《葬送のフリーレン》シュラハトの相討ちは自己犠牲か計算か(魔族は自己犠牲の愛を知ることができるか)

ネタバレには配慮していません。

『葬送のフリーレン』の原作マンガはまだ読んだことがないという方には原作マンガを、既に読んだことのある方にはある一つの視点からの再読をお勧めしています。

過去記事の引用多目で恐縮ですが。

「千年後の魔族の繫栄」のためにシュラハトが南の勇者との相討ちを選択したことが自己犠牲だとすると、「家族」の概念すら持たない魔族なのに、同胞愛のようなものがあるように見える、不思議ですねという話をしました。

で、このときはすっかり忘れていたのですが、シュラハトには生存や復活の可能性があります。

というのは、予知夢の中でゼーリエと皇帝が敵の未来視について検討した際、ゼーリエは敵の未来視が完全未来視である可能性を排除していません。完全未来視がそう何人も存在するはずがないので、ゼーリエはシュラハトの生存あるいは復活の可能性を疑っているように見えるからです。(第15巻145話)

さらに言えば、南の勇者はゼーリエに自らの秘密をゼーリエに伝えている節があります。南の勇者の完全未来視に関してゼーリエは「完璧な未来の予測を実現」と、微妙な言い回しを使っていて、魔法だとは言っていないからです。ですから、シュラハトと南の勇者の戦いの結末も知っているのではないか。そんな感じがします。

話をシュラハトに戻すと。

復活については、ソリテールやマハトと同じです(詳細は過去記事を参照ください)。シュラハトがソリテールと同じ知識を持っているとしても不思議はないでしょう。

仮に、シュラハトが生存している、あるいは、復活する、ということであれば、シュラハトの相討ちが自己犠牲だったかは怪しくなってきて、計算された行動だったのでは?という気がしてきます。

思うのですが。

もし、死んでも死なない、死んでも復活や転生が約束されている、そんな生があるとしたら。そういう生を生きる存在は「自己犠牲の愛」の概念を持たないでしょう。生に囚われている存在は、愛の最も崇高なかたちとされる自己犠牲を知ることができないのかもしれません。

そういう存在にとって、生の価値はものすごく軽くなってしまいます。(第11巻102話)

生への執着(死への恐怖)が魔族にとって重要な要素だったことを思い出します。(第11巻103話)

生への執着(死への恐怖)があるのは人間(人類)も同じだろうと思われるかもしれませんが、人間には自己犠牲の概念があります。ですから、究極的には生への執着(死への恐怖)を捨てることができます。そこが魔族とはちがうと思うのです。

自己犠牲と愛についてはこちらで触れました。『葬送のフリーレン』の読解において、結構、重要なキーワードだと考えています。ヒンメルがフリーレンに向ける感情は自己犠牲の愛だと思いますので。


《葬送のフリーレン》に関する記事は下記のマガジンにまとめています。

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