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第53話 神の子に与えられた「権威」ってなんなの?|祈り、御言葉、そして目に見えない世界。


「神の子には、権威があります。」

Speedy UJやロギオンから、そんな話を聞くようになった。

でも当時の私は、

「権威って、何?」

だった。

神の子という言葉さえ、第52話で書いたように、最初に浮かんだのは格闘家のKIDだったくらいだ。

そこへさらに、

「神の子には権威がある。」

と言われても、正直よく分からない。

偉くなるということ?

強くなるということ?

祈ったら何でも思い通りになるということ?

そんなところから、私は少しずつ聖書を読み始めた。

「力」と「権威」は、同じものなのか。


これは、今まで聞いた中でも私にはとても分かりやすかった例えがある。

道路を巨大なトラックが走ってくる。

その前に、一人の警察官が立ち、手を上げる。

すると、トラックは止まる。

でも考えてみれば、警察官の腕力で何トンもあるトラックを止めたわけではない。

その人の筋肉が、トラックより強かったわけでもない。

その警察官の背後には、その立場に与えられた権威がある。

だから、止まる。


この話を聞いた時、

「ああ、なるほど。」

と思った。


神の子に与えられた権威というのも、

「私がすごくなった。」

という話ではない。


誰に属しているのか。

誰から遣わされているのか。

誰の名によって立っているのか。


その源は、自分ではない。

イエスさまには、「すべての権威」があるという。


聖書を読むと、イエスさまは本当にものすごいことをしている。

病の人を癒やす。

目の見えない人の目が開かれる。

嵐に命じると、風と波が静まる。

悪霊を追い出す。

わずかなパンと魚で、大勢の人を満腹にする。

死んでいた人さえ、生き返る。


いや、普通に読んだら、

「この人、何者なの?」

となる。笑


そして十字架で死なれ、復活されたイエスさまは、弟子たちにこう語られる。


「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」

マタイの福音書28章18節


最初の私は、

「すべての権威……?」

と、またよく分からなかった。

でも少なくとも聖書は、イエスさまをただの偉い先生として描いてはいない。

天においても地においても、すべての権威を持つ方として語っている。


イエスさまが実際にどんな奇跡を行ったと聖書に書かれているのかは、以前こちらの記事でまとめました。

34話 イエス・キリストの人生、ミラクルすぎる。


ただ、私が大切だと思うのは、

イエスさまが奇跡を使って、

「私ってすごいでしょ。」

と見せていたわけではないということだ。


苦しんでいる人がいた。

泣いている人がいた。

病んでいる人がいた。

お腹を空かせている人がいた。


その一人ひとりを見て、

愛によって動かれていた。


権威の中心にも、

私は愛を見る。

そしてイエスさまは、その弟子たちを遣わした。


さらに驚いたのは、そのイエスさまが弟子たちを遣わしていくことだった。

イエスさまが復活された後、聖書には、40日にわたって弟子たちに現れ、神の国について語られたと記されている。

そして、

「エルサレムを離れず、父の約束を待ちなさい。」

と弟子たちに語られる。

使徒の働き1章。


その後、イエスさまは天へ上げられる。

弟子たちは集まり、祈りながら待った。


そして五旬節の日。


突然、激しい風が吹いてくるような響きが家中に満ち、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

そして彼らは聖霊に満たされていく。

使徒の働き2章。


これ、私みたいにファンタジーや異世界ものが好きな人間が初めて読んだら、

めちゃくちゃワクワクする。笑


「え、聖霊が与えられるの?」

「賜物ってあるの?」

「何それ、新しい能力解放されるみたいじゃん。」


私の頭の中では、

聖霊の加護。

レベル99。

みたいな感じだった。笑


もちろん、ゲームの特殊能力の話ではない。


聖書をさらに読んでいくと、聖霊によって人それぞれに賜物が与えられ、それは自分をすごく見せるためではなく、互いに仕え、神様の働きのために用いられることが語られている。

