アタール・プリジオス博士の 『占星天文学論』に関わる自伝 【1.研究動機】
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《あらすじ》
天文学者アタール・プリジオス博士の、愛する人々の幸せの実現の為の新たな天文学理論『占星天文学』構築の日々について、自ら語る物語。
神王の権威を称える神聖パナーゼ神王国。
天文学を究めた博士は若くして『天才』と評され一目を置かれるが、度重なる我が子の夭折に身心を苦しめられる愛妻の為、密かに天体による未来予測の研究を始める。そして娘ルーセラを得る。
しかし「妊娠せぬ」と断じた交わりの後で、妻が妊娠し、博士の悪い予感は流産という形で出てしまう。
彼は更に研究に励み、精緻を極めながら漸く幸せを掴むのだが…。
《本編》
アタール・プリジオス博士の
『占星天文学論』に関わる自伝
【1.研究動機】
*
私の生まれ住む、神聖パナーゼ神王国はあの羽に鱗粉なる粉末を付着させた不快な昆虫を旗印とした、奇妙な宗教国家である。
私のような、神の真理よりも、自然界の真理を追究して見出していくことに身命を賭す科学者には、あまり居心地が良いとは言えない国であったが生まれて来てしまったからには、生きる他は無い。
この国では、“蝶”を殺してはならない。
主神の象徴であるからだ。
さすがに、虫1匹殺した罪を取締まるような法律は無いが、国の基本理念として根付いている。
特に国旗にも描かれている透けるような黄色の蝶を、人は“神蝶”と呼ぶ。
実際は“黄羽揚羽(キバネアゲハ)”と言い、これが科学的な呼称だ。珍しいのは、その蝶が暗がりでうっすらと光を発するように見えることで、それが神性を持つように見えたのだろう。然れども、やはり私にとっては不快な昆虫の一種に過ぎない。
何故あれが“神”の象徴なのだ。その逸話もあろうが私はそこに興味は無い。どうせ作り話だ。
だが、幼い頃、過ってあの蛾の鱗粉に触れて皮膚炎を発してしまい、その強い痛みで悩んでからというもの、私は残念ながらあの昆虫を全く愛せなくなってしまった。これは作り話ではない。
この神都ルスファは、黄味を帯びた煉瓦造りの家や店舗が立ち並ぶ整然とした街である。
無論、“黄羽揚羽”から来ている黄色だ。
中心街からは離れるが、黄色の煉瓦で覆われた町並みの景色に、私の家もその中の荒屋の一軒として埋もれていた。
ここに、或る問題が生じる。
“黄羽揚羽”や“黄色の煉瓦の街”のこととは全く関係無い。
私は…。
また、寝坊してしまった。
リーザラに謝らなくてはならない。
目を覚ますと、快晴の朝の強い日差しが刺すように私の目に注ぎ込み、私の瞳孔を萎縮させてくる。
いくつかの推論のもと、私は月や星の動きを観察し、それに伴う事象についての検証を行なっていた。
この観察を始めてから、既に数年が経ち、私は天文学者としての地位を確立していた。
天文学を文字通り“絵空事”だと、笑う者も多い。
確かに一般の天文学に関しては、そう言われても仕方がない部分もある。
然し、私の内々に研究している分野に関しては、それを一笑する者を私は侮蔑の対象とする。
彼らにとって、私の蔑視など痛くも痒くもなかろう。だが、私はそれを許さない。怒りを以て彼らの後生大事にしている信教の教義書の束を全部投げつけてくれよう。
ただ未だ補完中の為発表してもいなかった。故にそういう事態に成りようもないが。
「アタール! もう朝食の支度は出来ておりますが! 何が『規律良い生活は心身の躍動を助ける基本だ』ですか。貴方こそそれが出来ていないのではないですか?」
返す言葉が見つからず、私は布団から渋々と這い出る。妻はやはり立腹していた。
「悪かった。言い訳はしない、気をつける」
私はそれだけ答えて、まだ眠気が纏わりついた顔のまま朝食の席に着く。
