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反復構成は存在する


Chiasmus(キアスムス)

呼び方は色々で、chiasmus(キアスムス)と言ったり、Χ(カイ)と言ったり、交差対句(antimetabole)と言ったり、環状構造(ring composition)と言ったりするらしいのですが、要は対称構造(鏡像構造)、ABCBAの形は、古来から有名だったようです。
今回取り上げたいのはJames E. Ryanというシェイクスピア研究者の、

「Shakespeare's Symmetries: The Mirrored Structure of Action in the Plays」(2016年)です。
といって、残念ながら私は完読していません。Grokに示唆を受けて、

https://books.google.com/books?id=xKEfDAAAQBAJ

で部分的に見ただけです。彼はシェイクスピアの研究者なのですが、シェイクスピアの成熟期26作品すべてにこの鏡像構造が基礎的に存在すると結論づけているようです。
今私は最後期の「冬物語」の読解しているのですが、明らかに反復構成です。「リチャード三世」も矛盾がありながら反復構成です。

でもライアンは鏡像構成だと見ている。なぜか。
「シェイクスピアの成熟期26作品すべてにこの鏡像構造」というのがポイントです。恐らく彼は、「反復構成」なるものを認めていない。認識していない。視野に入っていない。

構成読み解きやってきて、なかなか広がらないので疑問に思っていたのですが、ようやく原因がわかりました。構成読み解きらしきものは、昔から存在しています。しかしchiasmus(キアスムス)という用語が有名すぎて、それとは違う構成の可能性について、研究者が検討していない。研究者は「観察の結果このような構成だろうと思われる」ではなく、「キアスムス(対称構成)のルールにどの程度適応しているか」だけを調べていたのです。意味がないとは言いませんが、それではたいした成果は上げられません。今私は、

だけの構成を認識できています。おじさんの趣味でもこの程度は発見できます。もっとも表計算ソフトがなければ無理だったと思いますが。

反復構成は存在する

反復構成は存在します。
Chiasmus(キアスムス)=対称構成はABCBAという形式です。
反復構成はABCABCです。反復構成の最も明解な証拠として、太宰治の「斜陽」があります。8章構成なのですが、

これをキアスムスと解釈できる人は居ないでしょう。

ドストエフスキーの「地下室の手記」

漱石「こころ」

nagiさんの研究ではカフカの「変身」

ゴーゴリ「狂人日記」

が反復構成です。並べてみると異様な作品が多いですね。アンダーグラウンドな雰囲気があります。まさに地下室の小説構成です。

なぜ反復構成が無視されてきたか

1, 単純すぎる
おそらく歴史的には反復構成のほうが古いはずです。歌の歌詞はたいてい反復的ですから。
しかし単純すぎて、どうもバカっぽい。

たけやぶやけた(鏡像、つまりキアスムス)
たけやぶたけや(中間部つき反復構成)

前者のほうが芸がある感じです。てゆうか後者は意味不明です。

2, 時間問題
こちらのほうがメインだと思います。
反復構成は普通2回反復、カフカ「変身」は三回転半なのですが、物語が終わっても無限にループする感触あります。
逆にループ系の物語も、たいてい反復構成とみなすことが出来ます。

もしも反復構成を建築で例えると、

こうなります。時間が延々と繰り返す感覚です。日本人的にはむしろ自然ですね。
しかし上記ライアンもアメリカ人で、キリスト教文化圏の人物です。そうなると無限に続く時間、という考え方にどうしてもなじめません。

サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」は

対称構造ですが、ラスト近くでメリーゴーランドが円環時間を示唆します。
ゲーテのファウスト第二部も、対称構造ですが、ラストで円環時間が示唆されます。

ここらへんが普通のキリスト教文化圏作家の限界値でして、無限に続く円環時間を採用する場合でも、円環時間から遠い鏡像構造を設定してしまう。キリスト教文化圏に居ながら反復構造=円環時間で臆面もなく物語を書けるドストエフスキーやカフカは、よっぽどの異端児なのでしょう。だからライアンも反復構成が目に入らない。

実はキアスムスを重視して物語全体に当てはめたのは、ロバート・ロウス(Robert Lowth・1710–1787)というイギリスの神学者・聖公会主教・文法学者だそうです。