コリント人への手紙第一12章。


でも私はイエスさまを信じてから、

もともと自分の中に与えられていたものが、さらに生かされていく感覚も経験してきた。

音楽。

映像。

レコーディング。

人へ伝えること。

家族と一緒に賛美すること。


以前は自分を表現するために使っていたものが、

今は、

「これを神様のためにどう使えるだろう。」

と考えるようになった。

「Jesus Christ あなたの弟子」


私がGod Spell Musicで最初に作った曲『KAMINOKO』には、こんな歌詞が入っている。


「Jesus Christ あなたの弟子」


当時の私は、今ほど「弟子」という言葉の意味を理解していたわけではなかった。

ロギオンから語られる御言葉にとどまり、そこから言葉を拾いながら書いた歌詞だった。


でも今見ると、おもしろい。


弟子とは、

イエスさまについて知識を増やすだけの人ではなかった。


イエスさまについて行く。

受け取る。

教えられる。

そして、遣わされる。


今ではこの曲を、長男Davyと一緒に歌っている。

父親である私が息子へ御言葉を伝えているつもりで、

実は私自身が、天の父からずっと弟子訓練されている。


父から子へ。

そして、その子から次の世代へ。


KAMINOKO feat.DavyPistiss feat.Davy

「イエス・キリストの御名によって。」


クリスチャンになって、最初の頃に聞いた言葉の中で、

正直、

「なんか、かっこいい。」

と思ったものがある。笑


「イエス・キリストの御名(みな)によって宣言します。」

「イエス・キリストの御名(みな)によってお祈りいたします。」


なんか、ものすごく力強く聞こえた。


でもこれも、だんだん分かってきた。


呪文ではない。


この言葉を最後に付ければ、

願いが発動するという魔法でもない。


イエスさまの御名によって祈るということは、

私自身の力により頼むのではなく、

イエス・キリストにより頼んで祈るということ。


私の言葉そのものに魔法があるわけではない。

私に特殊な霊力があるからでもない。


私がより頼んでいるお方が、

生きておられる。


だから、

「イエス・キリストの御名によって。」

という言葉は、

私にとってただの決まり文句ではなくなっていった。

私は昔から、「見えない世界」に何かがあると思っていた。


ここは、このnoteをずっと読んでくださっている人なら知っていると思う。

私は以前、

Buddhaの弟子だった。

スピリチュアルな世界にも深く入っていた。

二重スリット実験。

量子力学。

引き寄せの法則。

スターシード。

シリウス。

意識。

見えない世界。


ずっと、

「この目で見えているものだけが、世界のすべてではない。」

と思っていた。


そこまでは、今でも変わらない。


でも、

答えを探していた方向が変わった。


当時の私は、

「意識が現実を作っているのではないか。」

と考えていた。


自分がこの世界を見ている。

ならば、世界は自分の意識の中にあるのではないか。

その意識の中に神がいるのではないか。

さらに進んで、

「自分が見ているんだから、自分が神なんじゃないか。」

そんな方向にまで考えていた。


だから、

「あなたを造られた神様がいます。」

と言われた時、

最初は意味が分からなかった。


「え? 私、造られてるの?」

みたいな。笑


でも聖書を知っていくと、

私が探していた「見えない世界」そのものより、

その見えるものも、見えないものも造られた方へ、

目が向くようになっていった。

修行して手に入れるのではなく、恵みとして受け取る。


私がBuddhaの弟子だった頃、

「修行」という考え方は、とても理解しやすかった。


頑張る。

耐える。

努力する。

積み重ねる。

そして、その先で何かを得る。


これは日本人にも、すごく馴染みやすい考え方だと思う。


苦労したから価値がある。

簡単に手に入れたものは価値がない。

楽をするなんて良くない。


私自身、

「人生はそんな簡単なもんじゃない。」

みたいなことを言われたこともある。


だから最初、

「イエスさまを信じる。」

「神の子とされる。」

「神の子には権威がある。」

と言われると、

