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日本語英語の常識はまやかしだ!!! 「英語は単数、複数に厳格」は日本語の問題だった —英語におけるモノの認知プロセス3—

前回の「英語は複数が基本」の続きです。※以降、下線はリンクですのでクリックして頂ければ記事に飛びます。&ここでいう「日本語英語」とは、現学校教育で教えている英語(文法)を指しています。

今回は、前回とは逆の、「パッと見た外観の様態がハッキリしていない事」で、一体何が導かれるかを考え、そこから認知プロセスを明らかにし、更に種々の英語の疑問、矛盾点すべてを解決します。
最後まで読んで頂ければ全く新しい世界が見えると確信しています。

・・・なんてね💦


不定冠詞が付かない四つ
これらはパッと見た&意識した時の外観様態は同じです

モノについて、よく考えてみると・・・
前回引用したマーク・ピーターセン氏著『日本人の英語』より


「食べた物として伝えたいものが、一つの形の決まった、単位性をもつ物ならば、 “I ate a...a...a hotdog!”(あるいはa sandwich, a rice ballなど)と、aを繰り返しつつ、思い出しながら名詞を探していくことになる」


日本人からすると??なマーク・ピーターセン氏の不可解な発言は、日本語英語が教えているモノに対する考え方と相容れず、根本的に日本語とモノの認知が異なることを意味しています。

いったい、英語におけるモノの認知のコアは何なんでしょうか?

おそらくそれが、外観様態の認知からではないかと思うのです。
英語におけるモノの認知は、一番最初に、だいたいの外観の様態からの想像、認知するということです。
つまり、
外観の様態が、ハッキリする、しないという事が、英語のモノに対して基本認知があり、countable(可算), uncountable(不可算)の有無が、一番最初に意識にのぼるということです。

ただし!この、"countable", "uncountable"は以下のことから、
『数えられる』、『数えられない』という日本語訳の意味ではありません
------------
ロス典子著「ネイティブの感覚で冠詞が使える」p11でのネイティブとのやり取りで

"One peanut among some kakinotane tastes good!"
「いくつかの柿の種とピーナッツ1個と一緒に食べるとおいしい!」

と感想を述べるネイティブに対し、著者が、「 someは『何個かの』だから、sをつけてkakinotanesではないか?」とツッコミを入れると、「柿の種は数えにくいのでuncountableだ」
という記述があります。

日本人からするとkakinotaneが数えにくいはずはありません。
20コであろうが30コであろうが、1000,100000であっても、日本人は「数えられる」と認識します。
しかし、ネイティブはそうでは無い。
・・・・このズレは、
モノの認知の仕方が、日本語と根本的に違っており、それ故に、英語の"countable"と日本語の「数えられる」の、数えるの概念がズレたからだ。
としか考えられません。
つまり、
『数える』
と言う事の前提には、そのモノに対する認知がまず有ります(そのモノを知覚しなければ数える事が出来ない)。
この、モノに対する認知が日本語とズレが存在しているから、このような現象が起こる。
ズレがあるから、結果的に『数える』にズレが生じたのではないのか?
ということです。
------------
この違い"countable", "uncountable"を別の言い方で表現すると、『モノの認知を外観様態からすること』だと思うのです。


まとめます。

現実の物質は必ず他のモノと一緒にある=物質は風景の一部
物質が単体で存在するのは頭の中だけ


日本語は言葉にするとき、モノは既に何なのかを具体化していることが大前提です。
しかし、英語はそれと全く異なり、モノの認知、表現を、具体化していない段階の影絵のような、どういうものかわからない外観の有様から、具体化していき、最終的に上図の一番右のような、表したい物質を、風景の一部として表現する
だから、ピーターセン氏の発言や、kakinotaneの数え方のズレ、または、英語ではモノの物質単体では表現しにくい、存在しにくいのではないでしょうか。※ネイティブは、モノを、それがある状況が判らないと想像できない---appleだけ、waterだけ、carだけという、単語単体では、どういったことを言っているのか想像出来ない。

よくよく考えてみると確かに、物質は現実では単体では存在せず、必ず他のモノと一緒に存在しています。それがモノの現実でのありようです。「英語ではモノは風景」「冠詞は俯瞰認知するための因子」、←クリックするか、この記事一番最後の※を参照。

もしかしたら、物質をその単体だけで表現できる日本語が、言語として特殊なのかもしれません。

それでは逆に、日本語ではなぜ外観様態認知をしないのでしょうか?


