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【サレ妻大逆転ミステリ】1話 毒妻探偵〜サレ公爵夫人、愛人調査能力で殺人事件を解く〜

あらすじ

公爵夫人・フローラは、夫に不倫され続けれ、悪役女優風の見た目から「毒妻」と誤解を受けていた。その上、夫の不貞は貴族社会で公然の秘密となり、サレ公爵夫人と見下されていたが、ひょんな事から新米メイドのフィリスと愛人調査をする事に。
そんな折、夫が新たな愛人を作った。愛人は「悪魔な恋愛カウンセラー」とも呼ばれるマムという女だったが、多くの敵を作り、魔術師に呪いをかけられていた。フローラも偶然、魔術師の呪いの儀式に参加してしまうが、その直後にマムは何者かに撲殺されてしまった。これは本当に呪いによる殺人……?
動機のあるフローラや夫も疑われていくが、こうなったら犯人も見つけ出すしかない!愛人の調査能力で謎を解く、本妻つよつよ大逆転ミステリ。
※他サイトに掲載作品の改題・加筆修正しています。#創作大賞2025 #ミステリー小説部門


1

 この世で最も憎い女が目の前に転がっていた。死体として。

 頭を殴られ、血を流して死んでいたが、どう見ても事故や自殺じゃない。

「どういう事?」

 現場の状況から見て事故死でも病死でもなさそう。苦しんだ形跡もあり、殴られてから息絶えるまで時間があったのに違いないが。

 公爵夫人のフローラ・アガター。気の強そうな見た目から、「毒妻」や「悪妻」という不名誉な二つ名もついていたが、こんな他殺体を見るのは初めてだった。

 それでも全く動揺はしていなかった。夫の不倫を知った時の衝撃と比べればマシ。不倫は心の殺人だ。アレと比べれば幾らか良い方だ。

 その証拠にフローラの顔は一ミリも動かない。無表情に固まっている。整った顔立ちなので、怖いぐらいの無表情だった。

 肩にかかった黒髪を払う。この動作もいちいち品があり、さすが公爵夫人らしい。

 フローラはこの他殺体について、色々と事情を調べられる事になるだろう。夫に執着し、愛人達を調べられた過去も、公になるだろう。フローラを犯人扱いする者もいるかもしれない。動機もある。アリバイはない。運の悪い事に夫の愛人調査をするために身体も鍛えていた。女の力でも鈍器を使えば、人を殺せるかもしれない。

 それにしても、ここは公爵家の別邸だが、夫は愛人との逢瀬でよく使った場所。夫の不貞シーンが脳裏によぎり、一瞬心が折れそうになるが。

「いいえ。これから白警団に通報しましょう」

 頭は冷静だった。死体現場から離れ、白警団に通報。間も無く大勢の人がやって来て事情を聞かれた。

「公爵夫人、一体どうしてこの家に?」
「夫の愛人を調べていたんです。殺された女、マムは夫の不倫相手でしたね」

 全く表情を変えずに事実を述べる。

「調べてたって何で……?」

 若い白警団の男は明らかに動揺していたが、もうどうでもいい。夫も犯人として疑われるかもしれないが、どうでも良い。見た目は美男子だが、猜疑心が強く、いつも保身に走る夫が人を殺せるわけがない。

「フローラ! これは一体なんだ?」

 夫も登場。最悪な登場だ。一目散に死体に駆け寄り、号泣までした上、フローラを責め始めた。

 張り詰めていた糸が切れた。ブツっと激しい音で。

「奥さん、どう言う事です? 事情を話してくださいよ」

 白警団の若い男は、フローラへの疑いの眼差し。さっきよりもその疑惑が濃い。そもそも公爵家の不倫が公になり、貴族社会での評判も地に落ちるだろう。その事を思うと、再び切れそう。ブチ、ブチと切れる音が聞こえそう。

「せいせいしたわ」

 思わずそう言っていた。

「夫の愛人が死んでくれてせいせいした。本当に良かったわ」

 失言だったが、もう止められなかった。公爵夫人としての評判も回復不可能に違いない。

「ちょっ、フローラ! なんて事を言うんだよ! 答えろ! 何やってたか答えろ!」

 夫は絶叫していたが無視。

 おそらく自分が死んでも夫はあんな風に泣かないだろう。その事を思うとバカ笑いしたくなる。虚しすぎて。サレ妻の立場は、こんなにも惨め。

 再び死体を見つめる。もう二度と動かない不倫相手は、天国にいるのか地獄にいるかは不明だが。フローラに不貞の罪を認め、謝罪する機会は永遠に失われてしまった。そう思うと、素直にこの状況も喜べない。別に犯人にも同意できない。

 夫の愛人が殺された事なんて心底どうでもいいが、厄介事に巻き込まれた事は間違いないらしい。

2

 公爵夫人フローラ・アガターの朝は早い。まだ薄暗いうちに目が覚める。

 豪奢な公爵家だ。都で王宮にも近い。木々も豊かでハーブ類も植えら、庭も決して狭くはない。

 メイド達の使用人が暮らす館もあり、部屋数も多い。もっとも今はフローラは一人で暮らしているようなもので、ほとんど持て余していた。寝室もフローラ一人で寝起きする。

「おはよう、あなた」

 誰もいない寝室で呟くが、当然夫の返事はない。広い寝室にフローラの声が響くだけ。ベッドや鏡台、絵画、机、カーベット、カーテンも一流のもので揃えているのに、どこか空白が目立つ。本来なら夫婦二人で使う場所だからかもしれない。

