仮定法はまやかし —仮定法はまやかしだ!!3—
本記事で、ついに、仮定法はまやかしであり、ネイティブは直説法と仮定法を区別して使っていない。と言う事が判明します。
前記事、「仮定法の真の姿」の続きです。
現状の日本の英語教育の前提を、否定しているので、拒絶、戸惑い、あるいは失笑が起こるかも知れません。
しかし、こうすると、とてもシンプルになり、仮定法のみならず、完了形、助動詞過去の時制の複雑性(のみならず英語の特徴である俯瞰視点や冠詞までも)が解消するのでご紹介します。
ひとつの考えとして面白いと思いますので、「な〜にいってんだかw」と厳しいツッコミなしで、ゆるく読んで頂けたら幸いです。
※本記事下線は全てリンクですので、クリックしていただければ、解説記事に飛びます。&日本語英語とは、現行の日本の英語教育、英文法を指しています。
今まで、仮定法について、長々と「仮定法はまやかしだ!!」1、2にも渡り解説しましたが、それらを総括すると、後述の発生プロセスにより、仮定法は構造的に存在しない(えっっ⁉︎)。と言うことになり、本記事により、意味的にも無いという事を証明します(←本当かよ💦)。
今までのシリーズを簡単にまとめると、
まず、前提として
英語文法Grammarの"present form", "past form”と、日本語文法の「現在形」、「過去形」とは同じではない。
と言う事があります。
お手元の英語の参考書の現在形、過去形の項目をみて見て下さい。
現在の習慣、天体の運動、バスの運行、時間的に現在、etc・・・と、色々な意味があり、とても、日本語の現在形と同じではありませんよね。
それじゃ
これは一体何の事を言っているのか?
注意深く精査し共通する事を探ると、それは下記の↓通りで、上述の日本で教えられている英語の現在形の多様な意味は、その原意の一つの事象に過ぎません。
これらの現象のうち、時間だけをとりあげ、それを原意としてしまうと、参考書のように現在形の意味が、幾つもあって多義的に見える
と言う事になるのです。
さらに、古英語では独立した動詞変化としてあった「仮定法」が現代英語で吸収消失したことを考慮すると、その原意は以下であると思われます。
--------
present form(現在形の原語)
話者に関係がある、関与できる世界
それはつまり
今のわたしのいる世界を描写する形式のこと。
in the picture
父の職業も、天体やバスの運行も、自分の手帳に書かれた予定だってそうです。これは今いる世界を描写しているに過ぎません。
past form(過去形の原語)
話者に関係がない、関与ができない世界
それはつまり
今のわたしがいない世界を描写する形式のこと。
isn't in the picture ※※後述
過去の昨日にいる彼女は、今現在の私に声をかけれないし肩をたたけない。おなじく、妄想彼女も、今現在の私に声をかけられないし肩をたたけない。理由は違いますが、現在に関与できないという事でひとくくりで一緒にしたという事です。
--------

話者が今置かれている世界でしか直接影響できないのです。
高度な文明社会以前、
獲物はどこにいるのか?猛獣はいるのか?等々、自分(話者)の周りを把握し、他者との情報共有が非常に重要です。
その今置かれている状況。それが話者に影響する世界の描写(状況)なのです。
そういう極限?状態の時に、影響し得ない過去のことや妄想を語られたら、死に直結する。
だから、そこで分けるのです。時間では無く。
※詳細は「日本語英語教育に物申す」にて
それを、日本語英語が「現在形」と「過去形」と、時間の差違しか意味しない「現在」、「過去」という、時間の区別を意味する日本語の言葉にあてた。
そのために、日本語文法と同一視することになってしまい、種々の矛盾(完了形と助動詞の時制の取り扱い)が発生し、最終的にココ↓に至るまでになったという事です(なぜ、以下の結論に至ったかはシリーズの1、2をご一読ください)。
