【映画】「聴く隣人のいるところ」感想・レビュー・解説
個人的にはメチャクチャ良い映画だった。これは観て良かったなぁ。ただ、そう感じない人も多いかもしれない。「全寮制の高校の日々をただ映しただけの作品」だからだ。本作の舞台となっている「キリスト教愛真高等学校」のことはまったく知らなかったが、「スマートフォンもインターネットもない島根の山奥にある学校で、全校生徒30人弱で共同生活をする」という世界観である。
で、何が良かったのかと言えば、本作で映し出される「対話」である。上映後にあった監督のトークイベントでも、「本作は高校生活を映し出した作品だが、『対話の物語』として撮ったつもりだ」みたいなことを言っていたように思う。
で、僕は本作を観ながら、普段よく参加している哲学カフェのことを連想した。ここでは具体的な団体名は伏せるが、学生がやっている哲学カフェである(哲学カフェというのは、「特定のカフェ」を指すのではなく、「色んな人が集まって対話する場」みたいな感じであり、僕が行ってる学生哲学カフェは大体貸会議室みたいな場所で行われる)。「運営は学生のみ」という制約があるが、社会人の参加も可能である。ただ、やはり学生が運営していることもあって、参加者の顔ぶれは学生が多い。僕は他の哲学カフェにほぼ行かないので比較は出来ないが、色んな人の話を参照するに、これだけ学生が多く参加する哲学カフェはかなり稀だと思う。
で、そんな学生哲学カフェに入り浸っている僕は、まさに本作を観ながら「哲学カフェっぽいな」と思っていた。「寮にドライヤーを導入するか」みたいなことさえ面倒な対話を経て決定するようなプロセスが存在するし、そんな環境が当たり前だからだろう、学生同士も「お互いが違う存在で、そしてだからこそ理解するために対話が必要だよね」みたいなことが当たり前になっている感じがした。
本作は基本的に、学校生活の日常をカメラで収めるだけの映像が中心だが、時折インタビュー的なものもある。その中に、35期生の男の子のものがあり、彼が、「最初は嫌いだったし傷つけ合っていた奴が、今では一番の親友になっている」みたいなことを言っていたのが印象的だった。まあそういうことは、この高校じゃなくても起こり得るかもしれないが、僕の最近の若者へのイメージ(偏見)からすると、「『あっ、ダメだ』と思ったらすぐに諦める」みたいなコスパ・タイパ的発想が人間関係にも当然のように滲み出ているような気がする。そう考えると、「一番嫌いだった人が親友になる」みたいな状況もまた、「対話」をベースにしているからと言えるかもしれない。
さて、話を戻す(というか再び脱線させる)が、その学生哲学カフェでは最近ZINE的なものを出していて、つい最近それを手に入れたので、一昨日ぐらいから少しずつ読み進めていた。本作を観るのに映画館に向かう車中でも当然読んでいたのだけど、読みながら改めて僕は、「ドンピシャで『ここしかない』って場所を探し当てたんだなぁ」と改めて感慨深い気分になった。
そのZINEには運営の人(だけではないが)が寄稿していて、そしてそんな彼らの文章がとても面白い。すべてではないが、その多くが「自己開示」的な文章であり、そしてそれらは、雑に要約するなら「生きづらさ」的なものに触れていると言っていいだろう。
さて僕は、そういう運営の人たちと結構関わる機会がある(入り浸っているので)ため、「あの人がこういう文章を書くのか」的な面白さも感じられる。運営の人たちも、何となく見ているだけだと「楽しそうな大学生(高校生もいるが)」に見えるのだが、直接話を聞く中でも「そんなこと考えてるんだ」という、割とネガティブな発想が知れたり、さらに先に紹介したZINEでも「そんなこと考えてるんだ」みたいな感覚になれる文章を書いていたりする。まあもちろんこれは、「今の若者がみんなそう」という話ではなく、「哲学カフェに引き寄せられる人にはそういう傾向がある」って話なのだが、「もっと楽に生きられればいいのにね」と感じることが多い。
そしてそれは、昔の自分に対して感じることだったりもする。僕は、最近はもうメンタル的にも大分穏やかになっているが、20代の頃は特にメンタルが死んでて、よくネガティブなことを考えていた。だから、気持ちは凄くよく分かる。
で、学生哲学カフェで喋ったり、ZINEの文章を読んだりして強く感じたのが、「『孤独な者』は引き合うんだよなぁ」ということである。