 もう夫はずっと帰ってこない。何人もの女と不倫中だった。

 貴族社会では公然の秘密と化していた夫の不貞だったが、パーティーなどでは仲の良いフリをし、体裁を保つ。それがフローラのメンタルをより一層悪くしていたが、今のところ何の改善もない。不倫は心の殺人というが、本当かもしれない。その証拠にフローラは、心の底から笑う事はやめてしまった。もちろん公爵夫人としての作り笑いはウンザリするぐらいやっていたが。

「最後に笑ったのっていつだっけ?」

 寝室を出ると、洗面室の鏡と向かい合い、顔や鏡を整える。

 本来ならメイドに髪や化粧をやって貰うが、今はわけあって公爵家の人員は慢性的な人手不足。貴族の常識的には考えられない事だが、身支度、掃除、庭仕事、調理などもフローラがする事になった。

 元々見た目はキツい美人。悪役女優風だ。黒髪に深い藍色の目をもったフローラは、誤解を受けることも多く、毒妻とか悪女だとか、不名誉な二つ名がついていた。

 鏡の中にいる無表情のフローラは、その言葉とピッタリ。

 年齢も二十七歳だが、その歳よりだいぶ大人っぽく見える。それに腐っても公爵夫人だ。身のこなしもスマートで、上品だった。見た目だけは美しい公爵夫人かもしれない。実情は全くそんな事はないが。

 次にフローラは衣装部屋へ行き、普段着のドレスに着替えた。レースや飾りも最低限に抑えたドレスだった。公爵家の雑用もしなければならないフローラは、地味なドレスの方が色々都合がいい。

 そこにエプロンをつけ、庭に向かった。庭にはハーブ園があり、ミントやローズマリーなどの香りが漂う。

「よし、今日も元気にハーブが育ってるわ」

 もう陽も登ってきた。ハーブに水をやると、より生き生きしているようにも見える。

 こんなハーブの世話もフローラの仕事だった。普通の公爵夫人では決してしない事だ。フローラの二つ名と相まり、毒草を育てている噂もあったが。ミントは繁殖し過ぎて手に余る時も多い。

「繁殖か……」

 増え過ぎたミントの葉を間引きしながら、フローラは思う。スッとした爽やかな匂いは何の慰めにもならず、なぜか夫の不倫と関連づけてしまっていた。

 夫の不倫もミントばりに増進してる。一人愛人ができたと思ったら、いつの間にか三人、四人、五人……。今は遊び相手も含めたら、数十人の愛人がいた。

「夫の愛人もミントみたいに引っこ抜けたらいいのに」

 そうはいかない。夫の不倫は目に余る。

 それでも夫の愛人は全て調査し、一冊のノートにまとめていた。本妻たるもの一番重要な仕事だと思っていた。

 万が一子供ができたら……。

 万が一それで相手の女が脅しや金銭を要求したら、公爵家の地位と名誉は地の果てまで落ちるだろう。

 今は公然の秘密になっている夫の不貞も、似たような事をしている男が多いから問題になっていないだけだ。華やかな貴族社会も男に適した場所だ。逆に女の不貞では一発で犯罪者扱いされ、牢屋に入る。我が国の法律ではそうだった。大陸の西の果てにある国家ゆえ、少しおかしな所もあるのかもしれない。

 基本的に女の人権などはない。庶民はともかく、貴族はこの傾向がかなり強い。だから、せめてもの抵抗としても夫の不倫を調べていた。地位や名誉を守る為でもあったが、揃えた証拠はフローラが一番良い時期まで温め、公にしようと考えていた。

 冷え切った夫婦だ。度重なる裏切りにフローラは夫への愛情は擦り切れた。心に大きな穴が空いていくよう。せめて子供でもいれば違ったのかもしれないが、そんな兆候は何もない。結婚半年で夫との身体の関係も全部消えた。そんな状態でもう結婚十年目だ。

「奥様! ここにいらしたんですか?」

 そこにメイド頭のアンジェラがやってきた。でっぷりと太った年増女だ。フローラと並びと体格差がえぐい。ずっと公爵家で働いているアンジェラだったが、内心はフローラを見下げる時もある。それでもクビにできないのは、夫の愛人の噂もよく知っており、その点はよかった。また、アンジェラも貧困の出身なので、長年積み上げてきたメイドの仕事も手放すわけにいかなかった。

「ええ。ミントの間引きをしていたの」
「そんな事はどうでもいいですよ。今日は新しく雇ったメイド、フィリス・ストイレスの初出勤日です。挨拶するので、早く屋敷へ」
「そんな名前のメイドだったの。今度は長く定着してくれるといいわね」
「奥様が暴れず、普通にしていれば大丈夫でしょう」

