【明治文豪、令和を歩く】第56回:消費税せいせい
冬の午後の光が斜めに差し込むカッフェーの片隅。漱石は運ばれてきた珈琲の勘定書きを眺め、荷風は懐から銀の煙管を取り出そうとして、ふと手を止める

荷風君、先ほどからこの勘定書きの端に記された数字を眺めているのだが……。今の世では、物を一つ買うごとに、あるいはこうして珈琲を一杯啜るごとに、一割もの「消費税」とやらを上納せねばならんのだな。我々の時代にも地租や所得税はあったが、日々のささやかな嗜好品にまで、これほど細かく網を被せられるとは、どうにも窮屈な心地がするよ。

全くでございます、先生。天保の改革の折、水野越前守が錦絵や盆栽を「無益な贅沢」として禁じた話を思い出しますな。あの頃の江戸の人々も「天下太平の祝いに舞い降りた鳳凰の首を絞めるようなものだ」と嘆いたそうですが、今の世の税というのも、風流や遊びの精神をじわじわと締め上げる、見えない縄のようなものでございますよ。

まさにその通りだ。私がかつてロンドンで見た貧民窟の惨状ほどではないにせよ、この一割の重みは、市井の人々にとっては決して等閑(なおざり)にはできん。一割といえば、十回珈琲を飲めば一回分が消える計算だ。私の胃の具合を案じて、天が「飲み過ぎるな」と警告しているのかもしれんが、どうにも国家という大きな怪物が、我々の皿の上から一切れずつ肉を掠め取っていくようで、愉快なものではないね。

私は以前、新橋の芸者や女給たちと酒を酌み交わしていた頃、彼女たちが日々費やす白粉や髪飾りの代金を思い浮かべます。彼女たちにとって、美しく装うことは「生」そのものでした。今の世の女子たちが、紅一つ買うにも税を納めねばならぬというのは、彼女たちの艶やかな夢にまで公儀の手が伸びているようで、実に無粋な限りです。私のような敗残の身としては、せめてこの税が、隅田川の清流を取り戻すためや、古き良き街並みを守るために使われるならまだしも……。

ははは、君の期待はいつも詩的だが、現実はもっと散文的だろう。この税は、巨大な文明の歯車を維持するための油のようなものだ。しかし、その油を注ぐために、我々の生活から「余裕」という名の潤滑剤が奪われていくのは皮肉な話だ。私は、あえてこの勘定を払うことで、この不完全な文明に参加しているという、一種の苦い満足感を得ることにしているよ。

先生は相変わらず悟っていらっしゃる。私はどうしても、こうした「お上の御趣旨」というものには、反骨の念を禁じ得ません。もし私が今、落語家の弟子として萌黄の風呂敷を背負って歩いていたなら、この税の分だけ余計に高座に上がらねばならぬと嘆いたことでしょう。せめて、このカッフェーを出た後の散歩道では、税などという無粋な計算を忘れ、冬の夕陽を無償で愛でることにいたします。

それがいい。空の色や風の音にまで税がかけられる世の中になったら、それこそ我々は、本当の異世界へ逃げ出すほかなくなるからね。さあ、荷風君。この一割の重みを珈琲の苦味と共に飲み干して、また雑踏の中へ戻ろうじゃないか。

ええ。長いものには巻かれろとは申しますが、せめて心の中の錦絵までは、誰にも差し押さえられぬようにしたいものです。
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