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【明治文豪、令和を歩く】第57回:インスタグラム目が眩む

カッフェーの窓際、冬の淡い陽光が荷風の手元にある最新型の携帯電話――の形をした不思議な硝子板を照らしている。荷風は眉をひそめてその画面を眺め、漱石はそれを見守るように珈琲を啜る

夏目漱石                                                                                                                         

荷風君、君が先ほどから熱心に覗き込んでいるその「いんすたぐらむ」というものは、一体何なのだね。横から見ると、色鮮やかな料理や、派手な着物を着た女子の写眞が次から次へと流れていくようだが。

                                                                                                                        永井荷風

これですか、先生。これは今の世の人々が、己の日常の断片を写眞に収め、見ず知らずの他人に披露するための仕掛けだそうでございます。銀座のカッフェーで供される菓子から、異国の夕景まで、あらゆるものが「映える」という基準一点で切り取られ、陳列されておりますよ。私はかつて、巴里の街角や隅田の河畔を写眞機を抱えて歩き、消えゆく風情を密かに記録することに無上の喜びを感じましたが……。今のこれは、風情を愛でるというよりは、むしろ「私はこれほど華やかな場所にいる」という自慢を競い合っているように見えて、どうにも閉口いたします。

なるほど、自己表現の手段というわけか。しかし、写眞一枚にすべてを語らせようとするのは、いささか情緒に欠けるな。私はかつて三田の慶応義塾へ招かれた折、上田敏君から「大なる運動」の序幕としての文芸を説かれたが、この「いんすたぐらむ」とやらは、それとは逆の、極めて断片的で刹那的な運動のように思える。言葉を尽くさず、ただ視覚的な刺激だけで他人の関心を引こうとするのは、文芸の徒としては、どうにも物足りんよ。

先生のおっしゃる通りです。私もかつて夢之助と名乗って落語家の弟子をしていた頃、萌黄の風呂敷を背負って歩きながら、目にする市井の風俗を心に刻んだものですが、それはあくまで自分の内側に蓄積される「情景」でした。今の若者たちは、美しい夕陽を見ても、それを心で味わう前にまずこの硝子板を向け、他人の「いいね」という評価を待つ。これでは、景色を眺めているのか、他人の眼を眺めているのか、判然としません。

「いいね」か。それは一種の承認の記号だろうが、そんなものに一喜一憂していては、いつまで経っても己の「個」が確立できん。私は『吾輩は猫である(※)』を書いた時、猫の眼を借りて人間社会の滑稽さを描いたが、今の世では、人間自らが猫のように気ままに振る舞っているようでいて、実はその実、見えない鎖……すなわち他人の視線に縛り付けられているように見える。あんなに鮮やかな色彩の裏側で、皆が同じような構図を追い求めているのは、皮肉な喜劇だね。

(※)初出1905[明治38年]ホトトギス

左様でございます。私はこの「いんすたぐらむ」の喧騒を離れ、かつて三社権現の祭りの日に、踊子の栄子が竹の皮に包んで持ってきてくれた強飯のような、素朴で血の通った手触りを懐かしみます。あれは写眞に撮って誰かに見せるためのものではなく、ただ「先生に食べてほしい」という、その一念だけの贈り物でした。今の世の「映える」料理の数々に、果たしてそれほどの重みがあるのかどうか。

結局のところ、文明がどれほど進歩して、一瞬で写眞を世界中に飛ばせるようになっても、人間の孤独や虚栄心は少しも変わらんということだろうな。むしろ、便利になればなるほど、その空虚さが鮮明に浮き彫りになってくる。……どうだね、荷風君。その硝子板を一度懐に仕舞って、この冷めかけた珈琲の、濁った色でもじっくり眺めようじゃないか。ここには「映える」要素など微塵もないが、この苦味こそが、我々の「現実」というものだ。

ええ、先生。私もこの便利な玩具にはもう飽きました。これからまた、表通りの蓄音機の音を避けて、湿り気を帯びた路地裏へ消えていくことにいたします。写眞には決して写らぬ、あのドブ板の匂いや、名もなき老妓の溜息の中にこそ、私の書きたい「真実」が転がっておりますから。

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