ソリテールとマハトの転生・再生(新説・決して逃れられない魔族としての性質)【葬送のフリーレン】

無名の大魔族ソリテールと七崩賢・黄金郷のマハトの転生(生まれ変わり)や再生(復活)に関する考察です。また、その考察からの流れで「決して逃れられない魔族としての性質」に関する自説を更新しましたので、それについても触れておきます。

「黄金郷編」の内容に触れています。

「今はそれで十分」

取り扱うのは、デンケンの高圧縮ゾルトラークにより致命傷を負ったマハトがヴァイゼの街を彷徨いながら回想したソリテールの台詞です。(第11巻103話)

本当は君を殺すつもりでこの地を訪れたの。
でも私は君との戦いを恐れてしまった。私は自分の命を懸けてまで種を存続させようとするほど変わり者ではないの。
どれだけ思考を巡らせようと、どれだけ異端で異常だろうと、私たちは魔族なのよ。
魔王様もシュラハトも君も、形は違えど決して逃れられない魔族としての性質を持っていた。
それだけ知ってもらえれば今はそれで十分。

『葬送のフリーレン』第11巻103話(太字は引用者による)

このソリテールとマハトの会話があったタイミングは、ソリテールが黄金郷の大結界を破壊した後、ソリテールとマハトがフリーレン、デンケン、フェルン、シュタルクと対決する「黄金郷編」最後の戦いの前です(二人がヴァイゼの噴水前にいることから第10巻95話の会話の続きです)。つまり、ソリテールもマハトもこれから激しい戦いに臨むことを理解しての会話です。この状況も押さえておいてください。

なお、ここでソリテールが言っている「決して逃れられない魔族としての性質」とは「死への恐怖・生への執着」です。後に考え方を更新しますが、取り敢えず今はそう理解しておいてください。この理解については下の記事を参照ください。

では、本題に入ります。

マハトの死

マハトは、致命傷を負ってヴァイゼの街を彷徨っている時に、ソリテールの言葉のとおり「決して逃れられない魔族としての性質」(死への恐怖・生への執着)が自分にもあることを悟りました。それまでマハトは「自分は他の魔族たちとは違う」と考えていたのですが、マハトの考えは誤っていてマハトも他の魔族と同じでした。ソリテールの言葉が正しかったのです。

それをきっかけに、マハトは先に引用したソリテールの言葉を回想します。ここでソリテールは「それだけ知ってもらえれば今はそれで十分」と言っています。この台詞がポイントです。

「それだけ知ってもらえれば今はそれで十分」ということは、「それ以上は今はまだ知らなくていい。それ以上は後で知れば十分」という意味です。

しかし、この時のマハトは既に致命傷を負って死が間近に迫っており、この後すぐにデンケンにとどめを刺されて死ぬのです。マハトが「それ以上」を知る機会は永遠に失われてしまったのでしょうか?

ソリテールの台詞は、フリーレンたちとの戦いに臨む直前のものです。魔族ですから負けるとは思っていないかもしれませんが、かなり激しい戦いになることは理解していたはずです。ソリテールはマハトに加勢に来ているのですから、マハトだけでは危険だと考える程の厳しい戦いを予想しているわけです。

にも関わらず、ソリテールは「後で知るべきそれ以上のこと」をマハトには教えませんでした。フリーレンたちとの戦いに敗れて死んでしまうかも知れないというのに。(死ぬなら知っても意味がないから教えない。生き残ったら教えればいい。というドライな考え方もあるでしょうけれども)

そうすると、マハトには仮に死んだとしてもまだ後がある(終わりではない)ことをソリテールは知っていたのではないか?と考えられます。マハトには転生や再生の可能性があるのでは?ということです。

ソリテールの死

また、前述したとおり魔族には「決して逃れられない魔族としての性質」として「死への恐怖・生への執着」があります。この性質からは魔王や全知のシュラハトさえも逃れられなかったとソリテールは語っています。

