【明治文豪、令和を歩く】第73回:マイナンバーカードたまらん
東京の喧騒から少し離れた、静かな喫茶店の片隅で。漱石は琥珀色のコーヒーを、荷風は窓の外を眺めながら冷めた紅茶を手にしている

荷風君、近頃の役所というものは、我々の鼻先に妙な札を突きつけてくる。マイナンバーカードとか申して、まるで人間を十六桁の数字で括り出そうという算段らしい。君はあれをどう思うね。私はどうも、自分の存在が薄っぺらなプラスチックの板に封じ込められるようで、あまり愉快な心地がしないのだが

先生、仰る通りです。私はとうに、世間から見捨てられた『生活の落伍者』を自認しておりますが、あのような電燈の光で白日の下に晒されるような真似は、真っ平御免にございます。江戸の昔ならいざ知らず、昭和の世相さえ老眼鏡の曇りを拭う間に過ぎ去ったというのに、現代はさらに無粋極まる。個人の秘密も市井の情緒も、すべてあの小さな札の中に畳み込まれてしまうのでしょう

全くだ。人間というものは、もっと複雑で、捉えどころのない影のような部分があってこそ面白い。それを無理に整理整頓して、一列に並べようとするのは、文明の傲慢というものだよ。私はあのカードの申請書を見ただけで、胃の腑がしくしくと痛み出すのを感じた。利便を説く声は聞こえるが、それが個人の自由を切り売りした代償だとしたら、随分と高くつく買い物ではないか

左様でございます。銀座の柳の下を歩く断髪の女子も、今や皆あの札を懐に忍ばせているのでしょうか。私は、かつての戯作者たちが名もなき市井の徒として、浮世の風俗を密やかに書き留めていた、あの隠微な自由が懐かしい。すべてを記録し、管理しようとする企ては、芸術の命である『俗』や『情』を、冷徹な機械に置き換える行為に他なりません。私は疾病と老耄を友として、静かに死の門へ至りたいと願う者。あのような最新の仕組みに組み込まれるのは、まるで生きながらに標本にされるような心持ちがいたします

標本か、言い得て妙だ。君も私も、かつては西洋の風に当たり、新しい時代の空気を吸った身だが、この『番号で呼ばれる時代』には、どうにも馴染めそうにないな。無理に馴染もうとすれば、それこそ身体のあちこちに不調をきたしてしまうだろう。私はやはり、数字に還元できない、あの割り切れない人間の業を見つめていたいのだよ

ええ。世間がどれほど便利になろうとも、私は路地裏の湿った空気や、名もなき人々の溜息の中にこそ、真実があると思いたい。先生、あのような札は、然るべき場所に捨て置くのが、我々のような古い人間にはお似合いかもしれません。大正の遺老を捨てる山がどこかにあるならば、私は喜んでそこへ向かいましょう

ははは、山へ行く前に、もう一杯コーヒーを頼もうじゃないか。幸い、この店ではまだ、番号ではなく『お客さん』と呼んでくれるようだからね
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