--------
日本語英語はpresent formを「現在形」、past formを「過去形」と訳した
↓
時間の差だけで英語の世界を分けることになってしまった
↓
「if文」に過去形なのに現在の意味という時制の矛盾が生じた
↓
矛盾が生じたそのif文を見分ける必要性が出てきた
↓
そして、分けたif文を例外として過去形だけれど現在の意味とすることにした
↓
こうして矛盾を解消した。
--------
でないと、日本語英語が規定した「過去形」を、一体どういった基準で「現在形」に訳したらいいかわからないからです(おっと、ここで閉じないで頂きたい笑)。
では原語のpast formの原意なら問題ないのか?と言う疑問は、単純に、ネイティブは時間で世界を分けておらず、日本語に訳さないので生じません(めっちゃ皮肉💦)。
詳細は→「仮定法はまやかしだ!!1」、「仮定法はまやかしだ!!2」にて解説しております。
現在完了形は現在形なのに日本語の「過去形」に訳すのは同じ病理です。
この詳細は「完了形の用法はまやかしだ!!」にて。
以上が、今までの「仮定法はまやかしだ!!」シリーズの結論です。
さて、本記事に入ります。
まず、今一度、念頭に置いて頂きたいことが二つ有ります。
ひとつ目は、仮定法の、ではなく、普通の助動詞過去文と、+have p.p文です。
共に、語っている文脈の中で、時制がズレて表現することがあります。
その時!
前者は、現在形で語る中で時制をズレらして語り、後者は、過去で語る中や過去のことについて、その時点よりも時制をズレて語っているのです。
そうやって、話者の、そのことに対する確信度の度合いを表現しています。
時制がズレた時の助動詞や完了形は、本来の意味はありません。ニセモノです。
※ このニセモノの詳細は「助動詞過去のなぞ」と「過去完了形のなぞ」参考にしてみて下さい。
ふたつ目は、一つ目の前提になることですが、一般的に英語では突然、時制は変化しない。と言う事です。これは日本語とは全く異なる、大きな原則です。日本語ではヘッチャラに飛んでも、混在していても問題ないので、日本語英語はまったく無視していますが、これは重要な原則です。
だから現在完了形は、現在形で語る中で過去のことを話題にするとき、『現在形』のhaveで、もう既に終わった事を『今』に持ってくるのです。
※ 時制が混在した日本語の文の一例は、本記事の一番最後に記しました。
それではようやく本題です。
if文は
「〜すると」----条件で実現100%の直説法if
「〜したら」----基本妄想だが実現可もありの仮定法過去if
「〜だったら」---完全なる仮定の仮定法過去完了形if
という具合にざっくり分類できますが、よく考えてみると、条件や実現可能性、妄想含め、if文はすべて「想定」です。
想定ということは、大胆に言ってしまうと、『if節』の時制は重要ではありません。なぜなら発想自由な想定だからです。実際に、古・中英語ではif節の動詞は、仮定法現在、つまり原形が使われていました(※朝尾幸次郎著『英語の歴史から考える 英文法の「なぜ」』の仮定法の項参考)。
動詞の原形と言うのは、未だ定まっていない動き、概念。概念というのは時間は関係ないと言うことですから。
この事は、日本語でも同じようなもので、意味は殆ど変わりません。
行う想定
行った想定
以下の仮定法の条件節の日本語訳を、過去形、現在形と変えて、比べてみてください。
If I meet(met) a prince on a white horse, I will(would) marry him!
If I lived in Italy, I would visit a different World Heritage.