リーザラは5人目の子を妊娠していた。大きな腹を重そうに揺さぶるようにして歩く。出産とは大変な事業である。大儀そうな溜息を吐露しながら、慎重に食卓の椅子に腰を下ろした。今度ばかりは絶対にこの命を世に生み落とすのだという覚悟が窺えた。
*
1人目の長女は、7年前の冬に血を吐く病を患って儚くなってしまった。3歳になったばかりで可愛い盛りだった。妻の悲嘆は地の底まで堕ち、彼女こそが死霊となった者のように虚ろに呪詛を唱える日々が続いた。私は彼女をどうにか立ち直らせようと慰撫に努めた。
2人目の妊娠が発覚したのは、長女を失って半年後のことだった。長女の生まれ変わりだと浮き立った彼女に、私は長女とは別の命だ。授かったことに感謝しようと彼女に説いた。
2人目は息子だった。彼はその顔を私たちに見せてくれたが、体が未熟だった。生まれて僅か2ヶ月後にその短過ぎる生涯の幕を閉じた。彼女はまた打ちひしがれ、もう産まないと発狂したように叫んだ。彼女の心の傷は深かった。折角生まれてきた子を続けて2人も亡くしたのだ。妊婦の身体の負担も考えれば、そう思うのも仕方がないと私は思い、独り涙に暮れる妻をしばらくそっとしておくことにした。勿論だが、私も辛い。自分の子をまともに成長させてやることも出来ない父親としての自分の無力さが、母親として生む義務を果たしてくれた妻に申し訳なく、自責の念に駆られていた。
どうしたら、良いのか。
分からぬまま、私は天文学の研究に没頭する。絵空事だと下に見てくる輩の愚劣な視線にも耐え、貴様たち神職が宗教行事の段取りの為に使う暦というものが天文学を基としたものであることの重要性を軽く見るなとばかりに次々と論文を発表した。
私の天文学者としての知名度は、数年の内に見る見る上がり、神王からも一目を置かれるようになった。王立大学から“博士”の地位を史上最年少の24歳で授与され、私は『天才』と称されるようになった。
だが、私の心が満たされることはなかった。
リーザラも…私の愛すべき妻の心も、未だ失意に侵されており、当時私の研究成果を手放しで喜べる状態ではなかった。
「アタール」
久しぶりに自分の名を、妻の口から聞いた。
掠れて囁くような、小さな声だった。
「どうかしたか、リー」
夏の夜だった。
長女が死んで、およそ3年半。
長男に死なれて、2年が過ぎていたその日。
雨が激しく降る音に、不思議に掻き消されない声はその弱々しさにも関わらず、ある決意に満ちて聞こえた。
私は論説を書く手を止めて、灯した短い蝋燭の残りを気にしながら、彼女を振り返る。
「…赤ちゃんが、欲しいのです」
「そうか」
私は頷いて、筆をインク壺に戻すと彼女に隣の寝室で待つように伝え、上衣を脱いだ。
今夜は雨だが、理論上の月の角度も星の位置も方角も愛を交わすのに適しており、彼女が子を宿す確率も高い。このような理由を夫婦の情事の最中に囁くようなことは無粋だとまだ思っていた。私が表立った研究とは別に密かに研究している学問上の理論ではそうなるはずにせよ。
そう、ただ私はこの秘密裏の研究をするが為に、公式に発表する予定の研究をしていると言っても過言では無い。
私は妻を抱きながら、今宵妻が宿す子が元気に生まれ、育って欲しいと切に願った。願いなどという不確実なものなど、学者として排除してきた己れだったが、それでもやはり子を授かりたいという気持ちは妻と変わらない。
彼女がこれで母子ともに健康で無事に出産を遂げてくれれば、私の新たに創始を考慮しているその学問の成果も確認できるし、父親としての喜びもまた味わえる。
「…愛しています。私は貴方の子を生みたい、育てたいのです!」
「ああ、分かっている」
その後は、私は学問のことを忘れ、ただ妻を愛することに没頭した。
そして、生まれた3人目の子こそ、ルーセラだ。
早世した長女のマランによく似ていたが、マランのような柔らかな可愛らしさではなく、凛とした冴えた美しさを携えていた。
妻はこの次女を「父親似」だと評するが、私には分からない。顔立ちは「母親似」と思われる。性格の厳格さが私に似ているのだという。