にもかかわらず、ソリテールは死に際にもフリーレンに対して天邪鬼ぶりを発揮しており、死を恐れる様子はありませんでした(第11巻102話。これは、不死なるベーゼがヒンメルに討たれた場面が描かれたのと同じエピソードです)。

このソリテールの死に際の態度からは、ソリテールはまだ自分には後がある(終わりではない)ことを知っている、転生・再生することを知っていると考えられます。

他の大魔族について

では、魔族なら皆、転生・再生するのでしょうか?ソリテールとマハトの他に転生・再生する大魔族はいるのでしょうか?(もちろん、不死なるベーゼは別枠とします)

これに関しては、次の項に譲ります。

ただ、『小説 葬送のフリーレン~前奏~』(著:八目迷、原作:山田鐘人、作画:アベツカサ)の原作者の「あとがき」には次のくだりがあります。

本編では出番を終えてしまった魔族たちとの再会など、どれも読み終えるのが名残惜しくなるような、そんな小説でした。

この「あとがき」を素直に受け取るなら、アウラ、リュグナー、リーニエ、ドラートの復活はなさそうです。残念!

「…ありえない…この私が…」

「形は違えど…持っていた」

ここからは試論のようなものになります。

ここまで、「決して逃れられない魔族としての性質」とは「死への恐怖・生への執着」であると考えてきました。

そして、ソリテールはマハトに対して「私たちは魔族なのよ。魔王様もシュラハトも君も、形は違えど決して逃れられない魔族としての性質を持っていた」と述べています。

確かに、七崩賢のマハトとアウラはその死に際して「死への恐怖・生への執着」を見せました。その他の多くの魔族も死に際して「死への恐怖・生への執着」を見せることがほとんどです。

しかし、ソリテールにはその死に際して「死への恐怖・生への執着」が見られなかったことも事実です。また、魔王や全知のシュラハト程の存在にも本当に「死への恐怖・生への執着」があるのか?と言われれば確かに疑問は感じます。

そもそも、魔王とシュラハトが既に死んでいるのかははっきりしていませんし、ソリテールがその場面に立ち会っているわけでもないでしょう。(私は魔王は生きていて封印されていると考えています。シュラハトは南の勇者と相打ちしたとされていますが、これにも疑問はあります。)

つまり、「決して逃れられない魔族としての性質」とは「死への恐怖・生への執着」である、という理解にはおそらくは不正確なところがあるのです。

もう一度、ソリテールの言葉を引用します。

私たちは魔族なのよ。
魔王様もシュラハトも君も、形は違えど決して逃れられない魔族としての性質を持っていた。

『葬送のフリーレン』第11巻103話

ソリテールは「君(マハト)も…持っていた・・」と述べています。「魔族は皆この「性質」を『持っている・・』ものである」という一般論を述べているわけではありません。

つまり、マハトに出会い、マハトにも「性質」があることを確認したという個別の事例について述べているわけです。魔王についてもシュラハトについても同じです。魔王とシュラハトに会って確認した個別の事例について述べています。

しかも、「形は違えど」と言うのですから、この「性質」には個性があるわけです。

ソリテール、魔王、シュラハト、マハトそれぞれで形は違う。マハトとアウラその他の多くの魔族の場合は、「性質」の形が共通していて、死に際してその「性質」が「死への恐怖・生への執着」として現れた。ソリテール、魔王、シュラハトの場合、その「性質」はマハトたちとはまた違う形をしている。

そう考えれば、ソリテールが死に際して「死への恐怖・生への執着」を見せなかったことが理解できますし、魔王やシュラハト程の存在にも「死への恐怖・生への執着」があるのか?という疑問も解消されます。

新説「決して逃れられない魔族としての性質」

では、「決して逃れられない魔族としての性質」とは一体何なのか?という話になるわけですが、これはかなり難しい問題です。この「性質」の難しいところは、全ての魔族に共通する性質だけれども同時に個性もあることです。

マハトがこの「性質」に気付いた経緯からして、おそらく「死」は一つの手掛かりでしょう。魔族の死といえば、まず想起されるのは魔族の遺体が「魔力の粒子になって消える」ことです。これは不思議なことで、身体が魔力で構成されているのだとすれば、魔族は通常の生物ではあり得ません。とすれば、この「性質」は魔族の起源とも関係がありそうです。

