【明治文豪、令和を歩く】第72回:インフルエンザやむをえないさ
現代の東京、とある落ち着いた喫茶店のテラス席にて。路地裏の静けさを好む二人の文豪が、カップを前に向かい合っている。

やあ、荷風君。こうして銀座の雑踏を眺めながら珈琲を啜っていると、自分がいつの時代の人間か分からなくなりますな。しかし、この『令和』という時代も、なかなか落ち着かない。近頃はまた、流行風邪……インフルエンザとやらが猛威を振るっているようですが、君は健勝ですか

先生、お久しゅうございます。私は相変わらず、こうしてカッフェーの片隅で世態を観察しておりますよ。インフルエンザですか……。さきほども、あちらの給仕女が鼻を赤くして、所在なげに客を待っておりました。江戸の昔から『疫病』の類は、人々の生活を容赦なく変えてしまうものですが、今の世は少しばかり騒ぎすぎのように思えますな

全くだ。私のいた頃も、風邪を引けば床に伏して、ただひたすら苦痛が過ぎ去るのを待つしかなかった。今の人は、すぐに効く薬があると言って右往左往しているが、結局のところ、病というものは肉体と精神の調和を乱す厄介な客人に違いありません。どうも、この時代の空気そのものが、我々の体質を少しずつ変質させているような気がしてならない

仰る通りです。時代の推移は、単に生活の形を変えるだけでなく、人間の容貌や、あるいは生理的な作用にまで影響を及ぼす。昔、浅草の矢場で遊んでいた頃の女たちの風采と、今の唱歌を歌いながら働く娘たちとでは、同じ人間とは思えぬほどです。病に対する抵抗力というものも、案外、こうした時代の空気の中で、ひ弱なものに変化しているのかもしれません

ははあ、君らしい観察だ。私は、この流行風邪に罹ると、どうも思考が散漫になっていけない。頭の中に霧が立ち込めたようで、一文を綴るのにも、蟻が荷物を運ぶような、妙に重苦しい労役を感じてしまう。君は、病の折にはどうされているのかね。やはり、何か好い薬でも?

私は、かつて新橋の芸者から教わった『現の証拠(げんのしょうこ)』、いわゆる矢筈草を煎じて飲むのが、何よりの慰めでした。腹を痛めた時などは、日本橋の老舗で購わせたそれを土瓶で煎じ、茶の代わりに啜ったものです。今の高度な医薬も結構ですが、私はどうも、古い小袖を葛籠にしまう時のような、あの古風な手触りのある養生法に惹かれるのです

矢筈草か。それは風流だ。現代の薬は、あまりに即物的で、情緒というものがない。一錠飲めば熱が下がるというが、それでは病と向き合う余裕さえ奪われてしまう。私は、この流行風邪の熱に浮かされながら、窓の外の木々に滴る雨が凍るのを見つめるような、そんな静かな孤独を、むしろ大切にしたいと思うこともある

先生のその隠遁の趣、私にもよく分かります。世間が予防だ、流行だと騒ぎ立てるほど、私は一人、古い書物をあさるか、あるいは夕日に染まる空の色を盃洗の水に映して眺めていたい。インフルエンザという名がつこうが、それは結局、自然が人間に与えた一時的な休息の合図なのかもしれません

全くだ。まあ、あまり無理をして筆を動かし、苦悶の淵に沈むのも考えものですな。病の時は病に従う。それが、このせわしない現代を生き抜く、我々のような古い人間の知恵というものでしょう
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