 その棘のある言い方にカチンとしたが、メイドや執事の定着率の悪さ、人手不足はフローラも問題視していた。今度こそは人が定着してくれれば良いが。この家のメイドはアンジェラのようなベテランで神経が太い者しか務まらない事は薄々感じていた。

「人をメンヘラみたいに言わないでくれる?」
「事実じゃないですか。さ、行きましょう、奥様」

 アンジェラと共に屋敷に向かう。手にはまだミントの香りが残っていた。すっと頭は冴えてくるものだ。良い香りだが、フローラは一ミリも笑ってはいなかった。

 ただ背筋を伸ばし、前を向いていた。

3

 フィリス・ストレイスは、ぽっちゃりとした田舎娘だった。

 下っ端のメイドではよくいるタイプ。そばかすが浮いた肌も好ましい。髪も赤毛で綺麗ではないので、夫の好みでもないだろう。夫は美女が好きだ。フローラもその対象ではあったが、今はそんな事は全く嬉しくない。

 屋敷の一階にある食堂で、朝食を食べながら、フィリスから自己紹介を受けた。メイド頭のアンジェラもいる。

 といっても同席はしない。フローラは座っているが、メイド二人は立ったまま、フローラと自己紹介をした。

「フィリスです。フィリス・ストレイスです」

 フィリスは声も低めでハスキー。これは夫の好みから外れて本当に良かった。フローラはニヤりと笑いつつ、朝食のスープやパンを咀嚼し、過去を思い出す。

 夫の初めての不倫相手は、メイドだった。当時、新婚三ヶ月目だった。まだ公爵家もメイドや使用人達で溢れ、一般の貴族と全く同じような雰囲気だった。

 夫は公爵でもあったが、恋愛小説家としても活躍していた。別名・恋のカミサマとも呼ばれ、多くのファンもいた。夫は出版社も立ち上げていたし、元々作家になる事は夢だったそう。

 それに夫は美男子だ。金髪碧眼、男だが花のような派手な雰囲気を持ち、一部では薔薇公爵なんていう二つ名までついていた。夫を慕う令嬢や夫人は多いだろう。名前はブラッドリー・アガター。

 フローラとの結婚は家の意向だった。フローラは遠縁ではあるが王族の血筋の公爵令嬢。怖い顔立ちではあるが、美女で健康。公爵家の夫としては、これ上ない良縁と言われていた。結婚式も盛大に行われ、誰からも祝福されたはずだった。

「病める時も健やかなる時も永遠に愛する事を誓います」

 教会で語った誓いは、フローラは昨日の事のように思い出す。神に誓ったのだから永遠に果たすべき約束だと考えていた。フローラは行儀見習いとして修道院で生活していた事もあり、普通の令嬢よりは信仰心があったのだろう。

 実際、夫との新婚生活は夢のように幸せだった。ああ、この人だったら誓いの言葉も果たせそうと思った。女の扱いの上手で、甘い言葉もくれる。何でも察してくれたし、意思の疎通も滑らかだった。この時までは夫との生活も本当に幸福を感じていたのだ。

 しかし、結婚式から三ヶ月後。

 夫の不倫が発覚。よりによって公爵家のメイドだった。名前はローズ。その名前の通り、華やかな美人だった。隣国の貴族の娘だったが没落し、メイドをしていると聞いた。フローラはローズに同情心すら持っていたのに、よりによって寝室で二人は裸でいた。どう見ても不貞の現行現場だった。

 フローラの頭は真っ白になった。ローズは泣いて謝っていたが、夫は全く悪びらない。むしろ開き直っていた。薔薇公爵と呼ばれる男の本性が顕になった瞬間だった。美しい薔薇にも棘がある事を理解した。

 幸せな新婚生活を送るうちに恋愛小説が全く書けなくなった。不倫でもすれば傑作が描けると思い、ローズとそういう関係になったと語る。

「ごめんね? でも俺は悪くないと思ってるね?」

 ふざけた謝罪もされた。ローズの方が一瞬可哀想になるぐらいだったが、この日からフローラの心は死んだ。殺された。不倫は心の殺人だった。

 夫は作品のネタに詰まる度に不倫を始めた。全く悪びれず、当然の権利のように。

 その度にフローラは病み、泣き叫び、メンヘラ化した。

 おかげで公爵家のメイド達はアンジェラを除いて全く定着しない。下働き界隈でも「アガター家はヤバい」という噂が流れ、結局家の雑用をフローラがするまで追い込まれていた。

 もちろん、フローラにとってはそんな事は些細な事。むしろ夫の愛人調査に熱をあげ、アンジェラには完全に見下されるようになった。フローラの事をよく知っているアンジェラは、彼女の事を「メンヘラ地雷女」と評した。この不名誉な二つ名は今のところアンジェラしか使っていないが。

「ええ、フィリス。よろしくね」

 そんな過去を思い出しながらも、フローラはフィリスに挨拶をした。仮面のような嘘くさい笑顔だけは、どうにか作っておいた。本当は笑いたくなんてないが、仕方ない。

「あなた幾つなの?
「二十歳です」
「そう、まだ若いわね」
「田舎者なので、至らない部分も多いと思いますが、よろしくお願いします。都のこんな大きな家で働けるなんて幸せ」
「ありがとう」