それは
日本語は、言いたい事、結論、オチを最後に持っていく言語構造。
つまり、今から話す、その話の終わりの「あたり」をつけてから話す。
極端に言えば、文章を完成させてから話す言語構造だからです。
我々日本人はこれを反射的な無意識下で行うので認知できませんが、理屈から言って、結論を最後に持っていくためには、文構造はある程度完成していないと出来ないから、必然的にそう言う事になります(このあたりは濱田英人著『英文法の正体』の第7章からの私の勝手な解釈)。
そんなウルトラCなことを我々は無意識でやっているのです。
「円の中心」を表すにしても、円という『終わり』を描いて、その中心を言い表す(英語は逆です。the center of a circle)。
このように、話す前にいったん文を完成させるという言語構造をしているから、日本語ではモノをしっかり確定しないと、表すモノがなんなのか判らないと、モノを文中に使えない、文が完成できないのです。
だから我々日本人は、冠詞があるなしの「単体」の名詞が何なのか、「単体」の可算不可算名詞が示すものが何なのかを確定する事に、極端にこだわるのです(オチである屋上を作るためには、建物を構成する一階、二階とそれぞれの各階がしっかり造られていないと出来ません)。
このように、日本語は、モノ単体が何なのかを確定したものを、ブロックのように組立てる言語構造をしている(から、単体名詞が何なのかを確定しないと気がすまない)のです。
だから、英語のように、モノを確定させず、まず外観がどんな感じか?という認知の仕方をしないのです。


一方、英語はこの逆です。
言いたい事を最初に持ってくる言語構造。
言いたい事の「中心」を言えばその後、円を描いたり、その外側に三角、さらにその外側に四角だって表現でき、いくらでも話を広げられる。
つまりは、頭に浮かぶまま、思いつくまま話すことができるという事です。
となると、英語は、日本語話者が考え言葉にする「一歩手前」の段階で話し出すことが可能、つまり、モノを確定せず話し出す事が可能だと言う事です。
だから、モノをはっきりしていない段階で、外観様態のまま話始めることになり、話をしている最中にモノを確定させるという言語構造をしているのです(この事は英語のモノは日本語と違い「モノ単体」で存在しづらく、モノは風景の一部と言う一因にも繋がる)。
だからこそ、英語では、この、外観の様態が非常に重要になるのです。
このことは、マーク・ピーターセン氏の先の発言からも裏付けられます。
日本語は文中で使うモノが何なのかはっきり確定しないと、そのモノを文中に使えず話せませんが、英語はモノを確定していなくても話し出せるのです。

日本語は、モノの存在の前提として「モノが何なのか確定している」から、千でも一万でも幾つであっても「数えられる」と言う認知。
一方、
英語は、まず最初にモノの外観がどんな様子かという認知をするから、それがはっきりしないと「数えられない」のです。←無限が数えられないと同じ。

日本語(ネイティブ)が、単体でモノが何なのか?こだわるのはこう言うこと。
逆に
英語(ネイティブ)が、モノの外観様態をこだわるのはこう言うこと。
なのでは?


ん?
singular=単数
plural=複数
‥‥?
外観様態がハッキリしているsingularは。
外観様態がハッキリしていないpluralは。
‥‥‥んんん?

んっ!!?

いや、まてよ・・・

「ちょ、まてよ!」



英語は、「単数複数にこだわり、非常に厳格」だと言われています。
しかし、それは単複という、数にこだわっているのではなく・・・
ひょっとして・・・、
『外観の様態がハッキリしているか否か』にこだわっていたのでは??

リンゴのように共通認知された単位性のあるモノを、外観様態がハッキリしている、していないかを区別する時には、singular(単数の原語), plural(複数の原語)を使って、表現する事になりますよね?


