450年前に消滅した自律分散型組織——神戸市丹生山系の武装集団
赤色立体地図で神戸市北区の山奥を眺めていたとき、ネット検索ではまったく引っかからない謎の城郭遺構を見つけた。この発見が契機となり、組織構造の研究を進める上で、思わぬ拾い物をしたのかもしれない。
山奥に点在する20以上の城
現地調査に行っていただいた方から神戸市に問い合わせしていただいたところ、高泉寺城は周知の埋蔵文化財であるとの回答を得た。この城の発見者は木内内則(ただのり)さんという方で、兵庫県内で300以上の城の測量を行ってきた、本業は額縁職人の城郭研究家だ。
神戸新聞NEXTに掲載された木内さんの記事は、こんな投書から始まっている。「南北朝時代の初め、丹生山周辺には、小さな山城が20ほどあった。私はその測量を続けている」。
確かに、摩耶山周辺から裏六甲にかけて、滝山城、多々部城、淡河城、天正寺城、三津田城など、城郭として認知されているものがある。それに加えて、城なのか砦なのか寺院なのか使用目的が判然としない遺構を合わせると、赤色立体地図からだけでも、この地域に軽く20以上の遺構を確認できる。
「兵庫五国の城・摂津・神戸市」というサイトには、岩谷山砦、黒甲山砦、金剛童子山砦、獅子見山砦、箕谷城、西脇砦、花折山砦、柏尾城、柏尾南砦、柏尾西砦、柏尾東砦、稚子ヶ墓山城、東下城、坂本砦、北山城、摩耶山城、上野塞、荒堀城、尾上城、正楽寺城、谷上城、古倉山砦、畠田砦、山田館、鷲尾三郎屋敷と、同地域に25の城郭が紹介されている。
仮説——中世の神戸に戦闘や物流を担う自律分散型のネットワークが存在した
この見解は完全に私独自の見解だ。ただし、以下のような状況証拠を総合すると、そうした構図が浮かび上がってくる。このネットワークの起源は鎌倉・南北朝期にまで遡る。それが最も先鋭的な形で表面化し、そして消滅したのが、天正年間の三木合戦——今からおよそ450年前のことだ。
(1)中心を持たないブロックチェーン構造——自律分散ネットワークとは何か
最初に、仮説の骨格を示しておきたい。
一揆は傘連判状という放射状の署名を用い、首謀者を特定させない仕組みを持っていた。今回対象としている丹生山系の武装集団にも、その中核的リーダーの名は伝わっていない。個々の武士や僧兵を率いた指揮官の名は残っていても、ネットワーク全体を統べる存在は見えないのだ。
たとえばアルカイダのような自律分散型の組織では、一つの拠点を叩いても全体にダメージを与えることができない。米軍が苦戦したのもこの構造を克服できなかったことが大きい。その分散型ネットワークの原理を応用したのが、金融などで使われるブロックチェーンのシステムだ。このシステムを打破するには、すべての拠点に対して同時に攻撃を加えなければならない。時間差をつけた逐次攻撃では意味をなさず、総攻撃をかけるしかない。
丹生山系のネットワークもこの構造にあったのではないか——というのが、これから示す仮説の核心である。重要なのは、このネットワークの側に「盟主」がいたわけではないという点だ。別所氏という戦国大名が存在し、三木合戦においてはこのネットワークが別所氏に味方した。しかしそれは、別所氏がネットワークを支配していたからではなく、中心を持たないネットワークが、自らの意志で別所氏を支援する側に回ったのだと私は考えている。
(2)赤松円心は金融・流通業の出身