ここで言う「孤独」というのは「友達がいない」みたいなことではない。そうではなく「思考の孤独」みたいなことだ。
僕は昔から周りの人間と話が合わないことが多く、特に学生時代は大変だったが、書店で働き始めると、バイトの子とかに面白い奴がムチャクチャたくさんいて、それでどうにか生きのびてこられたという感覚がある。そして今は、学生哲学カフェでメチャクチャ話せるので素晴らしい。ホントに、「ここしかない」というぐらいドンピシャな場所を偶然引き当てたという感じで、ホント、「これでまだしばらく生きられそうだな」と日々実感しているところである。
哲学カフェの参加者の1人(女子大生)が、その対話の場について「酸素が濃い」という表現していたのがとても印象的だった。いやホント、的確すぎる表現だなと思う。そしてこれはつまり、「普段は酸素が薄い場所で生きている」という主張でもある。その子もまた、日常の中では話が合う人が全然いないようで、だから「こんな場所があるなんて!」と感動していた。その気持ちはメチャクチャ分かる。
僕も本当に、日常生活の中では「対話」というのはほぼ成立しないなと感じている。「対話」を殊更に定義するつもりはないが、「お互いが全然違う意見・価値観を持つ人間同士だと諒解した上で、相手の主張を否定することなく、それでいて、自分の主張も臆せず口にし、特に結論が出なくても良しとする」みたいな風に僕は捉えている。そしてその要素のいちいち、つまり「お互いが全然違う意見・価値観を持つ人間同士だと諒解する」「相手の主張を否定しない」「自分の主張も臆せず口にする」「結論が出なくても良しとする」みたいなことが大体において成立しない。
だから大体の場合、「世の中」「社会」と言われる場所には馴染めないのだ。そういう感覚を持つ人が、僕が行っている学生哲学カフェには多いように思う。
「酸素が濃い」というのはだから、先に挙げたような要素が当たり前に成立しているからこそであり、僕も「こんな空間が存在したんだ」と日々感動している。
で、同じような感覚を、僕は本作『聴く隣人のいるところ』が映し出している「愛真高校」にも感じたのだ。ここでは「対話」が成立しているし、しかも、それが当たり前みたいに成立しているのが素敵だなと思う。
さて、本作の監督も実はこの「愛真高校」が母校なのだそうだが(奥さんともこの学校で出会っているそうだ)、本作の冒頭でそんな監督が母校を撮ろうと考えた理由みたいなものが字幕で表示される。ざっくりこんな文章だった。
(ちなみにだが、本作は元々映画として上映するために撮られたのではなく、スマホの携帯が許されていない生徒たちが日々の日常を記録する手段がないことを背景に、その日常生活を記録してアーカイブとして残せればと思ってカメラを回し始めたそうだ)
【20年前に卒業した母校は、異なる人々と暮らす営みの中に学びがあるという方針を持っていた。
しかし卒業後、あの日々には意味があったのか? と感じるようになり、記憶から遠ざけてしまってもいた。
改めて母校を尋ねてみると、時を経てもなお、母校は他者を諦めていなかった。】
「あの日々には意味があったのか?」の深い意味は良く分からなかったのだが、その点についてはトークイベントの中で補足があった。監督は、息子が5歳になって遠出できるようになったのを機に愛真高校を訪れることにしたそうだが(愛真高校がある最寄り駅は、「東京から公共交通機関で最も行きにくい駅」と自治体が打ち出していたほどアクセスが悪いところにあるという)、そこで2つの感覚を抱いたという。1つは「息子にとって良さそう」であり、そしてもう1つが「社会に出ても『対話』の機会なんてほとんどないんだから、こういうやり方を続けていくことに意味はあるのか?」だった(念のためだが、監督が実際に話した順番は、「こんなやり方に意味はあるのか?」に続けて、「でも、息子のためには良いと思った」である。ここでは文章の流れの分かりやすさ的に逆にした)。
確かにその通りではある。僕が日常の中で「対話が成立しない」と感じているのとまったく同じことを言っているわけだが、一般社会においては「対話」なんてほぼ存在しないわけで(「ディスカッション」「ディベート」「ブレスト」みたいなものは色々あるだろうが)、だから「対話に力点を置いた教育をしたところで意味なんかあるのか?」という感覚を抱いてしまったというわけだ。