 しばらくフローラとフィリスは和やかに談笑。フィリスの緊張感もとけ、アンジェラと三人で冗談を言えるほどだった。

「庭も本当に素敵ですね。特に薔薇も綺麗」

 フィリスは田舎者らしく、目をキラキラさせながら窓の外の薔薇を見ていた。

「薔薇? ええ、薔薇ね。ローズね……」

 フィリスの笑顔とは対照的にフローラの表情は凍りついていた。

 アンジェラはフィリスのエプロンを掴み、口を閉じろとジェスチャーを送った。もっとも田舎でのびのびと育ったフィリスは、一体アンジェラが何を伝えたいか察し損ねていた。

「ところで公爵さまってどこに行ったんですか? 一度お会いしたいのです」
「あなたもローズみたいに私の夫を盗むの?」
「は?」

 アンジェラは慌てていた。アンジェラはお茶をフローラに振る舞い、菓子でも食べようかと早口で提案していたが、スルー。

「あなたもローズのような泥棒猫メイドなの?」
「ローズって誰ですか? 可愛い名前。きっと美人さんなんでしょう」

 このフィリスの言葉は地雷になった。どっかんと地雷は爆破。フローラは泣き叫び、テーブルの皿や花瓶をひっくり返し、大暴れ。

「な、奥様! どうしたんです!? まるでメンヘラ地雷女みたいじゃないですか?」
「そのメンヘラ地雷女なんだよ! さ、フィリス。この状況だと手はつけられない。キッチンの方へ逃げるぞ!」

 フィリスはアンジェラに手を取られ、キッチンに避難した。

 食堂から離れたキッチンでも皿が割れる音や、フローラの泣き叫び声が響く。まるで嵐のようだ。正直怖い。フィリスはカタカタ震え、耳を塞いでいた。

「アンジェラ、これは一体何なの?」
「最初に言わなかった私が悪い。すまん」
「あんな美人の奥さんがどうして? なんでメンヘラなんですか」

 フィリス涙目で訴えていた。

「話すと長い。一つ言える事は、不倫は心の殺人という事だよ」
「心の殺人……」

 意味がわからない。公爵がローズとやらと不倫してたってこと?

 だとしたらそれは地雷発言だったか。ようやくフィリスは事の重大さを理解した。

「どうしよう……」

 確かにメイドの数も極端に少ない。執事もいない。都も貴族の家なんて知らないフィリスはそういうものだと思っていたが、妙な所は数えきれなかった。

「どうしよう……」

 とんでもない家に働きに来てしまった。後悔しかなかった。

4

  田舎のパパとママへ

 フィリスです。大変な事になりました。パパとママに応援されて公爵家のメイドになったのに……。

 公爵夫人、フローラさんがメンヘラでした。地雷女でした。

 なんでも公爵様に長年浮気されているらしく、ちょっとでも愛人の事を話題に出すと、ヒステリックになって暴れるんです。私も現場にいましたが、怖かった……。

 公爵様の最初の不倫相手はメイドだったようです。使用人達はブスやおじさんで固めていたそうですが、フローラさんのメンヘラ地雷女っぷりに手が負えなくなり、残っているのはメイド頭のアンジェラだけです。

 都の使用人界隈では、ブラック公爵家と有名で、慢性的に人手不足とか。メイドや執事が来てもすぐやめるんだって。

 それで田舎にまで求人広告が出ていたのか。給料もすごく良いのに、違和感があったけど、今は納得です。

 でも田舎は飢饉もあったし、長女の私が働かないとどうしようもないですよね。パパは牧師しながら探偵の副業をやってるけど、田舎にそう依頼もないし、献金額だってギリギリだし、弟達もいるし……。

 仕事量は意外とまともです。というのもフローラさんは割と何でもできるので、どうにかなっていたみたいです。家事雑用を普通にやっている公爵夫人って何ですかね。色んな意味でカルチャーショックですが、この先どうすればいいんでしょうか。

 本当に給料はいいんです。残業もないし、いい職場かもしれません。メイド頭のアンジェラはここで働くのは天職と言っているぐらいなのですが、私は?

 あのメンヘラ地雷女のフローラさんと上手くやれるか不安です。もしかしたら田舎に帰るかも。フィリスより。

 フィリスは使用人の部屋で手紙を書くと、万年筆を置いた。便箋を封筒に入れ、あとは出すだけだ。こんな弱音の手紙を書いて良いか悩んだが、そうするしかできない。

 今は午後三時。お茶の時間としてフィリスも休憩をとっていいと言う。だからこうして手紙を書けるわけだが、その表情は暗い。

「ああ、どうしよう。どうしてこんなブラック公爵家に来ちゃったんだろう」

 労働の待遇自体はホワイトだ。特に休憩時間や給料面も良い。

 それでもフローラにはついていけない。昼食の時も給仕し、仕事していたが、フィリスがうっかり「貧困地区に美味しい食堂があるんですよね」なんて言ったら、メンヘラされた。