赤坂憲雄によれば、赤松円心は足利尊氏に味方して北朝側につくまで、鴨社神人となった海民の根拠地である摂津長洲御厨の荘官であった。神人とは、特定の神社に属し、関所の通行税免除や商業の独占権を持ち、金融や流通を担った者のことだ。網野善彦も、当時の地方武士の多くを指す「悪党」について、そのほとんどが「供御人」であったことを述べている。供御人とは、朝廷や上皇に山海の特産物や食料、手工業品を貢納した中世の職能集団を指す。先述の木内さんによると、神戸市北区周辺に展開された城郭軍は南北朝の戦いの時期に作られたものが多いという。
(3)中世の職能集団は皇室との結びつきを持っていた
近世に入って被差別民に組み入れられた中世の漂泊民は、特定の職能に基づく身分や地位を持っていた。そしてその多くは、職能を通じた貢納という形で皇室と何らかの関係を結んでいた。これは網野善彦の唱える有名な説だ。たとえば近江の木地師は小野宮惟喬親王による免状を持っていたことが今日にまで伝わっている。ほとんどが偽造とされるにしても、全国各地の職人集団の多くがこうした皇室につながる免状を所持していた事実は注目に値する。
※「3-3 山の民・川の民(前編)——木地師・サンカ、山を渡る人々」に詳述
https://note.com/ijourney/n/n212211003b25
(4)丹生山系は朱・水銀によって密教・修験道とつながっていた
丹生山系に朱(辰砂)や水銀の産出があったことは、この地域に宗教関係者や鉱山関係者といった非農耕民が集積していたことを意味する。さらに加古川流域の上流では砂金が採れ、三木、小野、西脇、黒田庄といった加古川水系の内陸部では、ささら製鉄に始まる刃物や鉄製品の製造が盛んだった。つまり、山中に非農耕民による生産から流通までのサプライチェーンが形成されていたのだ。
※朱と鍛冶については以下に詳述
「3-1 朱の大地」 https://note.com/ijourney/n/n775675ff40af
「3-2 鍛冶と片目の神」 https://note.com/ijourney/n/nb9cc37d75cce
その実態を裏付ける一節が『三木戦史』に残されている。
別所氏は摂津の境なる丹生山に一塁を築き、浮浪の士民二千余人を使役して、花隈城との連絡をとり、山の尾伝いに忍びに忍んで兵糧を城内に運び込ましめてゐた。
「浮浪の士民」。まさに中世の漂泊民たちがこの山塞に集結していたことを示唆する一文だ。
なお、このネットワークの兵站ルートの具体像——加古川・美嚢川・志染川ルート、明石川・木津川ルート、生田川・六甲山系ルートという三つの内陸水運経路と、それを支えた国人・舟座・「ワタリ」「タイシ」と呼ばれる山の民・川の民の存在——については、以下の記事で詳述している。
※「内陸水運と原始一向宗 ~山の民と川の民が結んだ戦国播磨のネットワーク~」
https://note.com/ijourney/n/n6f67e6cc35d1?magazine_key=m607a19d094da
(5)辺境——中間領域の民の存在
神戸市中央区に野崎通という地名がある。滝山城の東南端にあたるこの一帯には、中世の頃「野先衆」と呼ばれる職能の民が暮らしていたようだ。網野善彦の研究によれば、中世には権力や村落共同体の支配が及ばない辺境的な空間——無縁所・公界と呼ばれる領域——が各地に存在していた。私は、この「野先」がまさにそうした空間であった可能性が高いと考えている。
そこから坂下は農耕民や常民が暮らす領域。坂上は炭焼き、杣人(木を伐る者)、修験者、薬草採り、鉱山師たちが暮らす山の民の世界だ。こうしたアジール的な中間領域が存在するということは、その背後に必ず山の世界が広がっている。摩耶山から奥へ入り、朱の文化圏を持つ丹生山系は、まさに山の民の都だったのだ。
