【明治文豪、令和を歩く】第44回:午年あっという間
漱石は、手帳の余白に何やら一頭の馬のような、あるいは奇妙な生き物のような図案をさらさらと描き込みながら、ふと顔を上げる。荷風は、窓の外の遠い景色を眺めながら、かつて自分が馬車に揺られて異国の街を巡った日々の記憶を、手元の珈琲の苦みの中に探っているようだ

……荷風君、気がつけば今年は『午年』だそうだね。十二支というのも、こうして巡ってくると、月日の流れの速さを痛感させられる。馬という生き物は、古来より人間を乗せて疾走するものだが、現代の文明の進歩というやつは、その馬の足をさらに機械に置き換えて、我々をどこへ連れて行こうとしているのか。私はかつて、友人が家まで馬を連れてきたという君の話を聞いて、その無鉄砲さに驚いたものだが、今の世では馬を飼うどころか、本物の馬の目を見る機会さえ稀になってしまったな

先生、あの九段の坂を馬を連れて息を切らして上ったのは、若気の至りという名の放蕩ですよ。しかし、あの頃の東京には、まだ馬の蹄の音が石畳に響くような、情緒ある静寂が残っていました。2026年が午年だそうですが、今の若者たちは、馬という動物に何を重ねるのでしょう。競馬場の喧騒か、あるいは画面の中の架空の存在か……。私は、かつて巴里の街角で、夕暮れ時に辻馬車が石畳を叩くあの乾いた音を思い出すたび、今の自動車の排気音ばかりが響く街が、何とも味気なく思えてなりません

蹄の音か。それは確かに、耳に心地よい響きだったろうね。馬は、ただ走るだけでなく、その背に人間の孤独や、あるいは高慢さをも乗せて歩く。私の描く登場人物たちも、時代の変わり目という荒野を、手綱も持たずに彷徨っているようなものだ。午年という節目に、人々はまた『飛躍』だの『疾走』だのと威勢のいい言葉を並べるだろうが、私はむしろ、馬が草原でふと立ち止まって、遠い空を眺めるような、そんな静かな時間こそが今の日本人には必要だと思うのだがね。君はどう思う、荷風君

さよう。疾走することばかりが能ではありません。私は、流れる激流に身を任せながらも、時折、巌角に攀じて憩うような、そんな漂泊の精神を愛します。2026年になろうとも、私は相変わらず、裏通りの古本屋で江戸の戯作者たちの残り香を追い、誰もいない庭先で鶏が菓子を啄むのを眺めていることでしょう。世間が午年を祝って浮足立とうとも、私は自分の歩調を崩すつもりはありません。馬車に置いていかれた老いぼれと言われようと、その孤独の中にこそ、私にとっての真実があるのですから

ははあ、君らしい。私も、世の中がどれほど速く進もうとも、自分の歩幅でしか歩けんよ。馬のように颯爽と駆け抜けることはできんが、せめてこの珈琲が冷めるまでの間くらいは、時代の速度を忘れていたいものだ。午年が終わる頃には、この国の文学という名の馬は、どこまで進んでいるのか……。まあ、我々のような隠居人は、こうして昔語りに花を咲かせながら、その行く末をのんびりと見守るのが一番の贅沢なのかもしれんね

ええ。文明の馬車がどれほど遠くへ行こうとも、私はこの築地の片隅で、静かに墨を磨り続けていようと思います。先生、次の午年が来る頃には、また新しい『写生』の題材が見つかるかもしれませんな。その時はまた、こうして苦い珈琲でも飲みながら、ゆっくりと語り合いましょう
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