【明治文豪、令和を歩く】第96回:エヴァンゲリオンフォーエバー
東京の喧騒から少し離れた、静かな喫茶店の片隅で。漱石は琥珀色のコーヒーを、荷風は窓の外を眺めながら冷めた紅茶を手にしている

……荷風君、先ほどから街の至る所で見かける、あの巨大な人形のような絵は何だい。紫色の鎧を纏ったような、あるいは皮膚を剥ぎ取られた巨人のような……。エヴァンゲリオンとかいうらしいが、あれもまた現代の『鵺』の一種かな

ああ、あれですか。私も浅草の活動写真館の看板などで目にしましたが、どうにも正視に耐えぬ代物です。鉄の機械かと思えば、中には生々しい肉体が脈打っているとか。無機質な文明と、御しがたい生物の本能が無理やり縫い合わされたような、実に薄気味悪い造形ではありませんか

ふむ、機械と肉体の混淆か。それは現代人の内面をそのまま形にしたようでもるな。あの物語の主人公という少年を見たが、どうにも煮え切らん。巨大な人形を操って世界を救えと言われながら、常に自らの存在に怯え、殻に閉じこもろうとしている。まるで、私の小説に出てくる、自意識の迷宮に迷い込んだ高等遊民を、無理やり戦場に引きずり出したような痛々しさだ

先生、仰る通りです。しかし、あの少年の抱える孤独や、親子の断絶……それは明治の世にもあったことですが、現代ではそれが巨大な鋼鉄の檻の中に閉じ込められ、増幅されている。私はあの物語に漂う、ある種の『滅びの予感』には、少しばかりの共感を覚えるのです。すべてが液体となって溶け合い、個の境界が消えてしまうという結末は、江戸の情緒がセメントに塗りつぶされていく絶望と、どこか通じるものがある

境界が消える、か。それは一見、救いのように見えて、実は個の死を意味する。私は、人間というものは、たとえどれほど孤独で、どれほど他者と相容れぬ存在であったとしても、その『個』という硬い殻を抱えて生きていくしかないと思うんだ。あの少年が、最後に他人との摩擦を選んだのは、ある意味で人間としての矜持を取り戻した瞬間だったのかもしれん

ですが先生、あの騒々しい光と音、そして理解を拒むような複雑な設定……。あれを享受している若者たちを見ていると、私はやはり、静かな書斎で古い漢籍でも開いている方が性に合っていると感じます。あのような巨大な虚構に身を委ねずとも、私たちは一丁の豆腐、一献の酒に、十分に宇宙を見出すことができますからな

ははは、全くだ。あの紫色の巨人が街を闊歩する姿を想像するだけで、胃の腑が落ち着かなくなる。我々は、あの物語の結末を待つまでもなく、この隅田川のほとりで、自分たちの『個』を静かに守り通すとしようじゃないか。……さて、そろそろ日が暮れる。あの不気味な光が灯る前に、一献始めよう
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