(6)淡河の領主は一向宗の形成に大きな影響を及ぼしていた
戦国期の一向一揆の母体となったのが、鎌倉時代に興った念仏系の宗派、時衆である。その時衆が途絶えかけた時期に救済の手を差し伸べたのが、当時この淡河周辺を支配していた北条氏であった(後の戦国期には淡河氏を名乗る)。そう考えれば、本願寺と同盟した上で別所氏の支援に回ったことは容易に想像がつく。
今回、地図上で見つけた高泉寺城の最も大きな曲輪は、地図上の計測で一辺が95mある。現地を探索いただいた菅原裕司氏によれば、その想定される館の規模は「守護クラス」とのことだった。高泉寺城は現在の淡河城跡の裏手の山中に位置する。あるいは、ここが北条氏の館であったのかもしれない。
※時衆の成立と淡河氏の関係は以下を参照
「3-8 他阿弥陀仏真教——念仏と密教・修験道の交差点」
https://note.com/ijourney/n/n7347a813558e
(7)中世において城と寺は未分化だった
本文に「城なのか砦なのか寺院なのか使用目的が判然としない遺構」と書いたが、そもそもそれらを截然と分けること自体に無理がある。今回の高泉寺城を筆頭に、この地域には石峰寺城、天正寺城など、寺がそのまま城になっている事例が多い。
先述の神戸新聞の記事で、木内内則さんはこう語っている。「寺院の一角を借りて城にし、大部分の兵士は寺にいたのではないか。当時の状況から寺院の協力がなければ戦いをする事は困難だった」。当時の寺院が大きな領地と商業権を持っていたことが前提にある。(2)で述べた寺社勢力と「悪党」と呼ばれた武士団のつながり、すなわち中世の金融・流通のプレーヤーたちの姿がここにも浮かぶ。
私たちは「僧」と聞けば、仏門に帰依し、仏事の際にお経をあげる存在をイメージするだろう。しかしそれは近世以降のスタイルだ。中世はまったく異なる。彼らは妻帯し、金融を担い、武装して戦場にも立ち、民の命も奪った。では武士と何が違ったのか。おそらく、戸籍上の区分だけではなかったか。仏門に入るとは「出家」して「家」との関わりを断つことである。仕える対象が「主君」ではなく、阿弥陀仏や大日如来といった「仏」になる。そこに明確な主君がいなければ、組織がヒエラルキーの形をとることはない。ここに、(1)で述べた自律分散構造が成立しうる基盤がある。
(8)淡河氏はゲリラ戦に秀でていた
「三木合戦絵解き」では、淡河城に攻め寄せる羽柴秀長に対して、城主・淡河弾正定範が奇計をもって臨む場面が、実にリアルに描かれ語られる。
淡河弾正、知勇兼備の大将なれば、丹生山の様子を聞いて、当城に攻め来たること、五三日は過ぐべからず、いざや用意すべしと近在にフレを回し、メンマ60匹あまりかり集めさせ、定範自ら指図なし、掘りを切り、落とし穴、乱杭、逆茂木、大綱、小綱と用意たいてい備わりしところに、秀吉この由を聞き、淡河弾正、城外に出て普請すること油断の至り、すわや攻めよと、軍勢五百余騎を従え、勇み進んで押し出だす。弾正は静まり敵を間近におびき寄せ、彼のメンマ六十匹を一度に放ちかくれば、敵の乗ったるオンマども、狂い跳ね回り、真っ逆様に落つるもあり、踏まれて死するもあり、落とし穴に落つるもあり、綱につまづき、倒るるもあって、手負い死人数知れず。秀吉はほうほうの体にて平井の城に逃げ帰る。
『三木戦史』には同じ合戦の経緯がさらに詳しく記されている。