最初の不定冠詞が付かない四つの図の、一番右の複数のリンゴのように、複数あると、全体としての(まとめて一つと認識すると)外観様態が不定形でハッキリしていません。
さらに、前述のように英語に於いて「外観様態がどういうものか」、は英語の認識上その根幹です。
一方、「単数」、「複数」という言葉は、数だけしか意味しません。それが重要だと言うのは、考えてみれば妙じゃないですか?
しかも、1個とそれ以上って‥‥?
いったい、どう言った理由で重要なのでしょうか。

現状、英語とは、単位性のあるモノに対して『数にこだわる』事になっています。
が、しかしそれは、実は、数にこだわっているのではなく、パッと見た時、意識した時の外観の様態にこだわっていたのだ!
と言うことではないのでしょうか。
つまり、

『単位性のあるモノは奇しくも数えられるから、外観様態がハッキリしているか否かを表現する時にsingular, pluralを使う』


だから数にこだわっているように見えるのだ!!と言うことであって!!!

前回の記事「英語におけるモノは「複数」が基本」での、"名詞s"と"三単現のs"の関係についてのまとめ図にも、「数」は何処にもありません。

英語のモノの様態の四重の再現正確性

それじゃ、「英語が数に厳密だ」というのは、単数、複数という「数」の日本語の言葉を用いたから生じてしまったのでは?もしかして!
つまり、モノを、数で分けたために、モノの認知に複雑性が生じたのでは!?

そもそも、単数複数の概念がない日本語になぜ、「単数」、「複数」という言葉があるのでしょう?
もしかして・・・これは・・
日本語英語がつくった造語では??
だとしたら酷い❗️💦
たとえ、元から日本語として言葉にあったとしても、単複という言葉は混乱を招くワナです。

繰り返します!
英語はsingular, pluralこだわる!と言うことの意味は
英語は『外観様態がハッキリしているか否か』にこだわる!ということであり、
なぜこだわるかは、英語はモノを、外観の様態から認知するからであって、そうしないと表現できないから、こだわっているに他ならないのです!!

数にこだわっていたのではなかったのです!!!

モノを数で分けていたのではなくて、外観様態で分けていたに他ならないのです!!!!

1と0にこだわるのはわかります。有と無ですから。しかし、1とそれ以上にこだわり、分けるのは、わけがわからない、意味がない。
つまり、いままで学校教育で日本語英語の教えてきた、この、英語における『英語は数に厳格』という重大事項は、日本語英語が『単数』、『複数』という言葉を用いた事によって生じた、100%日本語側の重大事項だったということになってしまうのです!!!!なんと!!


英語は日本語と違い、モノを確定せず話し出すから外観様態が重要なのであり、
だから外観様態を表現する" a "や" —s "があり、
だからモノをカテゴリーするのであり、
だからnoun(日本語で名詞と訳されている)でラベル付けと言うモノの表現方法をするのです。
そう、
だから、決して、一コとそれ以上が重要では無いのです。


おもしろい!!
日本語英語に対して常に疑問を持ち、否定すると別の世界が見えて、ホントおもしろいです!!!


さてと、
話を戻します。
一番最初の図、不定冠詞が付かない四つを、外観様態がハッキリしない(=uncountable)で、イコールとし、ひとつにまとめると、これらがモノの基本のベースになり、個体における「数」、単数が基本ではなく複数が基本と言う事になります。
日本人は一人称視点だから、モノは目の前に見える、(一つの)物体として認識。
だから、一個体が基準。

英語ではモノは(一個しかないわけではなく)、目の前に見えているのは、そのカテゴリー全体の一つ(一部)にすぎない。という認識。
今、見えている車だって、トンボだって、人だって、歩道橋だってなんだって、その構成するカテゴリー全体の中の一つである。という認識。
つまりは、複数が基準。

英語は、モノと言うのは常に、規格製品のように同一が複数あるのが
前提、と言う概念だから、その中のどれが、今あなたの描いているpictureにあるのかを冠詞を使ったり、関係代名詞やhisとか所有格で特定や、限定が必須なのではないのでしょうか?何を描いているのか(日本語)と言うより、どれを描いているのか(英語)と言うか

ただし、従来のように、これらを四つにわけ(一番最初の図)、完全に別々のものとし、とりわけ、一番右の単位性のあるリンゴだけを単数複数に分けてしまうと、そう言った概念にはなりませんが。