 何でもフローラの夫である公爵は、貧困街にいるストリッパーに夢中になり、家まで借りて一緒に住んでいた事もあるという。「貧困街」というたった一つのワードから、過去のトラウマを刺激されて大暴れ。

 割れた皿や花瓶を片付けるだけでも大変だ。メンヘラの後始末にも忙しく、アンジェラと共にフローラを宥めるだけで、すっかり骨が折れてしまった。

 今はフローラは屋敷のニ階にある書斎に引きこもり何かしていた。少し何をしているか気になるが、アンジェラは苦い顔をして首を振る。「そっとしておいた方がいい」と察したが。

 そうこうしているうちに、お茶の時間も終了。仕事に戻る事になったが、予定表を見たら、書斎の掃除となっていた。

 よりによって……。

 アンジェラは庭仕事がある。この状況では、一人で仕事をしなければならないようだった。

「まあ、私は田舎娘。田舎娘なめんなよ。これでも何度も飢饉を乗り越えてきたんだから」

 フィリスは腕まくりをし、掃除道具を抱え、書斎へ向かった。こうなったら仕方ない。田舎娘らしいタフさで乗り越えるしかないようだ。

 まずはドアをノックし、フローラがいるか確認。重厚な木製のドアからは、何の音も聞こえない。

 フローラはいないようだ。ホッとしながら書斎へ入り、窓を開けると、本棚の埃を落とす事から始めた。

 本棚は公爵が書いた本がいっぱいあった。そういえば公爵は恋愛小説家だった事を思い出す。表紙だけはピンク色で、何ともフワフワしていた。

 机の上にも出しっぱなしの本があり、それを本棚にしまう。これも公爵の書いた本だった。メイドと伯爵の許せない恋模様を書いているそう。ヒロインの名前は、ローズ。フィリスはその名前を見て顔が真っ青。ローズは新人メイドのフィリスでもすっかり地雷ワードになっていた。

 他にも貧民のダンサーと医者のラブストーリーもあるのに気づく。

「もしかして、公爵様。不倫をネタに小説書いてる?」

 本棚の掃除をしながら、その可能性に気づく。要するに芸の肥やし不倫をしているのか。確かにその方が作品にリアリティが出て良いのかもしれないが。

 公爵の本の冒頭だけパラパラと読むと、確かに面白い。身分違いの恋が多く、田舎娘のフィリスには刺激が強い文章もあったが。

「うん? だとしたら、フローラ奥さんをネタにした作品があっても良くない?」

 仕事中だが、それは気になってきた。あのメンヘラ地雷女をプロ作家がどう描写するのか、好奇心がわいた。

 フィリスは仕事をしつつも本棚をチェック。単純に公爵の本が面白かったのもある。今は新聞、ゴシップ誌、家事指南書などの出版物が花盛りだ。都にも公爵が持っている大きな出版社はある事も知っている。フィリスも本が好きで、単純に好奇心が刺激されていた。この書斎のたくさんの本を見るだけでもワクワクする。

「あれ? フローラ奥さんをモデルにしたような作品は無いっぽいな」

 予測外だった。何か公爵夫人がヒロインの物語があると思ったが、別にそんな事はない。

「ま、まさか」

 そしてメイドと伯爵のラブロマンス「新米メイドは花の彼と永遠に」をざっと見てみたが、公爵夫人が悪役として登場。その描写を見る限り、どう見てもフローラをモデルにしていた。

「あは、これはキツいよ」

 ちょっとフローラに同情してしまうぐらい公爵夫人が悪く書かれていた。これを読んだ時のフローラの心情を想像すると、可哀想にもなってきた。確かにフローラはメンヘラで、相入れない女性だが。

 居た堪れない。フィリスは「新米メイドは花の彼と永遠に」を本棚に戻すと、違和感に気づいた。

 本棚には家庭用聖書も置いてあったが、その隣に分厚いノートがある。ちょうど家庭用聖書の三分のニぐらいの厚みだ。聖書は分厚く鈍器本なので、その三分のニでもかなり厚い。

「は? 愛人ノート? 一体何なの?」

 それを引き抜くと、表紙に「愛人ノート」とあった。

 嫌な予感しかしないが、中を捲ると、公爵の愛人の調査記録があるではないか。

 名前、年齢、住所などに基本的な情報のみならず、公爵との関係と付き合った期間、逢瀬の時間なども事細かに記録されていた。記載内容はともかく、その細かさはフィリスの父が探偵の仕事で作っていた報告書と大差ない。

 フローラの個人的な感想と思われる記載もあった。このノートの作者はフローラだ。特にローズへの激しい憎しみが綴られている箇所は、冷や汗しか出てこない。公爵がこの家に帰って来ない理由を察してしまった。

 現在、ローズは田舎に帰ったそうだが、行方不明らしい。「田舎に帰ってせいせいしたわ」というフローラのコメントもあったが、フィリスは頷く。フローラは相入れないが、不倫されている夫人の気持ちだけはちょっと分かってしまう。可哀想だと同情心すら芽生えていた時。