丹生山の夜襲に成功した秀長は、その北口を守れる淡河彈正定範の淡河城攻撃に取りかゝつた。有馬法印、杉原家次、淺野彈正等は三方に別れて各附城を造営し、以て淡河城攻撃の準備に着手した。城将定範は別所方の智將であり又豪勇でもあつた。丹生山の落去したる後は敵兵の必ずや来つて淡河城に迫るべきを豫期し「天時不如地利、地利不如人和」(天の時、地の利にしかず、地の利、人の和にしかず)と、士卒を激して士気を鼓舞した。先づ郎黨五六十人、足輕三百人許りに普請道具を持たせ、敵の来るべき道に落し穴を掘り、或は馬ざくり、車菱を作り、逆茂木、大綱を張り、又近郷に足輕を走らせ、陰馬一匹引き来らんものには錢三百文與ふべしと觸れ立て、束の間に陰馬五六十匹を集めて戰備を整へ、敵の来るを今や遅しと待ちうけた。又人を出して、「彈正油断して今朝城を出で道普請仕る」との風聞を立てさせた。秀長は之を聞き、「大将定範の小勢にて城を出でたるこそ幸ひなれ」と、自ら手の兵五百騎餘りを二手に分け、不意を討たんと押寄來つた。彈正豫て期したることなれど狼て恐るゝ態を見せ、静々と引き退きて陣に入れば、先を争ふ寄手の兵、どつとばかりに駈け来れば、彼の落穴、車菱にて支へられ、隊伍を亂してありける時、城内の兵五十餘人、素肌になつて切つて出づ、「それ素肌の小勢ぞ、馬武者にて駆け散せよ」と、下知すれば、逸り男の若武者、馬上に鎧を提げて一気にも駆け散らさんと、先を争ひ攻め来る。定範今こそ時分は良しと、豫て用意の陰馬を引き出し、敵陣目懸けて追ひ放ち、散々に叩き立て、鬨を作って呼び叫べば、寄手の馬ども跳ね廻り、軍勢多く跳ね落され、味方の鎗先太刀先に貫かれ、互ひに蹴り合ひ踏み合ひて、手傷を負ふて散亂する。この時定範自ら采配とり、一族郎黨五十八人、敵勢の真只中へ突撃する。城に残りし舎弟の淡河新十郎、百四五十崎を引き連れて、駿馬に鞭ち駆け出で、逃ぐる敵をば追ひ懸け追ひ伏せ、中にも定範兄弟は先頭に立つて立ち働く、甥の江見又四郎、従弟椙原大膳、宇野兵庫、高田與市等、馬を並べて追ひ討ちし、多数の敵を討つて取る。定範は勝ちたる軍に長追ひは無用ぞと〇(印刷による文字つぶれにて読解不能)ては兵を引き纏め、城内さして引き返した。
『平家物語』に描かれる木曾義仲の「火牛の計」がモデルになっていることは明らかだ。同じく『別所長治記』の神吉城合戦には、やはり『平家物語』の「橋合戦」を範にとった梶原冬庵入道の奮戦場面がある。軍記物が軍記物たるゆえんだが、一方で、『三木戦史』には牝馬一匹を調達するのに銭三百文という具体的な数字が出てくる。現代の価値に換算するとおよそ4万円。随分と妥当な金額に思えるが、その妥当さにこそリアリティがある。
こうしたゲリラ戦術に長けた武装集団が山中の職能民ネットワークの周縁に形成されるという構造は、丹生山系に限った話ではない。近江の小椋谷から鈴鹿峠にかけて展開していた木地師たちのネットワークの周辺には、伊賀者・甲賀者と呼ばれる諜報・ゲリラ戦の専門集団が組織化されていった。山中に非農耕民の生産・流通ネットワークが存在するところには、それを防衛し、あるいはそこから派生する形で、正規軍とは異なる戦闘集団が生まれる。丹生山系で起きていたことは、その構造の一変種と見ることができる。


本来口伝であったものを地元の鍛冶・高芝郁夫氏が書き起こされたもののコピー。
(9)雑多な兵力を束ねたのは武士だった
一揆勢、僧兵、町衆といった戦闘を本業としない民衆が武装蜂起するとき、その指揮を執ったのはたいてい武士であった。
事例① 法華一揆