今、ルーセラは4歳になる。
つまり、順調に成長してくれている。私の星読みの顕著な成果の一つとなった。無論、一つだけでは偶然との比較が出来ない。故に私はこの娘を実例として、日誌を付けている。娘の成長記録と言えばまだ聞こえはいいかもしれないが、その実は研究観察記録とも言える。
「とうさま、なにかいてるの?」
「学問の研究論文だよ」
「がくもん? けんきゅう?」
「私の場合は、天体…つまり、星の動きを見て色々なことを考えていく勉強を『学問』とする。それをもっとたくさん深く勉強していくことを『研究』という」
「じゃ、とうさまはいつもおべんきょうをしてるの?」
「まあ、そういうことだな」
「…うーん、それはとうさまがあたまがよくないから?」
頭を悩ませる幼い娘の言葉を聞いて、扉の向こうでは、妻が吹き出して笑っているのが聞こえたが、
「ああ、そうだ」
と、私は答えた。
未だこの目指す学問の真理を完全に掴めていない時点で、私は未だ娘に自分を誇れはしない。つまり未だ私の頭が目指すべき高みまで良くなっていないということである。娘の言う通りだと思った。
「がんばってね、とうさま」
それに、ルーセラは笑ってはいない。真面目に私を心配しているのだ。それを笑うべきではない。
「ああ、頑張る。私は諦めない」
私はやる気を充してくれた娘に感謝しながら、筆を握り直し、筆記の手を更に加速させた。
リーザラが再び妊娠した。
これは、私にとって計算外の出来事だった。妊娠しないであろうと想定した日の営みからの妊娠だった。
妻は喜んだが、私は心から喜べなかった。私と妻を司る天体運動から予測して、妊娠はあり得ないと思っていたところでの妊娠だ。私の読みが単に外れていたというのならまだ良い。然し、近頃の私の読みには殆ど狂いが無くなっていた。故に不安が頭をもたげたのだ。
何故だ? 何故妻は身籠った?
原因が分からぬまま、半年が過ぎた。妻の腹は膨らんできていた。
私はまた無力にも無事に出産が済むことを願うしかなかった。
そして、妻は臨月を迎える。
妻は身重のまま、出掛けたパン屋で買い物を終え、扉を押し開けた途端、急に前を横切ってきた大きな黒い犬の影に驚いて派手に転び、下半身から大量出血をして、生死を彷徨った。
一命は何とか取り留めたものの4人目の子は流産となった。
妊娠はしないであろう、ではなく、妊娠しても生まれないだろうの間違いであったのか?
また妻を苦しめてしまった。その苦しみは私の心にも長い楔を差し込んでくる…。
救えなかったのか?
この事実を変えることは出来ないのか?
事象を知るだけでなく、それを是正していくことは出来ないのか?
「アタール、ごめんなさい。また貴方に要らぬ心配をさせてしまいました。私は貴方の研究の邪魔をしてばかりですね。そして、貴方の子を不注意で殺してしまった…私は本当に駄目な女ですね」
「リーザラ。私はお前の身心の苦患が早く癒えることを祈るだけだ。私はお前とルーセラが居れば、何の不満も無い。己れを蔑む必要などない」
「でも…! 私の注意が足りなかったから!」
「臨月で身重なお前を独りで外に行かせた私も悪い。お前だけの落ち度ではない」
「ああ…貴方、貴方の優しさには感謝します。でも、今回ばかりは私のせいです。貴方は私を責めても良いと思います」
涙を流す妻を抱き起こし、私は強く抱き締める。
「私の研究は、私とお前がもっと幸せになる為の研究でもある…だが、今は命として地に降り立てず天に流れてしまった我が子の魂を弔おう」
「…はい」
リーザラは頷き、私の胸に顔を埋めた。
もう妻をこんな目に遭わせたくない。
その涙が落ち着くまでの間、私は延々と妻の痩せ細った背を幾度となく撫で続けた。
その夜、私は書斎に閉じ籠もり、自ら創成せんと志す学問について一晩中考えた。
学問とは何か?
ただ己れの知的欲求を満たせばそれで良いものなのか?
