【明治文豪、令和を歩く】第69回:なんだかんだ地球温暖化
冬の日の午後、漱石の書斎。窓の外は妙に暖かく、本来なら雪を待つ季節だというのに、庭の木々は季節を忘れたかのように瑞々しい。荷風はいつものように日和下駄を傍らに置き、蝙蝠傘を杖のようについて座っている

……荷風君、近頃の空模様はどうも解せぬな。一月だというのに、この生暖かい風は何だ。私の知る冬というものは、もっと凛として、身を切るような寒さが骨身に沁みるものだったはずだが。まるで地球そのものが、文明の熱に浮かされて寝込んでいるかのようだ

(窓の外を眺めながら)先生、仰る通りです。私は年中、東京の変わりやすい天気を信用せず、日和下駄と蝙蝠傘を手放しませんが、この頃の空はもはや『変わりやすい』という度を超しております。かつて私が『日和下駄(※)』を綴った頃、今戸橋の木造が鉄に変わるのを嘆きましたが、今は橋どころか、季節の巡りそのものが破壊され、跡形もなくなろうとしている。江戸川の岸辺に露草が咲くのを待つまでもなく、冬が冬としての貌(かたち)を失いつつあります」

『地球温暖化』という言葉を耳にするたび、私は人間が作り出した『自己本位』の果てを見る思いがするよ。我々が西洋の背中を追いかけ、がむしゃらに石炭を焚き、機械を回してきたその煤煙が、今になって天を覆い、逃げ場をなくした熱が地上を焦がしている。文明の開化とは、自然という大きな懐を少しずつ削り取っていく作業だったのかもしれんな

ええ。私はかつて、夕立が来る時に小鳥が逃げ惑う様を興ありと眺めましたが、近頃の雨は風情ある夕立などではなく、すべてを押し流さんとする暴力的な驟雨です。春信や歌麿の絵に描かれた、雪中を歩く美人の姿も、やがては古本の中だけの幻となるのでしょう。生理的に人間の容貌や体格が変わるように、この大地もまた、熱病に侵された別の生き物へと変貌を遂げようとしている。それは、私のような耽美を好む者にとっては、あまりに無惨な光景に映ります

無惨、か。全くだ。我々はあまりに多くを求めすぎた。冬には冬の寒さを耐え、夏には夏の暑さをしのぐ。その不便さの中にこそ、思索の深まりや、一服の茶を愛でる余裕があったはずだ。今の世の中は、どこへ行っても一定の温度に保たれ、季節の移ろいを肌で感じることが難しくなっている。その代償として、地球全体が熱を帯び、取り返しのつかない破滅へと向かっているのだとしたら、これほど愚かな喜劇はあるまい

私はこれからも、この日和下駄を履いて歩き続けるでしょう。たとえアスファルトが熱を放ち、泥濘が干上がろうとも、せめて自分の足裏で、この変わり果てた東京の地熱を記録しておきたいのです。先生、来年の虫干の頃、私は一体どのような気候の中で古い小袖を広げているのでしょうか。その時、まだ涼しい風が植え込みを揺らしてくれていることを願わずにはいられません

ふむ。我々にできるのは、せめてこの狂った季節の中でも、自らの内にある静寂を失わぬことだけかもしれん。荷風君、外は妙に暖かいが、やはり冬は冬だ。冷たい茶を啜るよりは、熱い湯気に顔を寄せて、この異常な時代をやり過ごすとしようじゃないか
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