京都で起きた法華一揆では、管領細川晴元の家臣・柳本賢治の配下にあたる山村正次が民衆の指揮をとったという。
※詳細はこちら
「3-14 山科本願寺焼失と法華一揆——信仰と武装する町衆(前編)」
https://note.com/ijourney/n/n4c4c92a712aa
「3-15 山科本願寺焼失と法華一揆——信仰と武装する町衆(後編)」
https://note.com/ijourney/n/n4b049635a880
事例② 高野山と織田信長の戦い
本能寺の変の半年ほど前、紀ノ川を挟んで南に高野山軍、北に織田軍という対峙が始まっていた。このとき高野山側の大将を務めたのが二人いる。一人は南蓮上院弁仙で、遊佐信教の息子。もう一人は花王院快応で、遊佐信教に殺されたとされる畠山昭高の息子だった。信長に奪われた河内の守護と守護代、その息子同士が親の因縁を捨てて手を結び、強大な織田軍に立ち向かっていた——その最中に本能寺の変が起きる。二人とも20歳前後の若者だったという。
事例③ 丹生山の砦を守ったのは落城した志方城の武士
丹生山城の南口を守ったとされるのが、志方城幕下「神木(こうぎ)構居」の城主・高橋平左衛門政純である。史料によれば山田村東下村にその砦があった。城の北口を守ったのは先述の淡河定範。いずれも屈強の武士であり、彼らが丹生山城の防衛を支えていた。
事例①は、肥大化した本願寺を討つために室町幕府の管領・細川晴元が京都の民衆を煽り、武力蜂起させたものだ。権力の中枢にある管領自身が民衆軍を率いるわけにはいかないが、指導者は必要となる。そこで戦の指揮に長けた陪臣が選ばれた。もちろん、京都の治安を預かる管領が民衆を煽動するなど表沙汰にできるはずもなく、裏工作が行われている。事例②と③はいずれも、敗れた武士とその家臣団が転戦しつつ僧兵や一揆を率いた例だ。落城しても城主一族や家臣のすべてが命を失うわけではない。こうした形で次の戦場に身を投じるケースは当然ありえた。一向一揆を率いたのも、悪党やバサラといった正規の武士団から外れた者たちであったことがわかっている。
(10)大阪湾沿岸に共通する「山と海」の二重構造
丹生山系のネットワークは、神戸市北区だけの孤立した現象ではない。実は、大阪湾を取り囲む地域に共通する構造が存在することに気づいた。
紀伊国の雑賀五郷を例にとろう。根来寺と中郷・南郷・社家は織田方につき、雑賀荘・十ヶ郷は本願寺方についた。前者は山側の勢力であり、後者は海側の勢力と呼んでよい。この「山と海」の分化は、大阪湾沿岸の各地に見出すことができる。西から順に、姫路に対する飾磨、志方に対する高砂、三木に対する明石、滝山(野先)に対する花隈・生田、伊丹に対する尼崎、高槻・茨木に対する大坂。いずれも内陸の城と海沿いの港が対になっている。
そして何より重要なのは、これらの地域において海側が本願寺・一向宗の勢力下にあり、山側は真言宗を中心とした「聖」たちのネットワークでつながっていたという共通項があることだ。丹生山系のネットワークは、この大阪湾沿岸に広がる「山の聖」のネットワークの一部であった可能性がある。神戸だけを見ていたのでは見えなかった、より大きな構造がここに浮かび上がってくる。
ネットワークの終焉
ここまでが、「中世の神戸に自律分散的に活動する武装集団が存在していた」という仮説を裏付ける状況証拠だった。では実際に、このネットワークはどのような顛末を迎えたのか。引き続き『三木戦史』から引きたい。
