よりも、事件の陰でひっそりと消えていった女の涙や、その後の寂寥とした街の景色を記録したい。名探偵が去った後の、誰も見向きもしない静寂にこそ、真の「人生」が宿っているような気がいたします。

君のその「低徊(ていかい)」する姿勢こそが、探偵的なるものに対する最大の抵抗だよ。さあ、その名探偵とやらの活躍は小説の中に閉じ込めておいて、我々はもう少し、この不透明で、曖昧で、それでいて愛おしい現世の夕闇を、言葉少なに味わうとしよう。

ええ。真実を暴くよりも、消えゆく残影を愛でる。それが私なりの「犯行声明」でございます。
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