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冠詞は俯瞰認知するためにある —冠詞と名詞について5—

本シリーズ最後に、全く新しい視点で「冠詞」を再構築してみたいと思います。
このようにすることで、色々なことが見えはじめ、次回シリーズで詳細しますが、すべてがつながり一つになります。※下線はリンクですので以降クリックして頂ければ記事に飛びます。&「日本語英語」とは、現、日本の学校教育の英語を指しています。

さて

The train came out of the long tunnel into the snow country.
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

川端康成の「雪国」の有名な冒頭ですが、われわれ日本人は、『一人称視点』の車窓から見た雪国を思い描きます。が、不思議なことに、英語は、山か丘からのトンネルを抜けた汽車が雪国を通っている景色を『俯瞰』で想像するのです(詳細は、オールライト千栄美著「英文法は絵に描きやすいルールでできている」p7、熊谷高幸著「自分カメラの日本語 観客カメラの英語」p168参照、もしくはGoogleにて)。
一体なぜ、その違いが生じるのでしょうか?

この英日2つの文の違いからその原因がわからないものでしょうか?
細かく分けると切りがないので、「単語」、「語順」、「冠詞」ざっくりこの三つにしぼって、アプローチしてみたいと思います。

まず、気づく違いは「国境」と「train」の有無です。
訳者は、日本が単一国家だからバッサリ国境を省いた。であるとして、汽車があるだけで立体視、俯瞰形成するとは思えない(汽車を日本語文に足しても俯瞰形成しないから)。
語順も日本語を英語と同じ語順にしても立体視できないので、日本語と英語の決定的な違いは冠詞のありなし。
と言う事は・・・、この冠詞の有無が俯瞰の有無となることにならないでしょうか?
すべてではないとしても、冠詞が立体視を形成する因子であると言えそうです。

正直、従来の冠詞の意味である「単数」や「特定」ということなら
"a"は"one"
"the"は"this"でいいでしょう。
でも、存在しているのは、これら冠詞が、なにかしら別の意味、別の役割を持っているからでないでしょうか?
それが、英語の認知の特徴である、立体視、俯瞰認知因子なのでは?
単純に、日本語に無い俯瞰認知は、日本語に無い冠詞によってなされるのでは?と言う推測です。


もう一つ例を挙げてみます。
熊谷高幸著『自分カメラの日本語 観客カメラの英語』の一章から引用します。

The doors on the right side will open.
お出口は右側です

東京で電車乗ったときのおなじみのこの台詞
日本語の視点では目の前のドアが開くイメージですが、これを英語ネイティブは、なんと!!自分をも登場させた電車内を俯瞰で見ているというのです。

日本語と英語の視点の違い

ではなぜ?そうなるのでしょうか。
考えられることは、以下のように解釈するしかありません。

The doors

ドア全部。と言うことは車内のドアは一つではなく、その『特定の空間』に幾つもあると言うことを意味します(この世の中のドア全部というわけではなく、乗客が入ったその区切られた空間というカテゴリーの中で)。
The doors on the right side
右側にあるドア全部(the doorなら右側にドアは一つしかない。a doorなら多数あるドアの内のどれか一つ、doorsなら右側のドア全部かもしれないし幾つかかもしれないいずれにせよ複数)。と言うことは、多数のドアのthe rightと言っているのだから、the leftにもドアがあると言うことを意味します。もっと言うと、方向、向き(というカテゴリーで)として『特定』しているのだから、当然、前も後ろも天井も床もあると言う事になります。だから、その空間には天井も床も前も後ろもある立体的であることを意味し、(天井や床は常識的にドアはないとしても)前方と後方にもドアがあることを含意する。
そもそも、アナウンスの聞き手である乗客は、その車内にいる=知っているし、話手もその事を知っています。つまり、theと聞いてどれ?にならず、共通認知としてtheに対してどれかを指でさせるのです。
また同時に、the doorと電車内で『特定』しているのだから、車内には別の什器、設備が有ることを含意する(電車内の設備というカテゴリーで特定している)。つまり、the window、 the bench(長椅子)、the hanging strap(つり革)、the electric fan(扇風機)、 the air conditioner(エアコン)などなど。これまで「冠詞と名詞について」シリーズで述べてきたように、theは、あるカテゴリーの中での特定だからです。

このように日本語に訳すこと以外を考えると、立体視できるのではないでしょうか??
つまり、日本語に訳すということは日本語の視点である「一人称視点」に変換することだから、英語の俯瞰視点は形成出来ない、というのは必然である、ということでは?