「あら、フィリス」

 そこにフローラが入ってきた。フィリスは慌てて愛人ノートを本棚にしまった。

「もしかして、あのノート見た?」

 フィリスの目が泳ぐ。一方、フローラは無表情だった。

「見た?」

 フローラは背が高く、どちらかといえば派手な美人だ。フィリスは小柄でぽっちゃり。顔も田舎娘らしい素朴なタイプで、体格差と顔面格差がえぐい。

 フローラだって質素なドレスだ。色もくすんだ紺色でレースやフリルは最低限だが、フィリスは自分が着ているメイド服が惨めになってくる。

 身のこなしも上品。指先まで神経が行き届いているような所作。故にフローラの顔が無表情で恐ろしい。あんな性格のフローラだが、格の違いを見せつけていた。嘘は言えない。

「え、そうです。見ました」
「そう。で、どう思った?」

 どう思ったと言われましても。フィリスは後退りするが、相手は追ってくる。

「どう? 私の事、頭がおかしな女だと思った?」

 そに目は寂そう。深い藍色のような目だが、奥に多くの悲しみが沈んでいる気がした。変な女だと思う。相入れない公爵夫人だが……。

「いえ、不倫は心の殺人です。どんな背景があってもダメなものはダメです!」

 ついつい本当の事を言ってしまっていた。

「そう、ありがとう、フィリス」

 目を伏せながら礼を言うフローラは、ごく普通の女にも見えた。夫に裏切られ、孤独を抱えているどこにでもいる女。

 フィリスは困っていた。フローラを嫌ってすぐにでもメイドを辞めたいのに、彼女に同情してしまうじゃないか。

5

 夕方になった。

 あの後、フローラはずっと書斎に引きこもっていた。夕食もいいというので、結果、フィリスとアンジェラの仕事もすぐに終わり、使用人の館に戻ってきた。

 そしてフィリス達は夕食を作り、食べていた。窓の外はもうほとんど夜だった。遠くの方で鳥の鳴き声もするが、静か。

 フィリスはこの静かな時間に一人でいるフローラを想像する。相変わらず本来の主人である公爵は見た事がない。アンジェラによると、別邸で仕事をしているらしいが、愛人と共にいる可能性が高い。それを想像すると、フィリスは微妙な表情だ。

 とはいえ、夕食は美味しい。今日はパンとチーズ、サラダというシンプルな食卓。この国の日常の夕食は基本的に質素で、温かいものは避けられる傾向にあるが、硬めのパンはチーズとの相性も最高で食が進む。

「フィリス、いい食べっぷりだよ」
「アンジェラだってそうじゃないですか」

 フィリスもアンジェラもどちらかと言えばぽっちゃり体型だった。二人とも食べるのが好きで、食卓の皿はあっという間に空になっていく。

「でもアンジェラ。ちょっとお腹減ったかも」
「まだ食べるんかい。あ、そうだ。奥さんが焼いたクッキーがあるから、食べるかい?」
「え?」

 あのフローラが焼いたクッキー?

 違和感はあったが、フローラはこの家の雑用もよくやっていた。公爵夫人としてはあり得ない事だが、クッキーを焼いていたとしても不自然ではないか。

 食後は、このクッキーを食べた。丸くて大きい。素朴なクッキーだった。

「お、美味しいです」

 フィリスは素直に思った。あのメンヘラ地雷女のクッキーなんて怪しくもあったが、味は全く問題ない。むしろ美味しい。サクサクと甘く、口溶けも優しいぐらい。

「だろう? 奥さんは修道院にいた時もあるから、料理も一通り何でもできる。むしろ私達がやらなくてもいいんじゃないっていう。意外と真面目で有能なんだよ」

 アンジェラはクシャリと笑いながら、クッキーを齧っていた。そんなアンジェラの笑顔を見ながら、フローラの無邪気な笑顔は見たことないと気づく。無表情か仮面のような笑顔。フローラの闇は深そう。甘いクッキーを食べているのに、フィリスの心には苦い何かが溜まっていた。

「ねえ、アンジェラ。フローラ奥さまってどんな人?」
「見ての通り、メンヘラ地雷女だよ。見た目もキツいので、毒妻とか悪女とも呼ばれている」
「そういう表面的な事じゃなくて」
「私が奥さんの事を伝えるのはできないよ。自分の目で見て判断しな」

 アンジェラの言う事はもっともだった。そう言えばアンジェラは仕事のすすめ方もフィリスに自主性を求める時が多い。この家で長年メイド頭をやっているという事は、頭は悪くない。むしろ賢いのかも知れない。

「今日、実は書斎で、愛人ノートっていうのを見たんです」
「そうかい」
「あれを見ちゃうと、奥さんの事は悪人だと思えない。むしろ寂しい人。心が壊されてしまった人。私はそう思ってしまう」

 再びクッキーを齧る。このクッキーはこんなに美味しいのに、作っている本人が不幸そうというのは、やるせない。

「ローズの事も書いてありました。何があったんです?」
「聞きたいか? 実はな」

 賢そうなアンジェラだが、この話題には饒舌だった。確かに噂話は好きそうなタイプだ。

 アンジェラによると、意外な事にフローラと公爵の仲はよかったらしい。新婚当初は幸せすぎるぐらいの二人だったが、ローズが新米メイドとして登場。

 当時、作品につまりスランプ状態だった公爵は、ローズの色仕掛けにあっさりと負け、この屋敷でも何度も不貞を働いていたらしい。同時に公爵は寝ずに作品を書き上げ、後にその作品は読者の好評を受け、大ヒット作にもなった。リアリティがある恋愛小説で、多くの女性の心を掴んだという。