まあ、そういう感覚は理解できる。学生哲学カフェのテーマにも「哲学カフェに意味はあるのか?」的なものがあった気がするし、参加者同士が「ここでこんなことを話してたって、社会には何も影響しないけどね」なんて自虐的なことを言ったりする場面もある。そう、特に「結論を見出さなくても良い」みたいなスタンスを持つが故に、社会的には「対話」は有用なものと見做されないことが多いだろうと思う。
でも、個人的には、「『不要なもの』と見做されているだけ」であり、本質的にはとても重要なものだと考えている。
例えば今は「多様性」という言葉がある種時代のキーワード的な扱いになっているし、それ自体は良いことだと思うのだが、でも「多様性」という言葉をある種ファッション的に消費しているだけだよなという感覚もある。というのも、「多様性」の本質は「他者理解」のはずだし、そしてそれは「無理にでも共感しようとする」みたいなことではなくて「自分とは違うことを理解する」という意味だからだ。これはまさに「対話」の大前提である。
しかし僕にはどうも、「多様性」と「他者理解(違うことを理解する)」が結びついていない印象がある。それは、「かつては『ゴールドと交換できる』からこそ価値があったはずの通貨が、ゴールドとの連携を断たれてもなお価値を有している」みたいな違和感に近いものがある。「他者理解(違うことを理解する)」と「多様性」を切り離し、「『多様性』だけで十分だよね」みたいなスタンスがなんか当たり前に蔓延っているように感じられてしまうのだ。
うーん、そうじゃないよなぁ。
「多様性」を重視するなら、それと比例して「対話」も重視されなければならないはずなのだが、個人的な印象ではそうなっていない。それは「他者理解を経ずに多様性を進める」みたいな状況を生み出すし、結局そういう帰結が、少し前に問題になった新宿の複合施設の「ジェンダーレストイレ」のような話に繋がるのだと思う。
「多様性」はもはや「企業に求められるべき最重要課題」の1つにもなっている気がするし、そしてだとすれば、本質的には「対話」の重要性も高まっているはずだ。そうなっていないのは、多くの人が「多様性」の本質を上手く捉えていないからであり、そういうギャップはこれからどんどん埋まっていくのではないか。つまり、「やっぱり『対話』ってメチャクチャ大事だよね!」という社会的コンセンサスが当たり前に出来ていく世の中が実現するんじゃないかという気がしているのだ。
だから、今この時代に「愛真高校」のドキュメンタリーが上映されることには大きな意味があるように思う。
トークイベントの中で監督は、「愛真高校は当初は各学年100人ほど、全校生徒300人ぐらいでスターとしたが、僕が在籍していた時で学年の人数が70人(全校生徒200人)ぐらいで、密着した2024年は学年の人数が10人弱(全校生徒34名)になっていた」みたいに言っていた。そんな生徒数で経営が成り立つのかよく分からないし、監督も「いつまでこの学校が保つのか分からないから」と思い、それで記録しておきたいと考えたという側面もあるみたいだ。これは決して「対話が求められていない」みたいなことではなく、やはりスマートフォンもインターネットもない環境はキツイみたいなことで忌避されているという側面が強いみたいだが、愛真高校ほど厳しい環境にしなくてもいいから、もっと対話をベースにした学校があってもいいかもしれないとも思う。
ちなみに、そういう学校を取り上げたドキュメンタリーも昔観たことがある。『夢みる小学校』『夢みる公立校長先生』という映画で、対話がメインなわけではないが、「1年間の授業計画を生徒自身が考える」みたいななかなかぶっ飛んだ環境が映し出されているので非常に興味深かった。
というわけで、本作『聴く隣人のいるところ』の中身にまるで触れていないので、ここからあれこれ書いていこう。
本作には色んな場面が映し出されるのが、メインとなるのが「文化祭(の準備)」と「拡大寮委員会」「全体会」である。「文化祭の準備」では、生徒の1人が書いてきた演劇の脚本にあれこれ意見を言ったり、合唱の練習をしたりと言った姿が映し出される。
で、やはり印象的だったのが「拡大寮委員会」「全体会」である。「拡大寮委員会」は、いくつかある寮の寮長が集うもので、「全体会」は生徒会(という名前はなさそうだが)と教師を含めた「愛真高校の問題について考える組織」である。これ以降はこれら2つを「委員会」とまとめて表記するが、まさにこの委員会が「対話」の実践の場だった。