明要寺や高男寺や近江寺の寺家衆等も累代恩顧の別所氏が危急の場合、今の窮状を他所目に見過ごすことは出来ない、童僕児輩や僧侶に至るまで、敵の厳重なる監視の中を、種々に變装して糧道輸送の任に従事した。然るに別所氏が秘密裡にするこの計畫も忽ちにして秀吉軍の探知するところとなり、兵糧輸の雑人等は捕へられて一人も残らず殺戮された。秀吉は弟秀長をして、夜襲に馴れたる兵三百餘人をひて出せしめ、七年五月二十二日の夜、折柄の風雨に乗じ、不意に丹生山を襲撃し、山に火を放つて之れを焚いた。守備の兵或は死し或は逃れ、可惜我國の佛教史上に特筆すべき丹生の山も、一宇を残さず悉く灰燼に帰した。丹生の堡壘も敵手に落ちた。けれども尚花隈城との連絡は未だ全く絶するには至らなかった。秀吉はまた之れを偵知し、再度越と丹生山との中間要衝の地に關所を設営し、三木と花隈との往來を監視した。監視の任に當つたのは、秀吉と最も關係の密接なる杉原七郎左衛門にして、當時彼が村民に奥へたる布告の文響は今も尚山田村に保存されてゐる。
そして、その布告文がこれだ。
急渡申候、其鄉敵城近事候間、今後敵方の士卒出入可停止候、自然猥り候はば以來可糺明候間、可有其心得殊、殊に小屋など其儘可被在置事に候はゞ、番屋契可被下付候。無沙汰無之様其殘遣告用之。敵方の者出入成敗の上は、筑前先づ參り候共可相留候。此旨相背は於在御座頭遣可糺明旨聊不可在異亂候
杉原七郎左衛門
(現代語訳)
急ぎ通達する。
この郷は敵の城に近いため、今後、敵兵の出入りを禁止する。万一みだりに出入りがあった場合は厳しく取り調べるので、そのつもりで心得ておくように。もし小屋などをそのまま残しておきたいのであれば、番屋より証文を下すので申し出よ。怠りのないよう、この命令を残らず伝達し周知徹底せよ。
敵方の者が出入りしようものなら成敗せよ。
たとえ「筑前(秀吉)の使いだ」と言われても通さず差し止めよ。
この旨に背く者には目付を派遣して取り調べる。この布告に少しでも異議を申し立てることは許さない。
杉原七郎左衛門
注目すべきは二つある。まず、城郭ネットワークの中心とされてきた丹生山の城が陥落しても、ネットワーク自体は機能を失っていなかったことだ。 (1)で述べた自律分散構造の特性そのものである。中心を潰しても全体は崩壊しない——だからこそ秀吉は関所を設けて監視を強化しなければならなかった。そして布告文からは、人の往来に対する異常なまでに強い監視の意志が読み取れる。往来こそがネットワークそのものだからだ。
この布告が出された後、(8)で述べた淡河の合戦が始まる。丹生山落城の翌月、天正7年(1579年)5月のことだ。『信長公記』にはこうある。
五月廿五日 夜中 羽柴筑前守秀吉播州海蔵寺の取出へ忍ひ入乗取候依之 次日置おふごう之城も明退也
秀吉は海蔵寺の砦に夜陰に乗じて兵を忍び込ませ、砦ごと乗っ取った。これにより、抵抗を続けていた淡河城の将兵も城を捨てて退去した。
どうやらこれが、ネットワークの終焉であったようだ。神戸市北区を中心とするこの地域だけでなく、小野、加東、加西など広範囲の寺社で、由来が判明しているものの多くが「天正年間に焼失」と記されている。それらの寺社には兵が駐屯し、とりわけ兵站の面で別所氏を支えていた。その裏返しとしての焼失なのかもしれない。
ちなみに、ネットワークにとってその陥落が「最後の止め」となった海蔵寺砦跡は、いまだ発見されていない。
※扉絵は火を上げる丹生山明要寺の砦。(三木合戦絵図)
こちらの菅原様の記事と連動しております。
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