どこか、

「そんな簡単でいいの?」

と思う部分があった。


だって、修行して何年もかけて到達するのではない。

自分で神に近づいていくのでもない。


父なる神様の方から、

恵みとして与えてくださる。


最初は、

それがむしろ信じにくかった。


でも今は思う。


自分の努力で神になる必要なんて、

最初からなかったんだ。


私は神ではない。


私は、

神の子として生きればよかった。

「引き寄せ」ではなく、「引き上げ」。


ロギオンが、こんな表現をしていた。


「引き寄せの法則じゃない。

引き上げの法則だ。」


私はこの言葉が、すごく好きだ。


以前の私は、

「どうすれば、自分の欲しい現実を引き寄せられるだろう。」

と考えていた。


理想の未来。

成功。

豊かさ。

自由。


自分の意識を変えれば、

現実を引き寄せられるのではないか。


でも聖書を知っていく中で、

私は別のアイデンティティーを知った。


「私たちの国籍は天にあります。」

ピリピ人への手紙3章20節


私は、

この地上から逃げたいわけではない。


地上にいながら、

「私はどこに属しているのか。」

を知るようになった。


引き寄せることばかり考えていた私が、

今は、

天に属する者として引き上げられた。

そんなふうに受け取っている。


私にとっては、

大きな変化だった。

私たち夫婦が勝手に呼んでいる、「神サイクル」。


では、祈ると何が起こるのか。


これは、

「祈ったら何でも好きなように現実を変更できます。」

という話ではない。


私たちは神様ではない。


悪いことでも、

自分の欲でも、

祈りさえすれば何でも叶うというのなら、

それは愛ではない。


だから私は、

神様の御心を求める。


私と妻は、祈りの中で起こるこの流れを、

勝手に、

「神サイクル」

と呼んでいる。笑


祈る。

神様に求める。

御心に委ねる。

そして、現実の中で神様の働きを見る。


すると、

「うわ、神様すごい。」

となる。


感謝する。


信仰が強くなる。


そして、

また祈る。


するとまた、

自分たちでは想像していなかったような形で道が開かれたり、

人との出会いが与えられたり、

自分自身の心が変えられたりする。


また、

「神様、ありがとう。」

となる。


そしてまた祈る。


神サイクル。笑


私たち夫婦の中では、

かなり好きな言葉だ。


でも、その中心にあるのは、

「自分の理想を叶えること」

ではない。


愛だ。


父を信頼すること。

父に求めること。

御心に委ねること。

そして、働きを見たら感謝すること。


そうやって私は、

祈りを「現実操作」ではなく、

父との関係として学んでいる。

私の首には、「御言葉のつるぎ」がある。


『KAMINOKO』の冒頭に、

こんな歌詞がある。


「見えない敵と戦う

我らJTM 神の子

御言葉のつるぎ」


私は、

この「御言葉のつるぎ」という言葉が本当に好きだ。


好きすぎて、

ワイヤーで剣の形のペンダントまで作った。笑


今でも首から下げることがある。


聖書には、

「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」

と書かれている。

エペソ人への手紙6章17節


でも、その少し前には、

とても重要なことも書いてある。


私たちの戦いは、

血肉に対するものではない。

エペソ人への手紙6章12節


つまり、

人が敵なのではない。


誰かを憎んで、

「こいつを倒してやる。」

という話ではない。


恐れ。

嘘。

誘惑。

絶望。

分裂。

そして、罪。


そうしたものに対して、

御言葉に立つ。


聖書が語る「罪」については、以前、漫画『七つの大罪』を入口に詳しく書きました。

31話 漫画『七つの大罪』と、聖書が語る「罪」。


以前の私は、

罪と聞けば、

「犯罪とか、ものすごく悪いことをした人の話でしょう?」

くらいに思っていた。


でも聖書が語る罪は、

もっと私自身に近いものだった。


神様から離れ、

自分が主人になり、

自分の力で生きようとすること。


私はまさに、

「自分の意識で現実を作る。」

「自分の中に神がいる。」