興味深かったのが、「IHコンロを導入するかどうか」みたいな話し合いである。「便利だから入れたらいい」みたいな話で終わらないのだ。生徒たちの中には「愛真らしさ」みたいな感覚が結構あるようで、「『愛真らしさ』を踏まえると、IHコンロの導入はどうなんだ? と考えちゃう」みたいな意見を口にする人がいた。
この「愛真らしさ」にはきっと色んな要素が含まれているのだろうが、「IHコンロ」の議論の場においては要するに「不便さを享受する」という意味で使われていた。スマートフォンもインターネットも触れない環境にいるわけで、それは高校生の生活としては果てしない不便さと言っていいと思う。でも、彼らはそれを知った上で自らやってきたわけで(監督の話によると、親に入ってほしいと言われた、みたいな生徒もいるようだが)、元々そういうストイックさの中にいるのである。
そしてそれ故だろう、「便利なものに頼っちゃうような生活でいいわけ?」みたいな感覚が出てくるのだと思う。ちょっとビビったのが、愛真高校では洗濯はなんと手洗いである(冒頭で映っていた壁の掲示に「洗濯機」って文字があった気がするから、洗濯機がないわけではなさそうだが)。この令和の時代に、手洗いである。しかしそんな生活環境にいるからこそ、「IHコンロなんか導入していいのかな?」みたいな疑問が出てきたりもするというわけだ。
ちなみに、委員会に出ていた教師が、「今回15年ぶりにドライヤーの導入が議題に出され、可決されましたけども」みたいなことを言っていた。ドライヤーがまったくなかったのか、数が足りないから増やすことにしたのか分からないが、まったくなかったのだとしたら、特に女性には相当無理ゲーな環境ではないだろうか。なんとなく、京都大学の吉田寮を連想した。
委員会では、「参加者の2/3以上の賛成があれば可決」というルールだそうで、そして生徒も教師も変わらず1票である。対話をするだけして、最後は多数決で決めるというわけだ。
しかし本作では、「多数決だけでは決められない議題」も扱われていた。この議題はなんと、学校創立以来初めて取り上げられたものだそうだ。それが、「誓約書の中の『この内容を書き換えることは出来ない』という文言を削除する」というものだ。
愛真高校の入学の際には誓約書へのサインが必須のようで(その誓約書にどんなことが書かれているのかは紹介されなかった)、そしてその誓約書の中に「この内容を書き換えることは出来ない」という一文が含まれているのだ。つまり、誓約書の内容は、創立以来1文字たりとも変わっていないというわけだ。
で、その点に疑問を呈した生徒がいる。彼は決して「内容を変えたい」と主張しているのではなく、「内容を変える余地が一切ないのは間違ってるんじゃないか」と提起していたのだ。確かにその通りだなと思う。
とこのように、本作においては、委員会の中で対話が行われている場面が多いのだが、決してそれだけではない。例えば、トラックの荷台に載ってお弁当を食べていた女の子2人が「ルールと多様性の話」をしていたのも面白かった。2人は恐らく、何か具体的な状況について話をしていたのだと思うが、それが何だったのかは分からない。けど、「多様性っていってはみ出すのはどうなのかね」「ルールがある意味とは」みたいなやり取りをしばらくしていて面白かった。こういうやり取りが生まれるのも、「対話」が当たり前の日常だからだろうなと思う。
というわけで、個人的には凄く素敵な作品だった。トークイベントでは客席から質問も募っていたが、その中である女性が「娘を愛真高校に通わせようかと思ってたけど、彼女の(だったか夫のだったか)の親戚が愛真高校のすぐ近くに住んでて、それで昔から愛真高校の噂話を聞いてたもんで、もし入学させて娘がヘマしたら困るなと思って止めたんだけど、この映画を観て、娘をここに入れてたらまた全然違う人生だっただろうなと思った」と、ポジティブな意味での感想を言っていて、いや確かにそんな風に感じるよなと思ったりした。ただ、監督はちゃんと冷静で、「私が撮影をした年はこういう感じになったけど、毎年こうなわけでもないし、年によっては上手くいかないこともあるらしい」とも言っていた。
まあにしても、「良い学校だなぁ」という感想になっちゃうよね。以前観た『風たちの学校』で取り上げられていた黄柳野高校も凄く良かったが、愛真高校もまたとても良い学校だったなと思う。
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