【明治文豪、令和を歩く】第38回:さすがのSASUKE
漱石は、新聞の片隅に載っている極彩色の写真をまじまじと眺め、眼鏡の蔓を指で直しながら、向かいの荷風に問いかける

……荷風君、近頃の若者が熱狂している『SASUKE』というものを見たことがあるかね。何でも、鋼鉄で組み上げられた巨大な玩具のような要塞を、裸に近い姿の男たちが、猿のように跳ね、蜘蛛のように這い上がっていく催しらしいのだが。あれは一体、何の修行なのだい

先生、あれは現代の『見世物小屋』ですよ。かつて浅草の奥で、力自慢の男が大きな石を持ち上げたり、軽業師が綱渡りを見せたりしていた、あの野蛮で、しかしどこか人を惹きつける見世物の成れの果てです。ただ、昔と違うのは、そこに情緒もなければ、芸としての『粋』もない。ただ肉体の限界を誇示し、泥にまみれる姿を、何台もの機械の目で見守るという、じつに無味乾燥な遊戯に私には見えますな

ふむ、肉体の限界か。確かに、あの鉄の棒にぶら下がり、水の中に落ちまいと必死に形相を歪める姿は、一種の悲喜劇だね。私が『猫(※)』に書いた主人のように、何かに逆上して暴れているわけでもなかろうに、自ら進んであのような苦行に身を投じる。現代人は、平穏な日常に飽き足らず、わざわざ『不自由』を買い取って、自らの頑固な肉体を試しに行っているのかもしれない

さよう。しかも、それを数千、数万の人間が固唾を呑んで見守り、誰かが水に落ちれば溜息をつく。私には、その光景そのものが、戦後の荒廃した街に流行った裸体展示や、低俗な小新聞の挿絵を眺める群衆の目つきと重なって見えてなりません。高尚な文学や芸術が隅に追いやられ、ただ『飛んだ』『落ちた』という単純な刺激だけが、この時代の娯楽の王座に座っている。三田の文学部を刷新しようと志した頃の情熱が、何だか遠い昔の夢のようです

しかし、荷風君。あの鉄の要塞に挑む男たちの顔を見てみたまえ。彼らは、名誉のためでも、金のためでもなく、ただ『そこにある壁を越える』という一点に、全存在を賭けているように見える。それは、我々が原稿用紙の空白を前にして、一文字一文字を命懸けで埋めていく、あの孤独な闘いにどこか似てはいないかね。もっとも、彼らの場合は、失敗すれば水浸しという、じつに分かりやすい結末が待っているが

先生、それは買い被りというものです。我々の闘いは、静寂の中での内面との対峙ですが、彼らのそれは、電灯の下で喝采を浴びるための、いわば『宣伝』の一部です。私は、あのような喧騒の中に真実があるとは思いません。私はやはり、誰もいない裏通りの、古びた格子の陰で、ひっそりと三味線の音を聴いている方が、よほど人間の深淵に触れられる気がします。あの騒々しい鉄の檻は、見るだけで呼吸が苦しくなる

ははあ、君は相変わらず徹底しているな。だが、あの無意味とも思える鉄の遊具に、大の大人たちが涙を流して挑む姿を、私は完全には否定しきれないのだよ。それは、文明という名の巨大な機械に組み込まれた人間が、せめて自分の肉体だけは自分の意のままに動かしたいという、最後の抵抗のようにも見えるからね。まあ、私がもしあそこに立たされたら、最初の段差で腰を抜かして、漱石の名を汚すのが関の山だろうが

先生が泥水に落ちる姿など、想像したくもありません。さあ、珈琲が冷めないうちに。あのような野蛮な見世物の話はこれくらいにして、もっと静かな、江戸の戯作者たちの苦心談でもいたしましょう。現代の風潮がどうあろうと、我々の居場所は、やはりこの静かな卓の上にしかないのですから
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