・・・と、このように
モノに対しての「数」の認知は、従来の「単数が基本だから、その基本の単数が集まったのが複数である」という概念ではなくなり、『複数という基本のベースから一つを取り出したものが単数』という概念になります(→だから"a"は、カテゴライズした中の任意の一つという概念なのです)。
研究社「新英和中辞典」第五版から「単数」の原語singularを引くと、「単数」という言葉の意味よりも前に、一番最初に『1.a 並外れた、稀に見る、非凡な, b 奇妙な、不思議な』と言う意味が示されています。
『基本形が外観様態のハッキリしないもの』なのに、それとは全く違った、ハッキリした単位性の外観だから、基本のベースから外れた『稀に見る、奇妙な』ものとしてsingularという言葉が当てられているのではないのでしょうか。

だから
一コではないのに、a few applesに"a"が使われるのは、外観様態がハッキリしているからということになり、矛盾がなくなります。数コならば、外観様態がまだハッキリしているからです。many applesだって、複数だからaがつかないのではなくて、a fewとは違い、もう数が多くて、外観様態がハッキリしていないから”a”がつかないのです。
こう言った見解は、『aの真意は単数では無くて、外観様態がハッキリしているというサイン』では?を裏付けます。→詳細は前記事「英語におけるモノは複数が基本」にて。



もう一度、話を戻します。
この認知プロセスにすると、英語の不可解な現象のひとつである

『英語は物質を「物体」と「機能」に分ている』

という、ちょっと??な、つっかえるような認知、スムーズになります。
英語は、"by car"や"go to school"での無冠詞名詞ように、物質を「物体」と「機能」に分ているとしていますが、本当にそうでしょうか?
本当に、会話時にそんな器用なことをしているのでしょうか?
日本人からすると、とても信じ難いのですが・・・・
ネイティブの幼児や小学生がそんな複雑な芸当を瞬時に行なっているのでしょうか?

本当は
日本語と同じように『分てない』
じゃないんですか?

と言うのは
今まで述べてきた概念や認知プロセスであると、モノは風景の一部であって、単体では存在しません。モノは風景の一部です(「冠詞は俯瞰認知するための因子」も参照くださいませ)。
そのような認知の中で、単体で存在できる場は、唯一、頭の中だけだと言えるからです。
頭の中だから、指すモノを風景の一部として表現する必要がない。モノを詳細する必要が無い。だから、冠詞がないのです。
それが結果的に「機能」や「概念」になるだけのことであって。

冠詞はモノを風景の一部として存在させる因子です。頭の中のモノは、現実の風景の一部、風景の中に存在しているわけではありません。だから、無冠詞なのでは?
言い換えると
by carやgo to schoolをネイティブが使うとき、我々日本語話者と同じように車や学校を思い浮かべている。
だがしかし、その時それは、現実に実在している風景の一部として具体的にしていないから、冠詞が無い。と言うことではないでしょうか?

だから
その頭の中に存在しているモノを、冠詞が存在しない日本語ネイティブが冠詞を付けない理由を説明するにときに、結果的に「機能」、「手段」、「概念」になるのでは?という事です。
くどいですが、頭の中のモノは、現実のモノとは違い、必ず他のモノと一緒に存在しているわけではありません(具体的な風景の一部として存在しているのではありません)。単体としても存在できる場が、頭の中だからです。だから、カテゴリー分類する必要も無いし、風景の一部として表現する必要が無い=冠詞が無いのです。

英語においては、物質は風景の一部(→「英語ではモノは風景」の記事もしくは、この記事最後の※参照)。それがモノの現実でのありようだからです。
つまり、物質を「物体」と「機能」で分けているからなのではなく。英語と日本語とのモノの認知、表現の仕方の違いが原因ということです。

このように考えると、日本語と同じく、物質を「物体」と「機能」に分けていない事になるので、非常にスッキリします。
日本語の「車で行った」、「通学する」は、物質を物体と機能に分けて考えれば、日本語でもその、英語のように捉えることができますよね?
日本語で、後付の理由であえて「物体」と「機能」に分ける事が出来ると同じように、英語も後付けなのでは?

ようするに
冠詞のない日本語で、冠詞の有り無しの理由付けために、日本語英語が物質を「物体」と「機能」に後付けで、分けて説明したから、そうなったのではないのか?

