カフカ と 三木清 を結ぶ 強引
「変身」して失ったことで分かる "ありふれた日常" のかけがえのなさ。「幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である」。どこかで繋がるような気がする。気がするってちょっと弱気だな。繋がるだろう。いや, 繋がるに違いない。
久しぶりの「強引」シリーズ, 再開 .. って言っても, この種の「強引」, まだ過去に 2回だけかも(2回でも多い, 笑)。
過去の 「強引」コラボ
西部邁 と 坂口安吾
西部邁が説く解り易い自由論を, 坂口安吾の「堕落論」につなげてみる
けっこう強引だ。
坂口安吾 と ニーチェ
デフレ と 堕落論 と ツァラトゥストラ の相関
牽強付会だ(笑)。
番外編: 強引「コラボ」ではないが 〜 遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか, 坂口安吾 「堕落論」(1946年)
2025年の日本を嘆く。
ではでは。
変身して失われた「日常」を愛でる 〜 幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福なのだ
カフカ 『変身』 〜 プチ感想文
以下, 昔々の自分のホームページ上の「オンライン日記」(*1)から転載。
06年10月21日(土) 過負荷な秋の「休日」。
今週も多摩乱坂な1週間であった(である)。月曜は何時か忘れた、火曜は終電帰りで帰宅後のバン飯開始は午前1時を回ってから、水曜は終電の1本前でバン飯開始が午前0時半頃か、木曜もそこそこ遅かった、金曜は早くないがトンデモな遅さでは全然なかった、そして今日は土曜。
明日の日曜は在宅シゴトせねばならぬ。いろいろ持ち帰り、ファイルもカイシャから自宅PCに送ったよ。嗚呼。
カフカの「変身」 は読み終えました。まぁ短いしね、だけど時間ないから、疲れきった帰りの電車で気が向いた時間帯のみ読み進めてたわけ。嗚呼、しかし面白かった。しかし辛かった。
不条理な世界を条理の世界に侵入させ、非日常を日常に隣り合わせ、小市民の不幸と幸を、そして共同の中に潜み込む疎外、そして顕わになる疎外を描き出す。超現実と現実をない交ぜにしながら、しかしウルトラ・リアルに登場人物の動きをリアルタイムに描くかのように描写する。
こんな冒頭(有名だから出だしは前から知ってる)を以前書いたけど、僕が読んだ版では、こう始まる。
ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変ってしまっているのに気がついた。(山下肇 訳、1958年1月7日第1刷発行、「岩波版ほるぷ図書館文庫」1975年9月1日第1刷・1976年4月1日第2刷発行)
そして、そのまま、この非日常は日常に戻ろうとしてあがきつつ、時に諦観し、時にすべてを忘れそうになり、そして最後に日常への帰還を遂げられないままに完全なる疎外を遂げ、「非日常」が巻き込んだ日常の「非日常」世界が「日常」に戻ろうとするところまでで物語は幕を閉じる。
はて、僕の日常はどんなものか。夜中に帰宅して真夜中に晩飯を食い、翌朝きちんとカイシャに「出社」し、そしてまた過負荷な1日を過ごして戻ってくる、その日常は僕の「日常」なのか「非日常」なのか。まぁ間違いないのは、僕には還ってくる場所があり、そこに幸せがあり、それは必ず僕らが守り続けるものであるということです。
普通の話にしましょう。今日は息子は中学の文化祭。クラスの演劇で3ミリーズの一員の役をする。なぜ「3ミリ」かって、それは息子を含む一団が見事な坊主頭であるかららしい。役作りのため、息子はこのあいだ安~いグラサンを買ったよ。
妻は中学の文化祭でのバザーの手伝いに行っている。それで、その後は一家の団欒がある。それで、明日は僕は在宅シゴトをする。しかしできる限り休息もとりたいと思う。そして、一家の団欒がある。今日は土曜、明日は日曜日だ。それでは今日もスローガンを。題目は3つにしよう。
お身体を大切に。 (*4)
僕には見える。 (*5)
Life, I love you. (*6)