「私が白馬の王子に会えば」と「私が白馬の王子に会ったら」
「イタリアに住めば」と「イタリアに住んだら」
If I were you,
If you heard him give his presentation,
「もし僕が君なら」と「もし僕が君だったら」
「もし彼のプレゼンを聞けば」と「もし彼のプレゼンを聞いたら」
以上の英文は「真・英文法大全」から引用しました。おそらく、お手元の参考書を開いて確認しても同じだと思います。条件節の時制を変えてみても、条件節のみならず文全体の意味は殆ど変わりません。
なぜならそれは、
話者が一番言いたいところは、つづく帰結節(主節)である
だからです。
仮定法はsubjunctiveと言いますが、これはラテン語に由来し、英語で言えばsubjoined、すなわち、sub(下に)、joined(つながった)という、主節(帰結節)につながったと言う、言葉の意味からも、この表現の主体は主節であることがわかります。※由来についても先の朝尾幸次郎氏の仮定法の項参照。
本邦日本語英語は、if節の実現可能性の有無を非常に重要視しますが、元々言いたいことではないし、主節の付録なので、それはどうでもいいです。
第一、想定なのですから。最も大事なのは主節なのです。
この、言いたい事である主節(帰結節)・・・
とりあえず、主節(助動詞過去文だけ)を取り出してみて下さい。
時制のズレに着目すると仮定法ですが、実現可能性に着目すると実現することもありうるので、普通の助動詞過去文の可能性の「だろう」になります。だから、日本語英語は両者を同じ物とは言っていないが、違う物とも言っていない。断言せず、曖昧にしています。が!同じ物です!!断言します!!!
やはり、日本語英語の、一文だけを取り出して正確に意味を汲み取らせようとするのは、意味あて推理ゲームです。
以上を念頭に、前記事「仮定法はまやかしだ!!2」で、仮定法の複雑性に拍車をかける例として挙げた
・仮定法が「未来」の意味を示す例
・仮定法が「丁寧」な文意になる例
・仮定法が「多義的」になる例
・仮定法が「直説法過去」と「仮定法過去」と区別がつかない例
を検討してみましょう(例文は河上道生著「英語参考書の誤りとその原因をつく」より、例文直後の()内文は本書の解説です)。
※条件節より後に来る帰結節なのに「突然」、と表現していますが、条件節は、“ if ”と、まず、ことわりを入れているので、聞き手は「想定」だとわかるからです。
“ → ”は、わたしの見解です。
----仮定法が「未来」の意味を示す例----
1.If a burglar(泥棒) came into my room at night I'd scream. (But I don't expect a burglar to come in./どろぼうが夜、部屋に入ることはあり得ない事ではないが、起きそうもないと話者は思っている)
2.If I dyed(染める) my hair blue everyone would laugh at me. (But I don't intend to dye it./髪を染めることは不可能ではないが、可能性は低いことだと話者はみなしている)
→
1は今、現在形で語っている中で、突然時制をズラした1の文を出したのです。
この文は、主節で時制をズラしたwould(現在形で話している中で突然過去形のwouldを出したという事)で、話者が叫び声を上げる可能性「だろう」を表現している。条件節はドロボーが入ったことを頭に描いています。
普通、女性ならドロボーが入ったら悲鳴を上げるから帰結節(主節)は、100%の現在形、もしくは、「きっと」、「必ず」の確信のwillですが、それより可能性が低い「だろう」のwouldで表現。
2も同様、現在形で語る中で、突然、時制をズラした2の文をだし、100%笑われることでもないから、主節はpresent form現在形でもないし、「きっと」のwillでもない。話者はそれより、確信性が低い時制をズラしたwould「だろう」を使って表現している。
if節は単に髪を染めた事を想定している。
いずれにしても、if条件節の「未来を意味する」とか「実現可能性の有無」は、全く重要ではありません。ただの「想定」です。言いたいことはソコでは有りません。実現可能性や未来のことの意味は、これらの文の表現の結果です。想定なのですから、条件から実現可能性から妄想までになるのは当たり前なのです。
つまり、こういうことです。
『言いたい事である主節で、100%の現在形ではない、話者の見解の助動詞でもない(結果的に可能性になる)、それよりも、可能性が低い時制をズラした助動詞過去を用いて、言いたい事を表現。この三つの中で、もっとも可能性が低いのは、時制をズラした助動詞過去です。だから、そのこと、可能性が最も低いことに対する想定(if節)が、妄想や実現不可といったことが多くなるのは当然の帰結なのです(だから実現不可性に幅があり、少ないながらも現実可もあることになるのです)。
したがって、
妄想や実現不可を表現したくて仮定法を用いるのではなくて、結果的にそうなるだけであり、順序が逆なのです。
もっと言うと、直説法が条件なのは、言いたい事の主節が実現100%の現在形を用いて表現しているから、当然それに対する想定が、条件になるのです(実現100%でなければ条件にならない)』
これは、日本語英語による完了形の病理と、まったく同じことが起こっているのです→「完了形の用法はまやかしだ!!」の記事を記事をご覧下さい。
----仮定法が「丁寧」な文意になる例----
If you did it for me, I should be very happy.