この手法でもって、先の雪国の冒頭を考えてみます。

The train came out of the long tunnel into the snow country.

The trainと景色の中で(景色というカテゴリーの中で)電車を『特定』しているのだから、当然、その景色の中にはthe railもあるし、the earth(地面)もthe skyだってあります。the mountainも見えるかもしれないし、the seaが見えるかもしれない。
the long tunnelだと言うことは、山や丘があることは間違いない。このようにthe trainと汽車を景色の中で特定している=それはつまり、俯瞰している事にならないでしょうか?
さらに、トンネルと言うカテゴリーだと、長いと言っているのだから、そうでないトンネルを今まで通ってきたことを意味し、the snow countryと特定し地域を分けているので、雪が降っていない地域もあったことを含意します。
こうすればネイティブと同じように、俯瞰で広い視野で景色を見ることが可能になります。


となると

Mt. Fuji is the tallest mountain in Japan.

この文を、我々日本人は下図のように、富士山を「人が見た」一人称視点で描きます。

前述したスタイルで認識すると、英語ネイティブは

おそらく、広い視野で俯瞰で見て、富士山よりも低山を示し、富士市も、富士川も、駿河湾も、伊豆半島も、電車も、トンネルも、富士五湖も明確別れて、景色として特定されてる、それらそれぞれの風景要素をも描くのではないのでしょうか?

「コレ」とか「特定されている」とか「唯一」とか、そのように日本語英語で教えられていますが、そう言ったことは、日本語の文字だけの問題であって、冠詞の本意はこう言う事ではないでしょうか?日本語に訳さないネイティブはこう言う認識をしているのでは?
英語を日本語に訳すというのは、言ってみれば、俯瞰視点を一人称視点に変換することだから、逆に、日本語→英語にするとき、日本語の一人称視点のまま描写する事になるので、「右側のドアが開く」を"Door on right side open."という冠詞を付けないという間違いをすることが多いのでは?

確かに、日本語バイリンガルのネイティブは、冠詞について「ひとつの」とか「それ」とか「特定の」とか、従来の日本語英語の冠詞の説明と同じ事を言う。
だがしかし、その時彼らは、我々日本語ネイティブとは違うモノを見ている。
われわれは一人称視点だから、冠詞が付いたモノしか見えないが、彼らは指し示したモノ以外も見えているのだ!
しかも、俯瞰で。
このことは、ロス典子著「ネイティブの感覚で冠詞が使える」で、前著「ネイティブの感覚で前置詞が使える」を執筆時に、ネイティブに、指し示したモノ以外も描くようイラストを描き直された(p132)、ということからも推察されます。
その、どうやったら見えるかが、カテゴリー、カテゴライズなのだと思うのです。「ひとつの」とか「それ」とか「特定の」ではなく。



以上のように英語を捉えると、以下のただの文字列だったものに、別のことが見えてきます。
the Pacific Ocean
the Sea of Japan
他の海洋がある、陸地があることを含意する(我々日本語では一人称視点だから太平洋と日本海しか見えませんが)。
例えば、他の海洋や陸地が見える世界地図やグーグルアースで見た中での、太平洋や日本海。
一方
A boy on the ship was lost at sea.
陸地が見えない海しかみえない(seaを区切るところがないからtheがない)、一面見渡す限りの海の上で、唯一、ship船だけが区切られて存在している(theがあるから)。という絶望的な景色が見えてきませんか?

The Grammar Book
The Concise Oxford Dictionary
本は他にもあり、その中でコレ!
なんだか他のタイプの書籍が見えてきますよね。

The Silent Way(サイレントウェイという教育法)
他の教育法がある中でコレ!

