日本語英語の常識を疑え! 英語の名詞はラベル —英語におけるモノの認知プロセス1—
冠詞や名詞を勉強していると、疑問点や、矛盾点、日本人として理解し難いところ、複雑すぎる点等々噴出します。その結果、よく読んでも、いろいろな文法書にあたっても、判ったようで判らないという状況に陥ります。
今回、それらの問題を整理し、数々の現象から浮かび上がる法則を言語化し、スッキリ解決したいと思います。本シリーズを3まで読んで頂ければ、バラバラだった以下17項目+αが一つに繋がって解決し、概念となります。
※下線はリンクですのでクリックして頂ければ記事に飛びます。&ここでいう「日本語英語」とは、現学校教育で教えている英語(文法)を指しています。
英語が単複にこだわる理由(=日本語英語が「1とそれ以上」にこだわっていた理由)
名詞の" —s "と動詞のsとの複雑な関係の解明
aがカテゴリー内の任意の一つという意味になる理由
複数だけでなく、概念や不定形物質に不定冠詞がつかない理由
a fewが複数個なのに" a "が使われる理由
定形物質でも集まったり切ったりしたら不可算化する理由
可算名詞が多数集まって→不可算化したとき、可算名詞は複数個あるのに" —s "が付かない理由
7とは逆に可算名詞をリンゴのように切ったら不可算名詞になるのに、" a slice of "と数えられる" a "を使っている、また、数えられるのに「不可算名詞」と言う矛盾
英語の「数えられる」と日本語の「数えられる」の認知の違い
nounの前に冠詞が来る理由&nounの後に" s "が来る理由
" by car "や" go to school "のように明確な物質なのに機能や概念になると冠詞が付かずに用いられる理由
図鑑イラストで一個のリンゴが無冠詞appleで示されているのに、文中で無冠詞" apple "が使われると、リンゴ料理や、すりおろしたリンゴ、バラバラに切ったリンゴを示すという不可逆性の理由
英語は俯瞰で世界をみる事
日本語に冠詞が無い理由
数を示すにはoneが有るのに" a "、「これだ」と特定するには" this "が有るのに" the "、という同じような意味を持つ、" a "と" the "が有る理由
モノを表現するときに、最初にわざわざ不定の" a "を用いて表現する理由
最初に" a "、つぎが" the "の理由
etc・・・+α
これらすべてを解決し、そして、一つの概念にします。
それでは
まずは物質についての重要な認知である単位性と、「名詞」と訳されているnounついて明らかにしてみたいと思います。本記事を読む前に、前シリーズの「英語のモノには認知の最小単位というものがある」を読んで頂ければ英語における単位性が判りやすいかと思います。
単位性があるa noun。例えばan apple
しかし、a slice of appleのように具体的な単位形は明示していません。
けれども、単位形を保持しているのは、実は、sliceのような共通認知単位形が、aとnounとの間に省略されているからです↓

英語は、この共通認知した形態、共通認知単位形にnounでラベルを貼っているのです。
可算、不可算というのは、この共通に認知した形、最小単位性(長いので単元と略)があるかないかです。※この単元については先のリンクをご参考下さい。
この単元である、話者と聞き手との、共通認知した単位性(形)、これが無ければ、共通認知した形(sliceやcupなどの新たな単元)を提示し、nounでそれが何なのかラベル付けして、モノを表しているのです。※carやschoolなどの不可算的意味は「英語の単複厳格は日本語の問題だった」の最後&「冠詞は俯瞰認知する為の因子」参照。
だから、appleと言うラベルだけでは、一体何を言っているのか判らない。
だから、ネイティブにappleは何か?と質問するとは困惑するのです。&最初に列挙した今後解決する題目12。
これら奇怪な現象の詳細は、ロス典子著「ネイティブの感覚で冠詞が使える」p75、オールライト千栄美著「英文法は絵に描きやすいルールでできている」冒頭にて御参照を。
名詞分類で可算、不可算と言うけれども、
このように、その可算不可算とは結局、あなたと私、聞手と話手が共通に認知した形が、有るか無いかに過ぎません。
あるから省略し、無いから"slice"のように、共通認知した形を提示して、話者と聞き手とがモノを一致させるのです。
一個まるまるとしたan appleは可算名詞なのに、切った途端に不可算名詞になるのは、話し手と聞き手の共通認知した形、単元が消失してしまったからなのであり、だから、新たにsliceという単元(話者と聞き手が共通に認知した形)を提示しているのです。
可算——数えられる
不可算——数えられない
と言う意味の言葉を用いるから、リンゴを切っても数えられるのに、可算名詞から不可算名詞になる=数えられない、と言う矛盾が生じるのです。
これについて「英語のモノには認知の最小単位と言うものがある」からのコピペ↓
------------
ロス典子著「ネイティブの感覚で冠詞が使える」p11より
著者がネイティブとのやり取りで
"One peanut among some kakinotane tastes good!"