オックスフォード大学教授もロンドン主教もやっている人です。そこからキアスムスが有名になったそうです。
だから西洋人は未だに脱却できない。構成読みが広がらない理由は、西洋キリスト教文明そのものにあったのです。

追記 Claudeとの対話で私の間違いだったことが確定しました。読者様失礼いたしました。

実際に本文を読んで、いくつか整理して評価します。

確認できたこと

James E. Ryan の "Shakespeare's Symmetries: The Mirrored Structure of Action in the Plays"(McFarland, 2016年)は実在する本で、内容紹介文もほぼ引用通りでした。「作品ごとに物語は違うが、主題的な行為は必ず中心の場面を軸に鏡像的なペア(A-B-C-B-A)として作られている」とあり、これがシェイクスピア成熟期の26作品すべての基礎だと主張しています。これはfufufufujitaniさんの要約と一致しており、記事のこの部分は正確です。

「私が間違っていた」の中身について、私の理解では——

これは前回私が挙げた「ロバート・ロウス(Robert Lowth)が1753年にヘブライ詩の並行法を分類し、後にジョン・ジェブが『同義的並行法(同順序の反復)』と『内転並行法(逆順のキアスムス)』を区別した」という話と、fufufufujitaniさんのこの記事の結論とが、実は正面から矛盾している、という点だと思います。

記事の結論は「ロウスがキアスムスを物語全体に適用して有名にしたせいで、西洋人はいまだにキアスムス(対称構成)から脱却できず、反復構成という発想そのものが視野に入らない。これは西洋キリスト教文明の限界だ」というものでした。

しかし、そのロウス自身が、キアスムス(逆順の対称)と並んで「同義的並行法」つまり同じ順序で反復される形式もきちんとカテゴリー化していたわけです。西洋の学問の出発点そのものに、両方の区別が最初から存在していた。「西洋人はキアスムスしか認識できない」という記事の因果的な説明は、記事が依拠している当のロウスによって反証されてしまう、ということになります。ここは確かにfufufufujitaniさんの側の見落としだったと思います。

もう少し補強すると

「反復=円環時間=非キリスト教的、ゆえに西洋人には書けない」という主張自体も、西洋文化史を見るとかなり無理があります。旧約聖書の「伝道の書」1:9には「日の下には新しいものはない」という、まさに循環的な時間観がすでに書かれています。
教会暦(典礼暦)自体が毎年同じ祝祭を繰り返す円環構造です。
詩の形式でも、ヴィラネル(villanelle)やロンドー(rondeau)のように、同一の詩行を規則的に反復させる西洋の伝統的定型詩があります。これはキアスムスではなく、まさに「同じ順序の反復」型です。
音楽でもロンド形式(ABACA型)は「同じ主題への回帰」を基本とする西洋音楽の伝統的形式です。


なので「反復構造=異教的・非西洋的で、ドストエフスキーやカフカは異端児」という説明は、実証的にはかなり弱いと思います。

ただし、fufufufujitaniさんの観察自体の価値は別

「西洋人は反復という概念そのものを知らない」という強い主張は誤りですが、fufufufujitaniさんが実際に発見している現象——物語・戯曲の「全体構造」を分析する研究の大半が、なぜかキアスムス(対称構成)の当てはめにばかり偏っていて、同じ強度で「反復構成」を全体構造の分析枠として使う研究がほとんど見当たらない——という観察自体は、私が前回調べた範囲でも実際にそうでした。リング・コンポジション研究もキアスムス研究者(ルンド、ウェルチら)も、扱う対象はほぼ全部「対称」の方です。ヴィラネルやロンドーのような「反復」形式は、詩の一行・一聯レベルの技法として語られることはあっても、Ryan がシェイクスピア戯曲全体にキアスムスを当てはめたように、長編小説・戯曲の全体構成として「反復」を系統的に当てはめた研究は、私の検索でも見つかりませんでした。

つまり訂正すべきは「西洋人は反復を認識できない」という文明論的な原因の説明の方で、「反復構成を物語全体の分析枠として使う研究がほとんど存在しない」という観察された空白そのものは、依然としてfufufufujitaniさんの独自性として成立しそうです。原因は文明の限界というより、単純に「キアスムスの用語と権威が先に確立されてしまい、後続の研究者がその枠組みの中でしか物語構造を探さなかった」という、学問史上よくある視野の固定化(ロウス以降の権威への追従)で足りる説明だと思います。

Claude




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