They might finish the work before dark, if all of us help them.
→
現在形で語る中で出して、“you”、“they”の行動を確定した事にはせず、想定として可能性が低いこととして表してその分、逆に“you”、“they”からすると、自分の選択権の幅が広がり、その結果、選択権がない命令との反対、つまり、『丁寧』、な表現になるのです。助動詞過去による丁寧な表現は皆、このようなプロセスで丁寧という意味になります。
----仮定法が「直説法過去」と「仮定法過去」と区別がつかない例----
If he found a patient listener, he would pour out his troubles.
→
この文は、現在形で語る中で出せば、仮定法過去になり「しんぼう強く聞いてくれる人がみつかれば、悩み事をいろいろと話すだろうが(found = were to find)」の意味。一方、彼について、思い出話を語っている過去形の中で出せば、時制はズレていないことになり、直説法過去になるので、「辛抱強く聞いてくれる人をみつけると,悩み事をいろいろと話したものでした(If = when; would = used to)」の意味になるのです(リーダーのwouldの過去の習慣とされている英文の前後の文に注目してみてください。必ず過去形の中で語られています。逆にいうと時制のズレで存在している時には『過去の習慣』という用法はないということです)。
どうでしょうか?
このように、仮定法は特別に独立した文法ではなくて、『時制をズラした助動詞』の、“ if ”という想定がついた、一形態ということになり、存在しない事にならないでしょうか?
つまり、現在形で語る中で、突然時制をズラして出した助動詞過去文と、仮定法過去文は同じであり、過去形で語る中で突然時制をズラした助動詞過去+have p.pと、仮定法過去完了文は同じだという事です。
しかし、日本語英語は、その一文だけを取り出し、それだと比較対象が無いので、時制がズレていることがわからないのに、それを問い議論するのです!!だから、付録であるif節(想定)の実現可能性を、subjunctiveの本質にすると言う、トンチンカンなことをしているのです← 一文だけを取り出すとソコしか判別材料が無いから。
はっきり言ってしまうと、日本語英語で仮定法とされているものは、時制をズラしたタダの助動詞過去文だということです。
そのズレた文を英語Grammarはsubjunctiveと言っているのです。仮定ではなく。
日本語英語教育だとif条件節が主体のように感じます(実際、私は「主節」がif節の別名とばかり勘違いしていました)。
それは、前述したように、日本語英語が、実現可能性の有無で分けざるを得なくなったからであり、だから、付録のif節にそれを求めてしまい※、結果的に、重視するハメになったからです。
このように、日本語英語の仮定法は、「条件節を重視したこと」と「実現可能性の有無」の、二重に本質から外れており、そのために、われわれ学習者にとっては、混乱させるための二重のワナになっているのです(以下のことを考慮すると三重のワナ。言葉のダブスタを含めると四重のワナ💦であまりにも複雑に絡み合っている)。
※subjunctiveに『仮定』と言う意味は何処にも無いのに、仮定法と訳したことからも、『if』を日本語英語がいかに重視したのかがうかがえます。
Grammarは、
「仮定」云々関係なく、時制をズラした助動詞の表現文法をsubjunctiveと『分類』しているのです。
それを日本語英語が、「仮定」と言う日本語を当てたから、『機能』となってしまって、おかしな事になるのです。
さらに、
一番最初に上げた(大)前提のように、英語は日本語と違い時制が突然飛ばないし、現在形、過去形は混在できません。だから、
日本語だと問題なかった時制のズレが、英語では大きな意味を持つのです。
「時制は突然ズレない」というのは、ネイティブにとって当たり前すぎて認知できないからGrammarに言及が無い。
さらに、そのうえ、日本語が時制がズレても何の問題が無い(本記事最後の例文参考)。という両者の言語の特性が、悪い事に上手く嵌まってしまい、その結果、時制のズレの重大な機能性が、日本語英語では無視され、無い事になってしまっているのです。
お手元のリーダーの仮定法(や完了形)の一文がある長文を確認してみてください。
仮定法は、現在形で語る中で突然過去形(助動詞)を、過去形で語る中で過去完了(助動詞)を使って、時制の突然のズレとして存在していますよね?