*1 今から 24年ほど前, 2001年夏に「完成までたったの 3日間 ゼロからのホームページ作り」(成美堂出版)という本を買って html を独学し, (当時 激務の仕事をしていたし, 実際には)「3日間」ならぬ 5日間ほどで立ち上げ, その後, 仕様をずっと旧態依然とした体裁のままにしている(そして軽く10年以上 放置中, おそらくこれからも)自前のホームページ上。その, まるで windows95以前であるかのような(いやいくら何でもそこまでは, それにそれは流石に有り得ないのだが)旧態依然とした仕様のホームページは実際にはトップページから menu, main のフレームを組んでいるのだが(*2), 件のオンライン「日記」へのリンクを貼りにくいので menu の枠を外すと, 2006年10月21日付のオンライン「日記」へのリンクは以下の通り。
*2 ほんと, windows95時代よりも更に 1億4550万年前ほど前のジュラ紀(*3)に存在していたかに見える(そこまで卑下するか, 笑)旧態依然でも泰然自若として放置中のホームページ, その入り口。
*3 ジュラ紀, ジュラ期, 作詞した松山猛(作曲はもちろん, 加藤和彦)は 漢字を間違えたのか, それとも何か意図があったのか,
さあ 不思議な夢と遠い昔が好きなら, さあ そのスヰッチを遠い昔に廻せば, ジュラ期の世界が拡がり, はるかな化石の時代よ ♫
これって 昨年の(ノンクリ筆者による)クリスマス note, その最終章からの一部転載だった。
*4 お身体を大切に。
*5 僕には見える。I see my light come shining.
*6 Life, I love you, all is groovy.
ではでは。
カフカ 『変身』 〜 過負荷 『返信』
うーむ, 前節, 「まえせつ」ならぬ「ぜんせつ」の「前説」, ざっくり以下の過去 note から引っ張ってきて ちょっと加工しただけだったのだ。
カフカ『変身』, もうちょっとだけ飾りをつけた「感想」とその周辺のノート。
ではでは。
豊かとか貧しいとか幸せとか不幸とかについて
これは, 関係があるのす。
関係があるのす。両者を繋ぐブリッジ, 架け橋。二つを繋ぐ, ブリッジ, 架け橋。どこかで繋ぐ, 架け橋(*1)。
「変身」して失ったことで分かる "ありふれた日常" のかけがえのなさ。「幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である」。どこかで 繋がるような気がする。気がするってちょっと弱気だな。繋がるだろう。いや, 繋がるに違いない。
*1 「明日に架ける橋」, カミさんと歌いました, と強引にここにも繋ぐ。ちょっとさすがにこの注記は強引すぎ。まぁ上の note のタイトル写真は カミさんとの婚約時の写真を載せた結婚披露宴の招待状なので, そこからの繋がりで 以下のリンクを貼りたくなった次第。
それでは。
三木清 『人生論ノート』 「幸福について」
三木清(1897年, 明治30年1月5日 - 1945年, 昭和20年9月26日), 戦時中(日本の敗戦の直前, 1945年), 「治安維持法」違反の被疑者高倉テル(高倉 輝, 小説家・政治家, 1891年4月14日 - 1986年4月2日)が保釈中に逃走した際に三木を訪れ, 三木が彼に金を与えるなど「支援」した「罪」で, 三木が逮捕拘禁され(後に再逮捕された高倉が警察での取り調べ中に三木の助けを得たことを語ったため), その後, なんと日本の敗戦による「終戦」後の 9月26日に(敗戦後40日以上経過しながら彼を釈放しなかった「戦後日本」のせいで)獄中死。享年48歳。
因みに三木は旧制一高時代に「歎異抄」(親鸞の弟子による仏教書)に関心を持ち, 晩年にもあらためて親鸞の思想に惹かれていたらしい(三木の遺稿は『親鸞』)。
「善人なをもて往生をとぐ, いはんや悪人をや」。野間宏 著『歎異抄』によれば, 「悪人」とは「自分から進んで物心ともに仏を讃嘆することが何もできず, むしろそれに反するようなことばかりを犯す, その罪深さに気づいている人」ということだから, 「自分から進んで物心ともにモーセを讃嘆することが何もできず, むしろモーセの十戒に反するようなことばかりを犯す, その罪深さに気づいていない人」であるシオニストなどは此処での「悪人」の範疇にも入らない極悪人で 問題外なんだろうなぁ。脱線? ああ, まぁね。