というところまで行っていた。


だから今、

御言葉のつるぎという言葉は、

私にとって本当に大きな意味を持っている。


自分の思い込みを切る。

恐れを切る。

嘘を切る。


人を切るのではない。


御言葉によって、

自分を真理へ戻していく。

「言葉には力がある。」でも、何を言っても現実化するわけではない。


私は昔から、

言葉には力があると思っていた。


ラッパーだから、

なおさらだ。


何を語るか。

何を宣言するか。

何を自分に言い聞かせるか。


それによって人生が変わるという感覚は、以前から持っていた。


でも今は、

「好きなことを言えば、宇宙がそれを現実化してくれる。」

という意味では受け取っていない。


私が大切にしたいのは、

神様の御言葉に、

自分の言葉を合わせること。


自分が、

「もうダメだ。」

と思っている時。


でも御言葉は、

何と言っているのか。


自分が、

「私は価値がない。」

と思っている時。


父は、

何と言っているのか。


自分の感情より、

世の中の声より、

恐れより、


御言葉にとどまる。


そうすると、

ここで一つ、

とても大きなことに気づく。


そもそも、

御言葉を知らなければ、

何に同意すればいいのか分からない。


だからJTMでは、

何度も何度も、

同じことが語られる。


「御言葉にとどまりましょう。」

私が神になる必要はなかった。


以前の私は、

見えない世界の秘密を知れば、

自由になれると思っていた。


もっと世界の仕組みを知りたい。

なぜ日本はこうなったのか。

歴史を調べる。

社会の仕組みを調べる。

意識を調べる。

見えない世界を調べる。


何か、

この世界を支配している仕組みを全部理解できれば、

自分は自由になれるような気がしていた。


そして最後には、

自分の意識によって現実を作ろうとしていた。


でも今は、

全部を自分でコントロールしたいとは思わない。


父がいるからだ。


私が世界を造ったわけではない。

私が神になる必要もない。


私は、

神の子として生きればいい。


だから、

神の子の権威を知れば知るほど、

「私はすごい。」

ではなくなっていく。


むしろ、

「イエスさまって、本当にすごい。」

になっていく。


権威の源は、

私ではない。


イエス・キリストだ。

まとめ|権威とは、「誰に属しているのか」を知ることだった。


巨大なトラックを止める警察官の力は、

警察官の筋力ではなかった。


その背後に、

権威がある。


同じように、

神の子としての権威も、

「私自身が強くなった。」

という話ではない。


誰に属しているのか。

誰の名によって祈るのか。

誰のことばにとどまるのか。


私は、

イエス・キリストの御名によって祈る。


でも、それは呪文ではない。


御言葉を語る。


でも、それは自分の好きな現実を作る魔法ではない。


祈る。


でも、神様を自分の願いどおりに動かすためではない。


父を信頼する。

愛にとどまる。

御心を求める。


そして、

働きを見たら感謝する。


私が見えない世界を追い続けて、

ようやく知り始めたこと。


見えない世界の秘密そのものより、

見えるものも、見えないものも造られた方を知ること。


その方は、

私の父だった。


私は神ではない。


私は、

神の子だ。


そして、ここでもう一つの問いが残る。


イエスさまの御名によって祈る。

御言葉のつるぎを持つ。

神様のことばに同意して語る。


でも、

そもそも神様が何を語っているのかを知らなければ、

どうやってそこに立てるんだろう。


だから、

次はこの言葉を考えてみたい。


「御言葉にとどまる。」


なぜJTMでは、

そこまで御言葉にとどまることを大切にしているのか。


御言葉にとどまることと、

愛にとどまることは、

どうつながっているのか。


次は、

そこへ進んでみたい。


Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。

痛みは証に。光は闇に勝つ。

Blessings to you.


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