積極的傾聴(Active Listening)の方法
上の記事では、聴き手がいるフォーカシング・セッションのリスクについてあえて問題提起しましたが、実は害を与える聴き手にならない聴き方の方法論、っていうのは、歴然とあるわけです。
ただ、これを十分にできる聴き手がなかなかいない、という現実は指摘しておきたいということです。
人の話をいかに聴くかの具体的なスキルについて、独立したnote記事として、これまで書いているようで、いませんでしたね。
私の傾聴スキルは、ジェンドリン夫人、メアリー・ヘンドリックス・ジェンドリン直伝ですから、勿体ないことをしていました。

ここでいう、積極的傾聴(アクティヴ・リスニング)とは、ロジャーズの来談者中心療法における、受容と共感を重視する(と一般には理解されている)傾聴技法の進化型です。
進化型、というのは、クライエントさんの自然発生的なフォーカシング、つまりフェルトセンスに触れて、そこから言葉にしていく態勢を自然と喚起するという側面が増強されているからです。
なお、これから私が書くことは、メアリーのオリジナルに私なりの創意工夫を加えたものです。
まず、私は人のお話しをうかがうときに、前もってよく言い添えること:
これから、あなたの言ったことへの私なりの理解を時々投げ返すと思うけど、
1.私の言うことに「何か違う」とか「ズレてる」と感じたら、遠慮なくそれを教えてほしい。
それが「どのように」違うかが、まだあなたの中でうまく言葉にならなくてもいい。
「うーん、うまく言えんけど、何か違う」で十分です。
2.「今は何も言葉を返して欲しくない。黙って話を聞いて欲しい」という時はそのことを教えて欲しい。
3.ほんとうは「その通りです」とか「わかりました」と感じていないのに腹の中に呑み込まれたり、
「・・・ま、だいたい合ってるから、わかってもらえている、と言うことにしておこう」
と言うような態度は、むしろとって欲しくないとすら思っています。
1.人の話を聴く、全くの初心者のうちは、相手の言うことを、全部投げ返すつもりでいい。
ただし、機械的に投げ返すのではなく、相手が「気持ち」と「含蓄」を込めて語っているかな?と感じた言葉に、ちょっとだけVocalの強調をかけるつもりがいいでしょう。
もっとも、こちらが投げ返した内容が本人の言った通りでも、本人が、
「ううん、そうではなくて・・・」(not…,but,….)
と言い出すことは普通であるばかりか、むしろ好ましいこととみなした方がいいです。
それは、自分のフェルトセンス(気持ちの実感そのもの)に、よりピッタリな言葉が思い浮かびつつある、という、自然発生的なフォーカシングのプロセスが生じている、と言うことですから。
なお、時には、自分で言葉にしておきながら、それをそのまま投げ返すと
「・・・ううん、違うの!」
を果てしなく繰り返す人もいます。
こういう時には、
あなたの中で、すぐにうまく言葉になりにくいけど、確かに何か(something)が感じられて来ていて、これまであなたが使ったことがない、新鮮な言葉やイメージが生まれようとしているのかもしれない。
私は、あなたの中で、それが見つかるまでじっくり待っていていいですよ。
などと伝えることがあります。
それでも、本人が、うまくいい言葉が見つからなくて、とっかえひっかえ、次々言葉にしては、
「・・・違う!」
「・・・違う!」
状態になることもあります。
これに対しては、そういう相手の態度自体に、まずは興味深げにじっくり付き合うくらいの余裕の態度が望ましいですが、こうしたモードに相手が入った時には、こちらからの投げ返しは控えめにして、ただ黙って待っているモードにこっちもなった方がいいことが多いです。
2.どういう時に、聴き手としての自分なりの言葉に「言い換えて」いいのか
逆に、
「先生が私のことをどう理解しているのか、言葉にして欲しいです」
と言われ始めることがあります。
こういう時に、別に専門的アセスメント(診断や分析)を返す必要はなくて、相手の使った言葉を、聴き手としてのこちらなりの言い方で「言い換えて」、差し出してみるだけで、まずはいいかと。
つまり、
「あなたは、相手のことを自分が「妬んで」いるのだろうか?と言いました。
私が聴いていて感じたのは、「うらやましく」も感じておられるのかな?」ということですが、私のこうした理解に違和感あれば、ご遠慮なく指摘してください。
つまり、聴き手としてのこちらの言葉に言い換える時は、あくまでも「控えめな提案」の形をとり、ピンとこないなら、いくらでも「修正」してくれていいことを示し続けることです。
3.話を聞いていて感じたことを、どういう場合に率先して伝えるか
聴き手としてのあなたの中にどうしても色々な思いが生じてきて、それを相手に伝えないまま、ただ話を聞いているのが苦痛になった時には、相手に対して、
「ちょっといいですか?」
と断った上で、次のようなことをまずは伝えます。
あなたの話を聴いていて、私の中に色々な思いや連想が生じてきています。
私はそれをあなたに伝えてみたいのですが、よろしいでしょうか?
