【明治文豪、令和を歩く】第61回:吟遊移民
現代の東京、とある落ち着いた喫茶店のテラス席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、カップを前に向かい合っている。

荷風君、近頃は街を歩けば異国の言葉が風に乗って聞こえてきますな。かつて私が倫敦の霧の中で、東洋人一人、孤独に打ち震えていた頃とは隔世の感がある。今やこの日本が、多くの人々を受け入れる土壌になろうとしているようだ

先生、仰る通りです。銀座の裏通りを歩いていても、ふと耳に入るのは見知らぬ国の調べ。かつて私が巴里や紐育で味わった、あの『異邦人』としての感覚を、今は東京にいながらにして味わうことができます。しかし、それが単なる旅人ではなく、この地に根を下ろそうとする人々となれば、話はまた別ですな

そう、そこが肝要だ。単なる見物衆ではない。生活の重みを背負ってやってくる。私はかつて、西洋の開化は内発的ではなく、外部から無理やり押し付けられたものだと嘆いたが、今のこの人の流れもまた、抗いがたい時代の奔流なのでしょう。文化と文化が衝突し、混ざり合う。その摩擦から、新しい何かが生まれるのか、あるいは大切な何かが摩滅してしまうのか……

私は、江戸の残り香が消えゆくのを惜しんで生きて参りましたが、今やその消えかかった灰の上に、全く新しい極彩色の花が植えられようとしている。三田の山から眺める景色も、やがては多種多様な人々の営みに染まっていくのでしょう。しかし、先生。言葉も習慣も異なる人々が、一つ屋根の下で暮らすというのは、そう容易なことではありますまい

左様。我々日本人は、以心伝心などと言って、言葉に頼らぬ了解を美徳としてきた。だが、これからはそうはいかん。一つ一つ、言葉を尽くして己を語り、相手を理解せねばならん。それはひどく骨の折れる仕事だが、同時に、自己というものを真に見つめ直す好機かもしれん。私がかつて『自己本位』という言葉に託した理想が、皮肉にもこうした混迷の中で試されるわけだ

自己本位、ですな。他人に阿ねることなく、己の足で立つ。しかし、今の世の中を見ていると、皆が同じ機械を覗き込み、同じような流行を追っている。移民の方々の方が、よほど自身の故郷の香りを大切に抱えて歩いているように見えます。彼らが持ち込む異国の情趣が、こののっぺらぼうな現代日本に、せめて一筋の深みを与えてくれれば良いのですが

ははあ、荷風君らしい視点だ。確かに、均一化された文明の中に、異質の風が吹き込むのは悪くない。ただ、受け入れる側も、迎えられる側も、互いに『個』としての自覚を持たねば、ただの混乱に終わってしまう。私は、この小さな島国が、その多様な重みに耐えうるだけの精神的な器を持っているかどうか、それが少しばかり心配でね

器、ですか。今の東京は、古き良きものを壊しては新しいビルを建てるばかりで、中身が追いついていない。移民の方々が、この街の片隅に自分たちの居場所を見つけ、そこで新たな文化の種を蒔く……。それはどこか、かつての築地居留地のような、不思議な哀愁を孕んだ風景になるのかもしれません。まあ、私はその喧騒から離れ、静かな窓辺で古い漢籍でも開いているのが一番ですが

全くだ。我々のような古い人間は、この変転極まりない世相を、ただの傍観者として眺めるのが分相応かもしれん。だが、荷風君。彼らが持ち込む新しい料理の匂いだけは、案外、悪くないものですよ。今度、どこか異国の路地裏にある店でも覗いてみますかな
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