哲学から考える「ワカモノ」との接し方 〜「タイパ」と「エポケー」〜
昨年12月に転職し、久しぶり「HR」に戻ってきました。
「ヒトと接し、相手の行動変容に影響を与える」という意味では、営業もHRも同じだと思っていますが、「関わるヒトの年齢層」が大きく変わりました。
前職でのお客様が40-60代中心だったのに対し、社員や採用対象の方は20-40代が多く、レンジが20歳分くらい下がりました。
この春には新卒(17歳下!)も受け入れますし「自分よりも年下の方」と関わる機会が大半になってきた今、一度立ち止まり、「哲学」を取り入れながら「ワカモノとの接し方」について考えてみようと思います。
「〇〇世代」はなぜ生まれるのか
ここの数年、「Z世代との付き合い方」みたいな書籍や記事の見出しで良く見かけませんか。
私は括られたり、決めつけられたりするのは大嫌いなので、自分の属する「ミレニアム世代」に関心を持ったことはありません。
(一番嫌いなのは「血液型占い」。商社時代は参加した合コンで血液型の話を始まったら、「赤血球の形(糖鎖抗原)が違うと、なんで性格が変わるの」と言って場を凍らせていました。だからモテない)
ですが、この「〇〇世代」という括りは日本に限ったものではなく、古今東西存在します。そんな「括り」はなぜ生まれるのでしょうか。
具体に入る前に、少しだけ「括り」について自分なりの考えを書いてみたいと思います。
1. 「理解できないことを納得する」ため
私たちは、一人一人何かしら違う「ヒト」と接し、それらに合わせてこちらの行動・態度を変容させ、コミュニケーションをしています。
そうすると、必ず「理解・納得・共感できない」ヒトや行動に出くわし、この時に「自己正当化バイアス」が発生すると考えます。
つまり、「理解できない私がオカシイ」と思いたくないので、「あ、この人はAでBでCだから、私は理解できないんだ」という理屈を付けようとする。
でもまた、その理屈をN1で考えていたら疲れてしまう。だから、一番手取り早い方法として「括ってしまう」。
「括る」という行為は、一見「そこに含まれる人たちを理解しようとする試み」に見えますが、その実は「自分が理解出来ない理由を創造しているだけ」という要素が強いのではないでしょうか。
2. マーケティング的に都合が良すぎる
例えば、「Aさんという若者を理解できないBおじさん」は世の中に溢れています。
その人たちにも必ず自己正当化バイアスがあり、何とかして「理解出来ない理由」を見つけようとしています(多くの場合、無意識下で)。
そこに「Z世代との接し方」という本があり、そのAさんがちょうどZ世代だった場合、「これだ!」と思って手に取り、読み、「あー、そうか!自分がAさんを理解できないのは、Z世代だったからなんだ!」と思える。
本当はそのBさんは、一所懸命に考え、Aさんと向き合い、自身を内省し、N1の解決策を導かないといけません。
ですが、そこに「それっぽい解説書」があると皆そこに飛びついてしまう。
一定数が悩んでいそうな、「ちょうど良い大きさの括り」はマーケティング的に極めて都合が良いので、PVや販売部数を伸ばそうとする人たちが多様し、そして広まっていく、という資本主義的な理由があると思います。
「括り」は補助線に過ぎない
ここまでの説明で勘違いをしていただきたくないのは、「前提条件の違いを理解することに意味がない、と言っているわけではない」ということです。寧ろめちゃくちゃ意味があります。
私がお伝えしたいのは、「安易な括り」は「逃げ」によって生まれるものであり、そこに逃げこむのはやめましょう、ということであり、それぞれが生きてきた時代背景や前提条件を理解することは、相手への理解を深めることに直結します。
では、本題である「自分の理解が及ばないワカモノとの接し方」に入っていきます。
処方箋①:「相手が大事にしているものはなにか」という観点で注目する
真剣に生きているからこそ、タイパを重要視しているのかもしれない
例えば、Z世代の話が出ると必ずと言って良いほどに出現する言葉が「タイパ」。これと共に「最近の若者は堪え性がない」とか言ったりします。