以下の文では生き生きとした景色が浮かんでくるじゃありませんか。
Our children swam in the sea.
→the seaと景色を区切っているのだから、砂浜だって、陸地だってあるし、海の彼方に入道雲があるかもしれない。青い空と陸の向こうには山が見えるかもしれない。
The boys jumped into the river.
だって同じです。同じように認知すれば、真っ青の日差し眩しい夏の日(は飛躍しすぎでしょうか?)の少年達の瑞々しい景色が浮かんできます。

一方
Water changes into ice when it gets cold.
無冠詞で描写する物理現象は、何も景色を感じない。

この考えを発展させると
by carだってgo to schoolだって手段や概念だから景色を描く必要がない(風景の一部とする必要がない→英語ではモノは風景の記事参照)。
(→コレについては次のシリーズで詳細します。下線はリンクですのでクリックして頂ければ記事に飛びます)
Mama watched the news on TV.
The emperor spoke to the nation by radio.

しかし
turn on the TV
turn on the radio
はテレビとラジオを区切って特定しているのだから、ソファーやテーブル、窓や、蛍光灯等のテレビやラジオ以外の家具、調度品(そう言うカテゴリーの中から、the TVやthe radioと特定したので)があることを含意し、途端に立体的になり部屋の中にある電子機器になります。

このように、

最小の「語」で最大の情報表現をするために、冠詞があり、そうするためにはモノをカテゴリー分類し、共通認知単位形が必要なのだ。

と言う事なのでしょう。


日本語は、一人称視点だから、現日本語英語のように、日本語に訳すことだけを考えると、英語が描く世界観は表現しきれないのは当然なことなのです。
普通に考えてみても、冠詞の無い世界観の日本語で、冠詞を理解するのは不可能ではないのでしょうか。
冠詞が必然の世界観を構築しなければ。
それが俯瞰認知、俯瞰視点なのではないかと思うのです。

今回の「冠詞と名詞について」シリーズは、従来の冠詞と名詞に疑問を呈し、ある意味、日本語英語の冠詞と名詞の破壊を試みました。次回、『英語におけるモノの認知プロセス』シリーズでは、この破壊された冠詞と名詞について新たに再構築してみたいと思います。


冠詞を勉強すると、冠詞の用法は沢山あり、しかも、それぞれ全く別物のような意味合いで、頭を抱えてしまいます。
いったい、これは何なんでしょうか??
それは、「ある法則」における結果、現象の分析、分類だからです。
その、ある一つの法則が「カテゴリー分類、カテゴライズ」ではないか?と思うのです。

現日本語英語の、完了形仮定法も同じ病理を呈しており、とある法則における結果の分類分析です。
我々、学習者はその法則を知りたい為に勉強しているのに、その法則は一切示されていない。
それは、日本語英語が、そう言う法則を認知できないほど身についているネイティブの、ネイティブ専用の文法書、つまりgrammarを参考にしているからです。
右の道を進んでいる人が、右道を進んでいることを知るためには、左の道がある事を知っていなければ認知できません。真っ直ぐに進んでいるとしか判らないのです(日本語が一人称視点だと認知できたのは、英語が別の視点、俯瞰視点であることを知ったからです)。だから、その道がどっちの道なのかを示す必要がないので、結果的に、その真っ直ぐな道の分析になってしまうのです。
このように本来、grammarは、ネイティブやネイティブと遜色ないほどのレベルになって初めて有効な、知識をより深める学問なのです。しかし、だからこそ、他言語話者の学習者にとってはgrammarは、混乱させるしか効果がないと思われるのです。
現、日本語英語の英文法は、このgrammarを核にしていて、且つ、文法用語を日本語に置き換えている(から原語と意味のズレが生じている=言葉の二重基準がある)から、学習者にとっては、とてつもない壁になっているのです。
しかし、言語学者は極めて高い言語能力を持っているために、その、とてつもなく高い壁に気づかない。一般人との乖離に気づかないから、現状は変わらず、いつも英語難民が大量にでてしまうのです。

ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!!


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