と言うことです。
でなければ、たとえば、新製品が出来たとしたら、その瞬間にネイティブ全員が、認識の齟齬なく、その新製品を「物質」と「機能」に分けた事になるからです。
バスや学校のように既に全員に認知され辞書に載っているモノならともかく、新製品にそんな事はあり得ないのです。
・・・この理由だけでは不完全です。やはり、先の「冠詞は俯瞰認知するための因子」を読んで頂きたいです。それは、この無冠詞の理由を相互補完するからです。



以上です。

これで今シリーズ終わりですが、シリーズ1で最初に挙げた解決する17の項目のうち15まで、英語の疑問点矛盾点が解決されました。

16.モノを表現するときに、最初にわざわざ不定の"a"を用いて表現する理由
17.最初に"a"、つぎが"the"の理由

最後、この二つの詳細は
なぜ、最初にモノを文中に出すとき(話題に上げるとき)に、わざわざ不定のモノを意味する”a”を用いて出すのか。日本語ネイティブの我々からすると、ずばり最初からソレが何なのか示せばいいのに、いちいち不定であることを表明する必要があるのか?という疑問です。日本語の場合、たとえ数を厳密にしたとしても、任意の不定で有ろうが無かろうが関係ないからです。

I saw a dog tied to a tractor. The animal was sleeping so cozily.

のように、最初に"a"を用いて、任意の一つ、不定の一つを出してから次に確定させるという(a→the)、まどろっこしい表現をするのか?
これは、英語は最初に外観様態から認知し、カテゴリー分類するからです。これですべて解決しました。


以前の「冠詞と名詞について」シリーズで、細分化されていた名詞や冠詞の意味用法がだいぶ統一化されたと思いますが、今回で残りの?意味用法や種々の疑問点、不可解な現象が、すべて?💦解決し統一されました。



この世界の記述を還元すると、「物質」と「動き」と「時」になりますが、現状日本語英語では、この『物質』と『動き』と『時』は、全て別々で、繋がりは全くありません。ご存知のように、それぞれはさらに、細かく細分化され、バラバラにされています。
が、本来の言語としての概念は一つであるはずだ。という考えの元に、いままで統合を試みてきました。結果、やはり、非常にシンプルな概念になったのです。


それではさらに、前々シリーズ等で述べてきた『時』——すわなち「現在形」、「過去形」、「完了形」、「仮定法」を統合します。

前々シリーズとは、簡単に説明すると、以下のような現在形、過去形の再定義です。
舞台世界とは、英語の特徴である俯瞰認知した世界です(詳細は「仮定法はまやかしだ!!」や「現在形と過去形の意味」等にて)。

------------
present(現在形の原語)
話者に関係があり、影響し得る世界。

past(過去形の原語)
話者に関係がなく、影響できない世界。
------------

それでは、統合します。

現在形、「過去形」の再定義

話者がいる

その舞台世界に有ればpresent(現在形)←その舞台にある描写
「無け」ればpast(過去形)←その舞台にない描写
その舞台世界に「無い」ことをその舞台世界に有ることへ持ってくるhaveし影響させるのが完了形
その舞台世界に有るモノや事(現象)で想定するのが直説法現在
その舞台世界に「無い」事で想定するのが直説法過去
 それを話者の見解である助動詞を用いて
その舞台世界に有るだろう事(可能性高)で想定するのが直説法現在での助動詞
その舞台世界に「無い」だろう事(可能性低)で想定するのが仮定法での助動詞過去

以上です。

先の球体(話者の認知世界)の実体。前回、今回で示した物質描写で描いている=俯瞰描写
※※完了形につきましては「完了形の用法という幻影」の記事を、仮定法では「仮定法の消失」の記事をご参考下さいませ。

この舞台世界を、今シリーズと、前回の「冠詞と名詞」シリーズとで、描写した、つまり、俯瞰認知した、と言うことです。

なんのことはない

先の「現在形」と「過去形」の再定義は、実は英語の特徴である、俯瞰認知、俯瞰描写の事だったのです。


今まで私が、長々と現日本語英語教育についてギャアギャア憤慨し、えらそうに主張してきたことは、
単に、英語話者は俯瞰で物事を頭に描き、それを英語の言葉のルールによって表現していることにすぎないことだった!
という事なのです。

がーーーん!