「ローズはなぜ色仕掛けを?」
「実はうちの金を横領していたんだ。バレるのを恐れていたんだろう」

 次々とローズの悪評を耳にし、フェリスはげんなり。ますますフローラに同情したくなるから困る。

「酷い女」
「でもフィリス。公爵さまが書く作品は、不倫してる時のが面白いからな。不倫がバレても、貴族社会では公然の秘密。むしろ、英雄扱いする貴族も多く、スキャンダルにはならないんだ」
「何それ、ひどーい!」

 思わず叫んでしまうぐらい。この国では女の不貞は即座に逮捕され牢屋に行く。それを思うと、あまりにも理不尽ではないか。

「まあまあ、怒るな。世も中、こんなもんだよ。まして貴族社会は一枚岩じゃない。公爵さまのスキャンダルを狙っている家も無いとは言えないから、いつかは公になるさ」
「そうですけどー」

 フィリスは口を尖らせてしまう。ローズも悪女だった事を考えると、余計にフローラには同情してしまう。

 確かにメンヘラするのはどうかと思うが、広い屋敷に一人でいるフローラは、籠の鳥のようだ。せめて誰か味方がいればいいのに。あの愛人調査も何か公にしたり、役に立てないだろうか。

「この国の女は男で一生が決まってしまう。いいかい、フィリス。旦那選びは慎重にな。フローラ奥さんのようになるぞ」
「そ、そうですね……。でも奥さんは、自分で選べる立場でも無かったと思うけど……」

 まだ若く、男性と付き合った事がないフィリスでも、アンジェラが言いたい事はわかる。

 ただ、フローラは公爵家の人間だ。結婚も本人の意思は反映されなかっただろう。庶民は自由に恋愛できるが、貴族はそうではない。公爵の不倫が黙認されているのも、そんなしきたりに不満を持っている者が多いからかも知れない。そもそも公爵自身、結婚に向いて無さそうなのに、立場上、そうしなければならなかったのも居た堪れない。裕福で地位も名誉もある貴族だが、フィリスは全く羨ましくない。貧乏な田舎娘でも自由という幸せがある事に気づいてしまった。

 その夜、フィリスは使用人の部屋で手紙を書いていた。今日、両親へ書いた手紙は没にし、ゴミ箱に投げた後に。

 田舎のパパ、ママへ。

 フィリスです。奥様はだいぶ変な人でしたが、労働環境も良く、何とか働けそうです。奥様が作ったクッキーが美味しかったです。

 ところで、パパ。探偵の方の仕事は順調ですか?

 ローズという女性について調べて欲しい事があるんです。別紙にローズの詳細を書いて送ります。

 公爵家にまつわる事なので、慎重に調査してくれると嬉しいです。

 では、夏やクリスマスには田舎に帰るつもりです。パパもママも風邪には気をつけて。弟達にもよろしく。新米メイドのフィリスより。

6

 新人メイドのフィリスが来てから数日がたった。そばかす赤毛の典型的な田舎娘なメイドだったが、意外にも弱音を吐かず仕事を続けていた。

 仕事ぶりは、普通かそれ以下。掃除や料理も手を抜く時があり、雑。言葉使いも馴れ馴れしく、行儀もなっていない。その点はいかにも田舎娘だと思わされたが、人手不足の公爵家でワガママは言ってられない。それに言葉遣いは矯正すれば何とかなるだろう。

 メイド頭のアンジェラにはこのままフィリスを雇いたという旨を伝えた。いつも使っている書斎にアンジェラを呼び出し、フィリスについて伝えると意外な顔を見せた。

「奥さん、フィリスをこのまま雇うつもりですか?」
「ええ。まあ、言葉遣いや姿勢はあなたが教育してあげてちょうだい。仕事も全体的に雑なので、丁寧にって」
「それなのにフィリスを雇い続けるんですか?」

 フローラは頷いた。

 以前、この書斎でフィリスに愛人ノートがバレた。ドン引きするかと思った。今までのメイドでは、笑ってくる者も多い。

 この国で夫に不倫される女は恥だ。女同士でも「サレ妻」はみっともないという共通認識がある。だからフローラは使用人達に舐められ、馬鹿にされているという背景もあった。その上、フローラは子供すらいない。子を産む事が女の仕事のような時代。それすら出来ていないフローラは、貴族の女でもナチュラルに馬鹿にされていたのだ。おかげでよりメンタルヘルスも悪化し、悪循環に入ってしまっていた。

 そんな中、フィリスは「不倫は心の殺人」と断言していた。今までそんな事を言う使用人はいなかった。アンジェラだって薄らとフローラーを馬鹿にしているので、意外だった。

 そんな事もあり、フィリスだったらこのまま雇っても良いと決めた。正直、屋敷の仕事は頑張ればフローラとアンジェラだけでもどうにかなる。主人である公爵もいないわけだし……。