「いくつかの柿の種とピーナッツ1個と一緒に食べるとおいしい!」
と感想を述べるネイティブに対し、著者が、「someは『何個かの』だから、sをつけてkakinotanesではないか?」とツッコミを入れると、「柿の種は数えにくいのでuncountableだ」という記述があります。
日本人からするとkakinotaneが数えにくいはずはありません。20コであろうが30コであろうが、1000,100000であっても、日本人は「数えられる」と認識します。
しかし、ネイティブはそうでは無い。
ということは・・・・英語の"countable"と日本語では「数える」という意味概念が同じではないということを意味しています。つまり、モノの認知が違うと言うことです。どう違うかは「英語におけるモノの認知プロセス3」の記事にて。
------------
a/an (slice of) apple
↑括弧内がある時も、無い時も、あなたと私に共通に認知した形がありますよね。
a waterが成立し、通じる場合があるのもコレなのです。店員と客で共通認知した形、単位がある場合に、a water, a coffeeで通じるのです(共通認知した形はaとwaterやaとcoffeeの間に隠され省略されている)。ジョッキで水やコーヒーを出しているお店であれば、コップやコーヒーカップでなく、ジョッキで出てくるでしょう。それが店員さんと客とで共通に認知した単位だからです。
これは物質だけではない、抽象概念でも同じです。
a kindnessは、あなたと私で共通に認知した親切な行為があるからなのです。
このように、a waterにしてもan apple、applesにしても、単元を省略しているから、nounはラベルで具体的な「体」を表さないのに、日本人には、日本語の名詞と同じように、nounが体を表しているように見えてしまい、noun=日本語の名詞だとして同じように形(体)を示すと錯覚してしまうのです。
このように、英語grammarの"noun"と日本語文法の『名詞』は、意味が一致していません! それなのに、日本語英語がnounを名詞だとしたために、英語の『名詞』には、言葉の二重基準を内包しているのです(詳細は前回の「冠詞と名詞について」シリーズにて)。そのうえ、さらに、モノの認知の仕方のついても、大きな違いがある!ということなのです。
だから、article(冠詞)とnoun(名詞)を詳しく正確に知ろうとすればするほど、日本語との差異に突き当たり混乱するのです。
つまり、noun≠名詞にし、日本語の一人称視点から、英語の俯瞰視点(メタ認知、三人称視点)にしなければ(つまりは英語脳)、スムーズな理解は得られず、冠詞と名詞の完全な理解は出来ないということです。
実際、書店や図書館に行って分厚い文法書を手に取ってみてください。日本語視点からの理解が、いかに困難なのかがわかります(本来英語は、ネイティブのどんなレベルの年少者でも自由自在に使えているので、シンプルであるはずなのです)。
と言うことは、英語の認知の仕方にすれば、複雑化させる必要がなくなり、単純明快になるということです。
このように、本来、頭に描いた絵や動きを、英語のルールによって表現するのが、英語習得への最短最良の道のはずなのです。日本語に訳す事ではなく。
この事はおそらく、母語の言葉を学んだときも同じであったことでしょう。
もう大人の我々は、完全に忘れてしまっていますが、幼児時には頭に描いた絵や動きに沿って、言葉を構成、発し、逆に聞いた時には、そう再現したんだと思います。
初めて習得したあの時のスキップや自転車の乗り方、逆上がり、ローラースケートだってそうです。
頭に描いた自分の動く(動いた)姿に沿って、身体を動かしていた。
最初は、大脳を通じて理屈で身体を動かしていたのが、体得すると、大脳を通さない脊髄・小脳で反射で身体を動かす。大脳生理学的に言えば、小脳モデル、反射モデルを形成して、スムーズな動きにまで持っていったのです。
それは、言語だって同じです(その思い描く画が日本語は一人称視点で英語は俯瞰視点。俯瞰で物事を描きそれを英語で表現する)
最初は大脳(理屈)を通すから、自転車の乗り始めと同じで、たどたどしい。それを何十何百回(決して、英語習得に必要な最低3千時間以上ではありません)と行い、大脳を迂回する反射になった時、その時こそが語学を体得したと言う事になるのでしょう。
このように、英語を日本語にする事ではなく、情景や動きを、どう英語と言うルールで表現するか。
それが言語を学ぶ、語学なのではないのでしょうか。
次回は、その英語の認知の仕方に迫ってみたいと思います。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!!