その考えを否定はしないが、私の出す答えは、
「否」である。
学問とは、社会に還元可能な“とある方法”を探る為の“原理”または“法則”であると私は考える。
私のその学問はどう社会に還元されるのか?
私はただ妻を幸せにしたいという動機で、この研究を始めたわけだが、社会に還元するとなれば、これを応用実践することで世の人々もまた幸せを得ることが出来ると考える。
生まれる前に亡くなった子に、私たちは「ジュアン」と名付けた。古代語で「長寿」という意味で天の国では永く生きて欲しいとの思いを込めた。ジュアンに纏わる思い出は、妻の胎内で私たち夫婦の絆を深めてくれたことである。またジュアンを妊娠中の妻は肉を拒み、魚ばかりを好んだ。恐らく魚が好きな子どもだったのだろう。私たちは干した魚をその小さな墓前に供え、海辺によく咲く白い花を手向けた。ジュアンの葬送には、5歳になった娘にも参じさせた。娘もまた生まれて来られなかった弟か妹の為にぎゅっと目を閉じ、手を合わせた。
それから、3ヶ月ほどが過ぎた。
私は兼ねてから決めていた日を妻に告げ、愛を交わした。
「貴方らしいですね…」
少し苦笑いを混じらせた微笑みを浮かべながら、妻は私の誘いに応じた。何かの記念日だとか、その時の雰囲気だとか、そういう風情や情緒を全く意に介することなく、自分の学問的根拠のみで誘う私に対して、妻はそう感じたのだろう。
「お前の子宮の生理周期も計算に入れている。それも含めて、今日は最適日だ」
もう私は隠しはしなかった。私は私の考えを率直に妻に伝えた。それは、私たち夫婦にとっての幸せの道である。私にはその確信があった。
「ええ。存じていますわ、アタール。それが、貴方の私への最大限の愛情表現だということは」
「…お前は、私を心の無い機物のように思っているようだが…私の務めはお前を幸せにすることだ。それを叶えられなくて、お前の夫と呼べようか。その為に、私は…」
冗談めかして応じる妻に抗議する私の、その薄い唇に、妻は細い人差し指を当てて、私を制した。
「だから、存じていますと言っています。貴方の理論尽くめの学問の研究は、全て私への愛の為なのでしょう?」
「…分かっているならいい」
私は妻の指を静かにどけて、妻の唇を吸った。
もう言葉は不要だ。
私の首に妻の甘える手が回される。私たちはそのまま理性の関与を受けることを拒み、感性に従い互いの欲求をただ満たした。
*
そうして、リーザラは5人目の子をその胎内に授かる。
誕生の予測日は、10月の半ば過ぎであろうか。
あと2ヶ月少々で誕生する段となり、私たちは、生まれて来る子の名前を考えていた。
女の子だったら、「プーリア」にしようと妻が言う。何でも長命だった妻の大伯母の名前だそうだ。プーリア・プリジオスとなれば、語呂も良く可愛らしい名前になると笑う。
男の子だったら、私が決めるということになった。私はそれならばと「アリエル」にしようと告げた。「アリエル」はプーリア大伯母の父の名で、つまりリーザラの曽祖父の名前である。彼もまた長命で、プーリア大伯母はその血を受け継いだものと思われたからだ。
斯くして、リーザラは出産の日を迎えた。
誕生日は木の葉の色づき始めた、10月末日。
私たちは子に、アリエル・リー・アタール・プリジオスと名付けた。
私も妻もアリエルを溺愛した。
ルーセラも6つ下の弟に嫉妬しつつも、頭を撫でてみたり、その柔らかな頬に自分の頬をくっ付けてみたりしている。赤子というものに興味があるようだ。次第に小さな弟の存在にも慣れていき、姉の自覚を持ち始めた。
アリエルはころころと無邪気に声を出してよく笑う子だった。妻に似たのだと思う。私は滅多なことでは笑わない人間だ。だが、息子の笑顔に心を溶かされ、うっすらとだが、笑い返してしまうときもあった。
私たち家族は、このとき幸せの絶頂にあり、これがいつか終わるときが訪れるなどとは考えさえしなかったのである。
(続く)