ですが、人間関係の一番の大前提は「自分の大事にしているもの基準ではなく、相手の大事にしているものは何か、という視点で相手を見ること」です。
この観点からみると、上記のコメントをする人は「堪えて欲しいのに、なぜ堪えないのか」という観点で相手を観察している可能性があります。
そうではなく、タイパについて相手側からみてみると、私は「自分よりも遥かに人生を真剣に生きているからこそ、タイパを重要視しているのかもしれない」という仮説を立てて接するようにしています。
「頑張っていれば、きっと良いことがあるはず」と思って行動するのは、判断の保留、乃至は放棄とも言えます。
そうではなく、常に判断をする機会を伺い、次の機会があればそれに動いてみる。言葉にしたら、前者よりもこの人の方が「真剣に生きている」とも言えるのではないでしょうか。
もちろん、そうではないかもしれません。ですが、ここでお伝えしたいのは「自分のバイアスを取り外し、相手の大事にしているものは何か」という観点で相手を注目してみてほしい、ということです。
(このポイントの詳細は以下の書籍に詳しく書いてあります。私はこれを読んで、他者との接し方が大きく変わりました)
処方箋②:「判断を保留する勇気」というテーマを持って行動する
上記に出てきた「判断の保留」は、フッサールの現象学でいう「エポケー」に当たります。
簡単に言えば、「すぐに結論を出さず、一度保留してグレーのままで置いておく」ということであり、それは「わからないから放置する」という消極的なアプローチではなく、「探究を継続していく」ための積極的なアプローチです。
この詳細は是非「<私>を取り戻す哲学」などをお読みいただければと思いますが、私はこの現代社会を生きていくには、「タイパ」と「エポケー」、両方を具備すべきだと思っています。
そして「エポケー」に必要なのは「待つ勇気」「保留する勇気」です。この「待つ勇気」を伝えるのが、現代の上司・先輩の仕事なのではないかと思います。
1. 自分が熱中し、好奇心を抱くチャンスを作る
一瞬だけ話を大きくすると、「教育」とはなんでしょうか。
私は「好奇心を持ちやすい環境を作ること」であり、「モノを教えること」ではないと考えています。
好奇心があれば、勝手に自分で行動し、自分で調べる。その過程で得られるものの質は「教わったこと」よりも遥かに解像度が高く、自分の人生の彩りとなります。
そして、好奇心がある人は、「待つ勇気」を持てます。
なぜなら、「もっと調べて、もっと学んだら、もっと新しいことが待っているかも」と未来に対する「期待」を持つことができるからです。
私もそうですが、「資本主義的な・物質的な成果」への関心が薄い人が相手の場合、「頑張っていれば成果が出る」という言葉には何も魅力を感じません。
そうではなく、「え、細田さんのやっていること・取り組んでいることってオモロ!自分ももっと知ってみたい・やってみたい」という好奇心を持てるチャンスを沢山作るのが一歩目ではないでしょうか。
そして、そのために一番大切なことはなんでしょうか。
貴方自身が、誰よりも楽しそうに仕事をする
これに尽きます。言葉ではなく、行動。貴方が熱中して、楽しそうに仕事をしていたら、それは必ず伝わりますし、ヒトを集めます。
自分が熱中してない仕事に好奇心を持たせることなど不可能です。
まずは「自分って、本当に今の仕事に熱中できているか」と問うてみてください。そして、もしNOの要素があれば、そこをYESにするためにどうしたら良いか、を是非考えてみてください。
2. 好奇心の芽吹きを感じたら、とにかく触媒を提供する
対象者の好奇心を少しでも感じたら、そこからは矢印を少し相手に向けてみましょう。
ただ、ここで大切なのは好奇心を「持たせる」とか「大きくさせる」といった、「他動詞」的な発想を一切持たないこと。
常に「相手が主語の自動詞」で考え、それが増幅する触媒を提供すること、これに集中してください。