(逆に完了形は、過去のことを、今表現するときに、過去形を使っていませんよね。現在形のhaveなりhasで持ち出し、時制がズレていませんよね?)
日本語英語は
仮定法が前後の文章の時制のズレで表現するのに、一文だけを取り出すからそのズレが判らない。
だから、実現可能性や反事実という理由付けをせざるを得なかった。
と言うのが、『日本語英語の仮定法』の真相なのではないでしょうか。『Grammarのsubjunctive』じゃなく。
英語は、日本語とは全く異なる言語なのに、『視点』も『描写』も日本語と同じにするからこんなことになるんじゃないんですか??
しかも『文法用語』すらも日本語文法用語を使っているから、英語を日本語として理解することとなり、いつまで経っても日本語が介在し、日本語が離れない。だから、我々学習者は英語脳を学べずに、大変な苦労を強いられているんじゃ無いんですか?
英語は日本語のために、日本語に訳すために存在しているのではないのです。
以上です。
日本語英語が定義する仮定法は、完全に消失してしまいましたね。
これなら、非常にシンプルなので、小学生でも、天才でなくても、誰でも、自由に使えます。
このように、英語を使う上では、直説法、仮定法は不要になり、意識する必要はなくなりました。ましてや、実現可能性を問う事は意味のないことになります。この想定の結果が実現可能等々『分析』するのは言語学者の仕事であって、一般人、ましてや英語学習者には全く必要ありません。
くどいですが、繰り返します。
まず、主節で言いたいことがあり、
それを話者の心的態度(どう思っているか)により、助動詞現在形や確信度が下がる助動詞過去形を使い。はたまたノーマル現在形で表現。
たった、それだけのこと。
そして、現実可能性云々は、その想定は思い浮かべていることの結果なので、当然、可能性の幅が出る事になるのです。
どうでしょう。
時制をズラした表現をsubjunctiveと言う。
とすると、すべて辻褄が合うとは思いませんか?
これを、従来の日本語英語どおりに『仮定』法と訳し、理解しようとすると、とてつもなく複雑で、無秩序になってしまうです。
結論
subjunctiveではなく、現状の日本語英語での仮定法は、「過去形」なのに「現在形」で『日本語に訳す』例外を区別するものであり、
「実現不可性」が『仮定法の本質』となったのは、一文だけを取り出すから、見つけ出すことがソコしかな無くなってしまったからです。
↑
present form≠時制的に現在の形、past form≠時制的に過去の形
とすれば
そもそも
直説法および仮定法は区別不要になるのです=ネイティブは両者を区別して使っていない。
そう、鬼舞辻無惨の正体は日本語英語だったのです!!
ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!!
