【明治文豪、令和を歩く】第70回:クールビューティLGBT
春の宵、銀座の裏通りにある静かなカッフェー。漱石は運ばれてきたジャム入りの紅茶をゆっくりとかき混ぜ、荷風は手帖の余白に何やら熱心にペンを走らせている

……荷風君、近頃は『多様性』という言葉が、まるで流行病のように世間に溢れているね。中でもLGBTなどという、アルファベットを並べた新しい呼称についてはどう思うかね。私が以前、評論の中で『十人十色の世界観がある』と説いたことがあったが、今の世の中は、その色の違いをようやく公に認めようという動きにあるようだ。かつての文壇が、型に嵌まった尺度で新しい才能を測りたがったのと同じで、世間というものは常に、自分たちの理解の範疇にないものを『異端』として閑却してきたからね

(眼鏡の奥の目を細めて)先生、それは今に始まったことではありません。かつての武士道においても、尚武の士の間には『衆道』という独特の風儀がありました。彼らはそれを武士道の弊だ、白璧の微瑕(はくへきのびか)だなどと言いながら、実際にはその情愛の中に、ある種の美学を見出していたものです。私は常々、風流人の淫行は野獣のそれとは違い、人情の美を基とするものだと言ってまいりました。それが男であれ女であれ、人が人を想う情の深さに、境界など本来はないはずなのです

情、か。確かにそうだ。私が小説の中で描いてきた人間たちも、皆、割り切れぬ想いや、社会の枠組みからはみ出してしまう自らの本性に苦しんできた。今の若者たちが、自らの性的な指向を堂々と語り、権利を主張する姿を見ていると、私がかつて感じていた『自己本位』という言葉の重みが、また違った響きを持って迫ってくるよ。それは単なる我儘ではなく、自らの存在を肯定するための、切実な叫びなのかもしれん

左様でございますね。ただ、私はこの『多様性』という言葉が、あまりに政治的、あるいは道徳的なお題目として語られることには、少々閉口しております。かつて官吏たちが裸体画を禁じたり、心中ものの外題を許さなかったりしたのと同様、今度は逆に『理解せねばならぬ』という新しい規律が、人々の自由な情緒を縛り付けているようにも見えます。私が愛した江戸の職人や、寄席の楽屋の連中は、もっと泥臭く、もっと平然と、そうした事柄を『面白ければなり』と笑い飛ばして受け入れていたものです

ふむ。理解とは、頭でするものではなく、自然と腑に落ちるものであるべきだね。私が『土(※)』という小説を天下に紹介した時のように、既存の尺度を捨てて、その人自身の持つ特殊な趣味や性情を、ありのままに見つめること。それができて初めて、文壇も世間も、真の新領土を手に入れることができるのだろう。しかし、今の世の中は、あまりに記号化を急ぎすぎる。LGBTという言葉の枠の中に、また新しい型を作って、その人を閉じ込めてしまわないか、私はそれが少し気がかりだよ

ええ。私はこれからも、この日和下駄を鳴らして、名もなき路地裏の情景を書き留めていくつもりです。そこには、男も女も、あるいはそのどちらでもない者も、ただ一人の人間として、それぞれの悶えや悦びを抱えて生きています。先生、夜の銀座の灯火の下では、誰もが等しく影を持っています。その影の色を無理に暴き立てるのではなく、ただ、そこに在るということを認め合う……。それが、我々が目指すべき、本当の風流というものではないでしょうか

影を認め合う、か。いい言葉だね。荷風君、今夜はもう少し、この琥珀色の液体の中に、人間という不可解な生き物の断片を探してみるとしようか
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