【明治文豪、令和を歩く】第41回:推せる?おせち
漱石は、卓上に運ばれてきた重箱を模したような菓子皿を、好奇心と幾ばくかの困惑が混じった目で見つめている。荷風は、その色鮮やかな煮物の盛り付けを眺めながら、どこか遠い時代の台所の匂いを思い出しているようだ

……荷風君、この『おせち』というものも、近頃は随分と様子が変わったようだね。私が幼い頃、牛込の家で見たのは、もっとこう、地味で、家庭の匂いがしたものだが。今の百貨店で売られているものは、まるで工芸品か、さもなくば宝石箱のようだ。一つ一つの具材に、やれ長寿だ、やれ子孫繁栄だと理屈をこねて詰め込んである。現代人は、食べる前にまず、その『意味』を咀嚼せねばならんのかね

先生、あれはもはや料理ではなく、正月の『記号』ですよ。かつて江戸の商家で、平箱に詰められた黒豆や田作りには、一年の労働を労う素朴な喜びがありました。しかし今のそれは、劇場の舞台装置のようにあまりに明るく、色彩が強すぎる。私は、あの冷え切った練り物や、砂糖を過分に使った栗きんとんの塊を口にすると、どうにも胃のあたりが重くなる。あれを三日も食べ続けるのは、一種の苦行に近い。私はやはり、築地の静かな家で、焼きたての餅に醤油をひと塗りして、海苔を巻いて食べる方が、よほど五臓六腑に染み渡ります

ははあ、君もそう思うかね。私も、あの重箱の隅々まで隙間なく詰め込まれた様子を見ていると、どうにも息苦しくなってしまうのだよ。まるで現代の都市そのものではないか。効率よく、美しく、しかしどこか冷淡で、個人の好みを許さない強制的な調和がある。私は、あの中にある昆布巻き一つを箸で持ち上げるのにも、何だか世間の義理を担ぎ上げるような重みを感じてしまう。食というものは、もっとこう、自分の腹の空き具合に応じて、自由に、勝手気ままに楽しむべきものだと思うのだがね

全くです。今の世の料理店や劇場の食堂で出される料理もそうですが、見た目ばかりが華やかで、中身に『味』という名の魂が欠けている。私は、雨の降る夜に遠い道をたどって帰り、薄暗い青燈の下で、残り物の煮しめを肴に独り酒を汲む……。そんな、人目に触れぬ寂寥の中にこそ、本当の正月があるように思えてなりません。あのような豪華な重箱は、大勢で賑やかに騒ぎたい人々に任せておけばよいのです。私のような隠栖を望む身には、少々の漬物と、温かい茶があればそれで充分ですよ

孤独を愛する君らしい言葉だ。しかし、あのおせちを囲んで、家族が和気藹々と過ごす光景を、私は一概に否定する気にもなれんのだよ。たとえそれが、百貨店が作り上げた虚飾の伝統であったとしても、人々がそれを通じて『一年の始まり』を実感できるのであれば、それはそれで一つの救いなのかもしれん。まあ、私はあの甘すぎる伊達巻を一切れ食べれば、もう半年は甘いものは御免蒙りたい気分だがね。どうだい荷風君、この後の珈琲には、砂糖を入れずに楽しむとしようじゃないか

それがよろしゅうございます。この苦みこそが、浮世の甘い幻想から我々を醒ましてくれる、唯一の良薬ですから。重箱の虚飾も、街の喧騒も、この一杯の黒い液体の向こう側に追いやってしまいましょう
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!