※現在形と過去形が混在する日本語の文章の一例。
刑事はグイッと縄を後ろに引いた(過去形)。
「ングーーーッ!」
後ろ手に、椅子に縛り付けられている犯人は、たまらず、猿ぐつわの奥からうめき声を洩らす(現在形)。だが刑事は、かまうことなく縄をキツく締めあげた(過去形)。ギュッギュッと引っぱる度に呻き声が上がる(現在形)。犯人は、何とか逃れようと暴れるが、無駄なあがきだった(過去形)。そして最後に、縄尻を背もたれの脚の桟に繫いでしまった (過去形)。後ろから見ると、後ろ手で 1本になった腕と、椅子の横棒の桟が90度で交わり、逆T字を形成している(現在形)。
↑
ちなみに、この文章の現在形と過去形を逆にしても、バラバラにしても、日本語として成立でき、意味は変わりません。
当然のことながら、英語はこの現在形と過去形が混在する日本語文章をそのまま英訳出来ません。
ChatGPTによると
『現在形と過去形を逆にしても文が成立する』
のは、世界的に見て異常レベルに特殊な言語構造で、英語のみならず、フランス語・ドイツ語・中国語でもほぼ不可能らしい・・・。
※※ in the picture, isn't in the picture
Z会のCore1800 ver1.0に
Teens can flourish “when stepparents don’t pretend the biological parent isn’t in the picture” and when they reassure the child that it’s fine to love that parent. “But make it clear stepparents are in charge at home.”
また、旺文社のDIALOGUE1800初版に
I think you've got the wrong picture. I'm holding an interview because they want to become teachers in Japan. This isn't an "eligible bachelor's" party.
とあります。
世界を描く
picture
それが違うと
前者は「関係ない」
後者は「勘違いしている」
ともに描いている絵が違うから導かれる日本語訳。
これが英語の根幹であるから
だから(飛躍過ぎ?💦)
現在形は今のpictureにある。←関与できる。関係できる。
過去形は今のpictureにない。←関与できない。関係できない。
よって、過去形や仮定法は今描いているその絵にない。
完了形は今その絵にはないことを今その絵に持ってくるhaveすることで、関与させているのです。
このように英語は、英語による表現や描写というのは、シーンを(俯瞰で)描くこと。
話者を中心とした世界を描写、話者が話す世界の描写。
例えは『最後の晩餐』に描かれている絵は、すべて同じ時制。
最後の晩餐には、同じ画面の中で、ある人は昨日、ある人は明日、という時間は描けない。
イエスも
ペテロも
ユダも
皆同じ「今」に存在している。
ユダだけが
「30分後に銀貨を受け取っている姿」
にはなっていない。
ペテロだけが
「明け方に鶏の鳴き声を聞いている姿」
にもなっていない。
絵は一つの時間軸を共有している。
就寝している奴はいないし、起きたばかりで顔を洗っている奴もいない。
外は日が暮れる晩餐であり、太陽がサンサンと照っている昼間でも無い。
絵には時制が混在して描く事が出来ない。
と同様に英語の表現もそうだということ。
正確には『動画映像』だけど。
このように話者が描いている絵pictureを英語の表現ルールにしたがって、言葉として表し、聞き手はそれを自分の頭の中に再現し直す。
それが英語学習であり他言語習得手順だと思う。
決して日本語に訳すことでは無く。
助動詞を使って表現するというのも、その絵に(正確に)描くことが出来ない事の描写。
たとえばWill
文法書には一般的に『意志』、『未来』、『予測』とかの機能があるとありますが
結果的に未来の出来事とかになるだけであって、will自体がこれらのことを表現するという機能では無いのではないでしょうか。
本質は
話者が世界(scene)を描写するにあたって
実際に見た、現実を描写しているのでは無くて、現在形で描写しきれないことの描写
にすぎないのでは?
話者は神では無いので、現実として全てを体験し知っているわけでは無いのです。
繰り返しますが、
助動詞とは話者が世界を描写するにあたって、『これは話者の見解、判断だ』というサインで
willのばあい、それが結果的に文脈により『意志』、『未来』、『予測』とかになるに過ぎない。
willとは、話者がまだ眼前の確定した事実としては描けない世界を、自分の側から提示し、当然それを聞いた聞き手も、厳然たる事実であるとしてsceneに再現しない。
このように
時制を「時間」ではなく「描写の一貫性」とし、時制の違いは描く画用紙の違いとして捉えると、ずいぶんとスッキリするのですが・・・わたしだけ??💦。