つまり、英語の文法とは
俯瞰描写をする為の各種の表現道具で(言いすぎ?)、
聞手読手は、それを紐解き、
頭の中で俯瞰描写しなおす事だったのです。
※一方、日本語は一人称視点で、その描写の登場人物となった視点で物事を表現している。

言語とはこのように
本来こう言う、
その言語特有の認知描写を、その言語の表現順序で表す事であり、訳すと言うのは、その頭に再現され描かれたものを、その国の言葉で表現し直す。
と言う作業なのに
日本語英語は、英語特有の認知描写を無視し、一人称視点という日本語独特の視点で無理矢理はめこみ、表現、認知させようとし、さらに、直接、英語から日本語に変換させているのです(英語を見て聞いて、日本語を浮かび上がらせようとしている)。つまりは、英語を日本語で理解させている。英語は日本語のために存在していません。日本語訳のために存在しているわけではありません。聞き手や読み手に、『絵』や『動き』を伝えるために存在しているのです。

つまり
日本語英語が目指すところは
英語→日本語→理解(日本語で理解)

しかし
本来、語学をまなぶというのは
英語→頭に描く→理解

だから
日本語に訳す作業は
英語→頭に描く→理解→日本語に表現し直す
であるはず

なのです。

だから、こんな・・・、日本語英語が目指している事が可能なのは、極めて言語能力が長けている人か、何万時間も費やした人でなければ不可能なのです。
ようするに、日本語英語は根本的に、英語を学ぶ、語学を学ぶと言うことから違っているのです(お〜お、すごいレッテル💦)。
その証拠に、両親、祖父や祖母、曾祖父母ですら、日本人全員が英語を習っているというのに、いったい、その中のどれぐらいの、何%の人が英語が出来るようになったというのか!、英語ができるようになった人はすべからく、日本語英語以外で学んだ人たちじゃないか!!


閑話休題💦
これで俯瞰で見た舞台世界に『時』が統合できました。
時といっても、時間のことは一言も出てこない。実は時は関係ありません。時で世界を分けていません。時で世界を分けているのは日本語英語です。
それじゃ、日本語は時間で世界を分けているか?
そんな事はありません。
つまり、時間で世界を分けているのは、日本語英語だけなのです。
時で世界を分つ事は、一見シンプルに思えますが、とても不自然な世界観なのです。

となると・・・
世界を『時』で分けたのは日本語英語。日本語英語で英語を学ばなければ、日本語英語のテストを受ける事がなければ、その世界観は不要で、それは混乱必至のトラップに等しい概念だ。という残酷な事実につながっていってしまうのです。
ズバリdisってしまえば、日本語英語が、現在形、過去形と(上述の定義でなく)世界を時間で分けた為に、『世界』が不可解になり、
さらにモノを(外観様態ではなく)単数、複数と、物を数で分けたが為に、世界の『物の』概念が歪んでしまった。
こうして、日本語英語が描く世界は、だんだん、つじつまが合わなくなってしまい、その矛盾を解消するために、どんどん複雑になってしまった。
と言う訳なのです。
なぜなら
世界を時で分けず、モノを数で分けなければ、あれほど複雑怪奇だったことがシンプルになったからです。

‥‥‥恐ろしい事を言ってしまうと
日本語英語は、言語の根幹の二つのことも、根本的に間違っていた‥‥‥

と言うことになりやしませんか?



まだ、残りのもう一つの要素『動き』について考察していませんが、現状、バラバラに分解されている『動き』も、おそらく、一つの『動き』の概念に統合でき、さらに同じようにすべて一つになる(俯瞰描写の因子になる)と思います。
このように、統合シンプル化が可能だと思っているのは、それが、言語の命題である『誰でも使えて、誰でも理解できる』を満たすことになるからです。
このことからも、現状、日本語英語の学問は、日本国内の、日本語英語のテストのための学問であって、言語として英語を習得する学問では無かったのです(お〜お、すごいdisり💦💦)。
たしかに、日本語英語は英語を理解する手法(の一つ)ですが、
それは、英語を、『どう日本語に訳すか?』と言うことを至上命題として、構築された学問体系の手法です。
そうではなくて、本当は、英語という外国語は、『どう(日本語に訳さずに)理解するか』を至上命題として、学問形態として一から構築するべきではないでしょうか?
それが本当の語学を学ぶ、外国語を習得するという事であると思うのです。