(承諾を得たら、)
では、もう少し、私の中で、今何をどう伝えたいのか言葉を吟味しますので、少しだけ待っていただけますか?
聴き手は、自分の感じたこと、思ったことをただ垂れ流すのではなく、相手に伝わる言葉を再吟味して、出来るだけ端的で手短な言い方を新鮮に見つけ出す方がいいです。
フォーカシングを学んだ皆様はご推察の通り、つまり、聴き手の側が自分の中で一人でフォーカシングしてみて、出てきた言葉やイメージ的表現だけを伝えるということです。
そのためにクライエントさんに黙って待っていてもらう「時間を求める」、ということまでするわけですが、実はこうした提案は、クライエントさんに、むしろいい意味で、新鮮な、小さな「衝撃」になり、受けいれてもらえることが少なくないかと。
それは恐らく、
1.こころの問題の「専門家」であるはずのカウンセラー自身ですら、自分の心の動きの言語化に、時間をもらって探す必要があることがあるんだ
2.それなら、相談している私の側が、自分の状態や気持ちについてピッタリな言い方を見つけるまでに時間がかかっても当然だし、このカウンセラーは当然それを「待ってくれる」ということなわけね
こうして、面接の場の空気自体が、クライエントさんばかりか、カウンセラーにとっても、ゆったりとしたリラックスしたものになっていくわけですね。
精神分析の「治療者の逆転移の活用」とか称して、クライエントさんの治療者への、幼少期の対人関係の「転移」やら「投影」やらを「上から目線」で「解釈」しなくていい(笑)
あるいは、「あなたの中にこういうスキーマが形成されてませんか?」とか、言わないでいいわけで(爆)
まあ、カウンセラーの中に自然とそういう専門家的連想が、浮かぶ時は浮かぶでしょうが、それを使いたくなる「甘い誘惑」には一応自分で距離をとって、
「そういうふうに感じている私が、今、ここにいるわけだ。わかったわかった」
ということにしてみる。
私の海外の恩師である、アン・ワイザー・コーネルさんのいう”acknowledging(とりあえず認めてあげる)"ですね。

そうした上で、
「これを相手にそのまま相手に伝えていいものかね?」
と、改めて「自分の」フェルトセンスに打診することですね。
・・・「そのままGO!」サイン出ることも、稀にはあります。
「うわーっ、これ、言っちゃっていいのかよ!」
と、私自身が躊躇したくなるくらいの、私のフェルトセンスからの「司令」なる場合がある。
そういう時も、どういう言い方にするかには、更に慎重に吟味しながら、例えば、
あなたの話を聞いていて、私の中に、勝手な連想として浮かんだんですが。
あなたの子供時代、ご家庭では、どういう「実感」というか「居心地」の世界で過ごしておられたのかな?と思って。
一人で落ちついてリラックスしていられる時って、あまりなかったのではないか?とか、私なりに思ってみたりもしたんですが。
・・・あなた自身の実感としては。どうですか?
という言い方にしてたみたりするわけですね。
💡伝え返し(リフレクション、反射)について
— HORIO, Naomi 国際フォーカシング研究所認定フォーカシング・プロフェッショナル (@hn_Focusing) July 8, 2026
クライアントやフォーカサーの言葉をそのまま伝え返すのがいい時もあれば、
むしろ、カウンセラー/セラピストやリスナーが内側で感じとったことを通して、あるいは、”理解の確認”として、言い換えて返すのが促進的なこともある… pic.twitter.com/BEC65OpzoM
・・・以上で、
私の面接技法の「すべて」を種明かし
したようなものです。
私が、
現場面接で、フォーカシング技法の具体的教示めいたものを、クライエントさんに向かって提案すること、皆無
というのは、これでお分かりでしょう。
フォーカシング技法の学習は、フォーカシングを、自分で身につけて、生活の中で一人でも活用できるようになりたいという意志を、自発的に既に持っている方の求めに応じる形でしか、私はしません。
つまり、私は、
フォーカシングの一切の宣伝・勧誘をしない
というポリシーです。
👇一冊本書いてるので、それで、一般の皆様向けには、十分でしょ?と。
専門家の人向けには、👇の一冊で、今ここでこうして書いてきたことを、更に詳しく書いてますが、もう2年も前の本なので、今記事で書いてみたことの方が、よりバージョンアップした内容も、一部含んでいますね。
「あと」は、
恐らく、
フォーカシングの産んだ、史上空前のナチュラル・フォーカサー
として自分の人生を、具体的に生きる過程を「世間に晒す」ことそれ自体を
「楽しむ」
こと
「だけ」
が(・・と、さりげなく、YOASOBIの「群青」の歌詞なぞってたりして)
私の
フォーカシング・アイドル、広告塔
としての、
何の酔狂か知らんが、
私をどういうわけか、その使徒としてお選びのような、
神様のご計画らしい、
ということですね。