「まあ、意外です」
「ええ。田舎娘でも、根は悪くないかもね。それに夫の好みじゃない容姿なのも素晴らしいわ。さあ、アンジェラ、庭の雑草が増えてきたので草むりお願い」
「承知いたしました」

 アンジェラが去った書斎で、愛人ノートを見ていた。これまでの愛人の記録をさらにじっと眺める。

 数々の不貞の記録を見ながら、心に大きな穴が空きそうだった。

 子供の頃から公爵家に生まれた事は理解していた。結婚も自由でなく、家柄が釣り合った男と一緒になり、子供も作り、良い奥さんになっていくと人生を描いていた。

 最後は「死」という人生の絵だが、幸せな家庭をどこかで作れると思っていた。フローラの両親はもうこの世にいないが、家族には愛された記憶があった。自分も両親のようになれるだろうと、根拠のない自信もあった。

 それなのに、夫はそうではなかった。何度も何度もフローラを裏切り、陰で愛人と一緒になって悪口に興じていた。

「なんか虚しくなってきたわ……」

 この愛人ノートも、自分なりに必死に調査して書いたものではあるが、何の意味も無さそう。いくら愛人の事を知っても、夫の心は返ってこない。

「フローラってつまんない女なんだよな。優等生すぎるって言うか。一緒にいると息が詰まる。不倫している俺だけが悪いわけ?」

 夫に不倫は辞めて欲しいと直接言った事もあった。そうすれば辞めてくれるだろと期待していたが、夫は開き直っていた。

「そう、お前が悪い。顔だけの女でつまんないんだよ。つまんねー女!」

 そんな事まで言われるようになり、フローラのメンタルは最悪になった。夫もこの家に寄り付かなくなった。

 いっそ離婚するか。しかし、この国では離婚した女にも想像以上に悪い評判がたつ。つまりこの国は「夫の不倫にも黙って耐えてくれる都合の良い女」を求めていた。庶民や貧困層はともかく、貴族社会ではこの傾向がさらに強い。

 離婚もできない。相手の不貞も責められない。逆にサレ妻は恥ずかしいと見下げられる。子供すらいないので、余計に笑い者扱いだ。使用人ですら軽く扱われる。

 こんな大きな屋敷に住み、何不自由していないように見えるが、籠の中にいるみたいだ。籠の鳥の幸せは一体どこにあるのだろう。

 ふと、書斎の机の上にペーパーナイフがあるのに目が止まった。鋭く、先端はきらきらと光っていた。

 これで喉を突き刺したら、籠の外へ逃げられるだろうか。だとしたら、試してみたくなる。夫もこの家に帰ってくれるかもしれない。

「お、奥さーん!」

 喉にペーパーナイフを突き立てようとした寸前、フィリスがは入ってきた。どかどか音を立てて入ってきたので、フローラは驚き、ペーパーナイフを床に落とす。

 ガッシャンと床に落ちた音もしたが、フィリスの方が騒がしい。

「奥さん、何をしてたんですか? ま、まさか死のうと」
「ええ。本当に本当に夫の仕打ちには参ったわ」
「辞めてください!」

 その声は大きく、怒っているみたい。赤の他人、しかも世間では痛いと有名なサレ公爵夫人に何故フィリスは同情的なのだろう。

「奥さん、これ見てください。泥棒猫のローズの調査結果です」
「え、ローズ? 何これ」

 フィリスに紙束を渡された。ざっと読むと、ローズは不倫発覚後、隣国の田舎町に越したようだが、窃盗団の男に入れ込み、犯罪の手伝いもしていたようで、最近逮捕されたらしい。

「うちの父は探偵なんです。ローズのその後を調査してもらいました。評判の悪い女だったそうです。やっぱり不倫なんてする女は、倫理観がおかしいみたいですよ」
「そ、そうね」
「父も不倫は心の殺人と言っていました。こんな殺人犯がこのまま野放しにはなりませんよ。絶対捕まりますよ!」

 どうやらフィリスは、自分うを励ましてくれているらしい。父親が探偵だというには驚いたが、これまで自分の味方になってくれた人は珍しかった。

「奥さん、負けたらダメでしょ。この愛人ノートでこんなに調べたじゃないですか。ええ、愛人なんかに負けちゃダメです! 絶対そうですよ!」

 フィリスは床に落ちたペーパーナイフをエプロンのポケットに入れ、隠してしまった。

「それにうちの父が書いた報告書と愛人ノートはあんまり差がないじゃないですか。奥さん、愛人について調査しましょう。これだけ証拠があれば、離婚する時だって有利ですよ?」

 フローラは、また愛人ノートに目をやる。確かにここまで調べたのは骨が折れたが、全く無駄ではなかった?

「調査しましょうよ、愛人の」

 何やら一人でやる気になっているフィリス。馬鹿みたいに明るい田舎娘を見ていたら、それも悪くない気がしていた。

 少なくとも、もうペーパーナイフを喉に突き立てるのは、辞める事にした。これは手紙を開封する時だけに使おう。


次回2話
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3話
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