魔族の起源に関して私は、賢者エーヴィヒが永遠の命を研究する過程でエルフをコピーして作り出した複製体が魔族の起源ではないか?という仮説を持っています。そのコピーのための魔導具が「一級魔法使い試験編」と「黄金郷編」で登場した「水鏡の悪魔」と「支配の石環」で、魔王が唱える「人類との共存」とは魔族にとっては人類からの独立戦争(従属関係ではなく対等な関係を結ぶ事)だという見方です。これに関してはいくつか記事を書いていますので、マガジン「『葬送のフリーレン』を読む」をエーヴィヒで検索してみてください。

ここで思い付くのは、零落の王墓でシュピーゲル(水鏡の悪魔)によって作られていた複製体が、撃破されても一定時間の経過(正確な条件は不明です)で復活したことです。これはまるで本稿の前半で検討した魔族の転生・再生の様ではありませんか。

そこで、次のように考えてみます。

  • 「決して逃れられない魔族としての性質」とは、魔族がエルフのコピーであること。そして魔族は何度も何度も転生・再生を繰り返し、決して死から逃れられないこと

  • だから、マハトやアウラ等の一部の魔族は繰り返される死を拷問のように恐れ、生に執着する

  • 対照的にこの理を理解して受け入れているソリテールのような魔族は死を恐れず、むしろ転生・再生を積極的に利用してさえいる

  • ソリテールがマハトに言った「今はそれで十分」(それ以上は後で知れば十分)とは、この理を指している

そう考えると、全ての魔族に共通する性質(エルフのコピーであり、永遠に転生・再生を繰り返す)であるけれども同時に個性がある(コピー元のエルフよって異なる個性を持つ)という不思議も理解できる気がするのです。

エルフの命、魔族の命、人間の命

「決して逃れられない魔族としての性質」を上述のように理解して、魔族の命の在り方と捉え直すことで、『葬送のフリーレン』に一つの新しい視点を持ち込むことができます。

それは、エルフの命、魔族の命、人間の命、ほんとうに幸せなのはどれ?という問いです。

エルフの命はほとんど永遠に近い寿命を持っています。だからと言ってそれが幸せに結びつかないことは、クラフトやミリアルデのエピソードで描かれています。クラフトは女神様と天国の存在を仮定しなければ良く生きることができず、ミリアルデは生の無意味という虚無に飲まれています。

魔族の命は死と再生を永遠に繰り返す牢獄に閉じ込められています。それ故に一部の魔族(マハトやアウラ)は死への恐怖と生への執着に囚われています。そうでない魔族(ソリテール)は自らの生も死もどこか軽いものとして扱っていて、死んでもどうせまた繰り返すことができるからと、今際の際でも軽口を叩く始末です。

人間の命は100年足らずで寿命を迎えます。死ねば終わりです。天国オレオールはあるかも知れませんが、ないかも知れません。

人間である読者は、エルフの命と魔族の命を見つめながら、『葬送のフリーレン』を読むことになるわけです。

※終極の聖女トートの「呪い」は、何しろ「終極の聖女」が「この星を覆いつくす」とまで言う呪いですから、生半可なスケールではないでしょう。とすれば、この命の在り方に関係するんじゃないかな?と思っています。例えば、魔族の命と同じように、全ての命を死と再生の永遠の円環の中に閉じ込めてしまう…とか。呪いというか、人類に対する魔族のルサンチマンですね。魔族は死んでも天国へ行くことができない、起源・出自からしてそういう「呪い」を掛けられてしまった悲しい種族なのではないでしょうか。

※魔王はオレオールのあるエンデに魔王城を築きました。エルフや人間の魂がオレオールに向かう道を塞いでいるのかもしれないですね。そして、エルフや人間の魂を使って何をやっているのでしょう?

本文は以上です。

『葬送のフリーレン』の紹介記事へのリンク

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