現況の日本語英語教育は、明治?に出来た始祖の日本語英語を、金科玉条として堅持に守りすぎなのです。



如何だったでしょうか?
またも、ちょっと強引過ぎましたか💦
今までの記事で述べてきたことを、本記事最後に交響曲のように一つにまとめました。
このような奇抜な発想は、英語についての異端、ネクロノミコン的だと思いますが、現状の英語教育に一石を投じる!考え方ではないかと思っています。

英語を学ぶにあたって、始祖の日本語英語の一辺倒しかない現状に疑問を呈し、別の理解方法があるはずだと、考えてみたかったのです。
なぜなら、私には、現状の英語の学習方法では理解ができなかったからです。
だから、私自身理解しやすいように再構築してみたのです(英語が理解できないのは、日本語英語が間違っているからだ!とした方が、精神衛生上よろしいです💦)。
私と同じ理解の仕方をする人ならば、私が費やした膨大な時間の無駄を省くことができる!!と確信しています。




『モノは単体で存在しづらく、モノは風景の一部として存在している』

この考えを支持する現象として
(some) apple, the waters

コレ
ネイティブは単体ではどう言うものか容易には想像できない。
不思議なことに彼らは、これら物質名詞だけでは何か判らないのに、このsome apple, the watersを、普通に文中に使うのです。
さらに
このsome apple, the watersを、単体だけでネイティブに無理くり想像させると、しばらく時間がかかって、それは、そのものが「何か」ではなく、そのものがある状況、風景を表現したのです。
前者ならロス典子著『ネイティブの感覚で冠詞が使える』p80の図125:サラダバーで野菜や果物が切ったものがそれぞれ分かれてボウルに盛られていて、その状況でのボウルに入った切ったリンゴ。後者なら、p92の図139:山脈それぞれに山頂あたりから小川が流れ、それが山脈の麓の大きな谷で一つの川となって流れているという状況。

このことは、われわれ日本語話者にとって非常に不可解に思えます。
日本語は、物質名詞が何を指しているかが確定しているから言葉にできるのであって、どう言うモノか判らない、想像できないモノは、文に使えず、文章構成成分になれないからです。
だからこそ、英語を学ぶ上で、われわれ日本人は、冠詞有り無しの名詞や、—s、可算不可算のモノがどう言うものか非常にこだわり確定させようとするのです。
しかし、英語では、モノ単体だと想像できず、そのものが『ある』状況を想像することから、モノに対して日本語のような認識をしていない。モノは風景の一部としてどう存在しているか、どういう状況にあるのかが判らないと、モノを表現できないと言えるのではないのでしょうか(単位性のあるモノであっても単体のみでは存在しにくい→an appleは他にもあることを含意する=1コだけではないし、またそれが、テーブルの上であったり、スーパーで売っていたり、まな板に載ってこれから切ろうとしていたりと、現実にはリンゴ一個以外の状況がある)。

だから、イラスト絵図鑑でモノを説明するのに、一個の赤い丸々としたリンゴのイラストの下にapple, テーブルの上にこぼれた水のイラストにwaterや、 school, carなど無冠詞名詞で表され理解されているという現実があると言うのに!!、ネイティブはその単語単体のみだと何を指しているのか判らない。それどころか、その無冠詞名詞を文中で使うとイラストで指したものと違う意味になる(無冠詞appleが先の不定形に切ったりんごとか、すりおろしたリンゴ、carは移動手段概念、schoolは学習する場という概念などに)という、日本人には、およそ不可解な現象が起こるのです。

前回よりもかなり長くなってしまったのに、最後まで読んでくれたこと感謝いたします。ありがとうございました。

※ChatGPTに添削して貰ったら、独りよがり感があるので図を多用し、章を分け(別記事にし)もっとわかりやすくしろとの指摘💦💦少しずつ改訂します。

おつかれさまでした!
ここまで読んでくれてありがとう。
あなたに幸あれ!!


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