野間宏(1915年, 大正4年2月23日 - 1991年, 平成3年1月2日, 小説家・評論家・詩人)による現代語訳『歎異抄』, 若い頃に読んだよ。今も大事に我が家の居間の棚に置いてます(まぁ別に, 俺は無宗教だし, そういうわけで仏教徒ではないんだけど)。
ところで, 話を本題に戻して, 三木清 著『人生論ノート』, なんと 朗読が YouTube に上がっていたとは(「幸福について」部分は 以下の引用の下)。
幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
『人生論ノート』全文朗読は 以下から。
ではでは。
ギリシャ, アテネ part δ' 〜 1983年8月2-3日(写真6枚), なぜか三木清 「人生論ノート」
今日 8月3日に こんな妙ちくりんな note 投稿(タイトル「カフカ と 三木清 を結ぶ 強引」)をしようと思ったのは, 昔々の 8月3日に こんな写真を撮っていたのを思い出したから(写真を撮っている人と撮られている人たちを一緒に写真に撮ったのが 拙者, 本 note 筆者)。

「幸せそうな家族」は何処で見ても, そして彼らが何処から来た人たちであっても(当たり前だけど), 見ていて微笑ましいものがある。
幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
(三木清「人生論ノート」) だいぶ前に買って読んだけれど、いつだったか手放してしまった。後年の自分の経験からこれがよく分かるようになった気がしているから, ずっと持っておけばよかったなと今になって思うけど, でもまぁいいよね, 「ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人」なんだから(笑)。
横浜港から船で出国, 最初はソ連(もう知らない人もいる昔の国), 続いて ヨーロッパ(*1)諸国を巡り, ヨーロッパでの終盤(その後は中東ってか西アジア, 北アフリカごく一部, 再びの西アジア, アジア), イタリアの次に行ったギリシャ(*2)には, アテネとサントリーニ島を合わせ, 1か月ほど おりました(*3)。
*1 ヨーロッパ?
*2 ギリシャ .. 遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか 〜 坂口安吾 「堕落論」
ナン(ナンの故郷?インドにも行きました)だ, 上の 3つ, 今日の第1章 "過去の 「強引」コラボ" に既に載せていたぞ。
*3 イタリアの「下ノ」ギリシャ「ニ居リマス」。違うだろ, 現在形だし。

宮沢賢治は詩人。拙者が好きな詩人は, 宮沢賢治, 谷川俊太郎, それに茨木のり子。
強引が 過ぎる。
ではでは。
付録
「人生のポケット」 は 「変身」 だったのかもしれない (自分の場合)
という個人的な, 極私的な「発見」を, 少なくとも今日の此処では, 記録しておこうと思っただけなので, 今これ以上の深入りはしません。今日, 全体が概ねそんな感じだけど。猛暑, のせいもあります(笑)。
とりわけ, 2009年11月以降がそうだったような気がする。2016年1月末辺りに「変身」は終わり, もう 「人生のポケット」 に戻ることはあり得ないけど。
ではでは .. 「ではでは」ばかり。
「人生のポケット」 を覗いたら, "River of Tears" と "Running on Faith" が 🎶
自分の「人生のポケット」 は 「変身」 だったのかもしれない。で, その「人生のポケット」を覗いたら 聞こえてきたのが .. というか, この 2曲それぞれ 聴いていたら, 昔々 嵌まって 今はもう戻ることのない「人生のポケット」が見えてきたというか。
そういうわけで, 今日の些かカオスな note の最後は, 以下の 2曲。
River of Tears 歌詞和訳
River of Tears from Eric Clapton's 1998 album Pilgrim ♫
Running on Faith 歌詞和訳
Running on Faith from Eric Clapton's 1989 album Journeyman ♫
名曲やなぁ.. 関西人ではないのに関西弁。