相手の抱いた好奇心が大きくなるような、タスク、書籍、目標、言葉、何でも構いません。そこはオーダーメイドでなければならないので具体のアドバイスはできませんが、「好奇心の増幅が自走する」ところまで持っていけたら、このステージは終了です。
3. 「これまでの体験・経験」を意識し、「その人軸」で振り返る
1 on 1なり、定期評価のタイミングなりで「サシ」で話す機会はあると思います。
そういった時に「振り返り」を行うと思いますが、多くのケースで「コト」に引きづられた振り返りを行なっています。
具体的にいうと、「この仕事がどうだった」とか「このプロジェクトはどこが良かった」。
これでは単に「やり方」は上手くなるかもしれませんが、その人の「あり方」に影響はありません。
そうではなく、「その人の過去のどういった行動様式や思考様式が、その後のどんな行動に紐付き、そしてどんな結果になったのか」という「その人軸の物語」で振り返ってみてください。
例えば、「過去にやっていた無駄にも見えた行動」が、その後の別の要素と紐付き、何かしらの変化を起こしていたら、それを伝えてあげる。
そうすると、物事を「時間軸」を意識して捉えることができ、「時間を掛けるって悪くないんだな」と感じ、「時間を味方に付ける」ことが出来るようになり、「待つこと・保留すること」への恐怖が減り、逆に期待が増すかもしれません。
前提条件:相手のことを心から「重要で大切な存在」と思う
ここまで読んでいただいてお分かりいただけたかと思いますが、とにかく相手に「注目」することが前提になっています。
注目していないと、相手の気持ちの裏側も、好奇心の状況も、振り返りもできません。
「そんなの一人一人に出来ないよ」と思うかもしれません。
ですが、もしその人のことを「心から重要で大切な存在」だと思えれば、絶対に出来ます。
自分が好意をもった異性がいたら、その人の一挙手一投足が気になりますよね。同じ5分だとしても、その人と、全然意識のない異性だったら、解像度は全く違うはずです。
「注目」は時間ではありません、意識です。
上記の「熱中」もそうですが、結局誰かとの関係を改善するには、結局自分が変わるしかないのです。
①相手のことを心から大切な存在だと思い、
②自然と相手のことを注目し、
③日々の自分の人生に熱中・熱狂し、
④それに好奇心を持ってもらえたら触媒を提供し、
⑤「相手のストーリー」を振り返る。
この五段階を経ることで、その対象者の方が「判断を保留し、自分の未来に期待する」ことが出来るようになる可能性が高まると思います。
そして、その人はタイパが得意なので、それによって磨かれてきた瞬発力ですごい結果を残してくれることでしょう。
おわりに:「選択」への恐怖心
ブラジル・ウクライナに合計5年駐在し、教育や家族の話を聞いて思うのは、「日本に生まれると、人生における選択の数がめちゃくちゃ多くなる」ということです。
人類はある意味、選択肢を増やすために闘ってきました。〇〇の春のような革命、独立戦争、産業革命、、、、環境や属性によって生まれる鎖を断ち切るために闘ってきました。
ですが、それによって自由が生まれ、選択肢が増殖した結果何が起こったか。「この数多の選択肢の中に正解があるはずであり、その正解を選ばなくては」という選択への恐怖、そして疲れです。
ここで何が言いたいかというと、「若い人ほど選択の多い環境に生きてきた可能性が高く、その場合"正しい選択をしなければ病”に陥っている可能性がある」ということです。
その場合、変に選択肢を示すと、また恐怖心に苛まれ、好意で選択肢を示したことが仇になる可能性があります。
その時に取りうる対応策は①強制的にやらせる、②完全に好奇心に任せる、のどちらかではないでしょうか。
上記では②について詳細な記述をしましたが、①の選択も十分にありだと思います。意外とそれを求めていることもあるかもしれません。
「選択疲れ」「選択恐怖症」というのも私より上の方だと理解出来ないかもしれないと思い、最後に書かせていただきました。
最後までご一読いただき、ありがとうございました。
また次作でお会いしましょう。
細田 薫
