【本編完結】アメリカ某州高校留学体験記・後編:留学生的「終活」/ようこそ、はみ出し者の楽園へ
これにて本編は完結。
「期間限定の身分」であることは、自身も周囲も分かっていたこと。
プロムの夜が終わったあと、不思議な虚脱感に包まれていた。
夢のような一夜を過ごした。
胸に残ったのは「ここからどうやって終わりを迎えるのか」という予感だった。
留学生としての身分からの脱皮は、既にカウントダウンに入っている。
授業も友人関係も、そしてLとの時間も。
「終わる」と分かっている日々をどう生きるか。
まるで人生の縮図のように、私は高校留学生活の「終活」を始めることになる。
そして襲来した人生の後悔とは。
※本編は前・中・後編の3部作。また別途、複数の外伝(衣・食・住などの各編やプチエピソード)を執筆予定。
【前編・中編】↓
※個人名は特定のリスクを避けるためイニシャルで記載します。大体のエピソードは事実に基づいていますが、念のためフェイクも入れ、時系列の意図的な再構成も行なっていますので、半分ノンフィクション、半分思い出補正としてお読みくださいませ。
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#8:プロム後の夜と、留学生的「終活」の日々
“My Award : Welcome to the Island of Misfit Toys”
プロムの後は誰かの家に集まって二次会的なパーティーを行い、やがて皆それぞれ、散り散りになっていった。
プロム本番の時と同様、記憶の輪郭は曖昧だが、家を2件ほどハシゴし(居酒屋めいた言い回しになるが、それ以外の表現が思いつかない)、最終的にはLの家にいたことは確かだ。
彼女の家はアメリカの田舎らしく、小さな森というか林?を越えた先にある。その日、彼女の両親は不在。
文化的に、プロムの日は子供たちのプライバシーを尊重し、親は別のところに出掛けることも多い、と知ったのはその後のことだ。
Lと私がどこまで「至った」のか ―― それは書かないでおくことにする。
ここまで描写しておいて何だそりゃ、と思う方もいるかもしれない。だが、あの夜の想い出は今も、私の人生における、とても大切で甘やかな火種のようなものだ。それを独占するぐらいの我儘は、許して欲しい。
プロム前後もイベントは目まぐるしく続き、加えて私にはもうひとつの使命があった。
「期間限定の身としての、さらなる想い出残し」である。終活と言ってもいい。
記憶の引き出しを開けるままに書き殴るので、時系列は結構前後するかも知れないが、ご容赦いただきたい。
まずは「異邦人ならではの理不尽」を被った期末試験。どの教科もそこそこはうまくいった(バンドクラスのスネアテストで、またしてもアクセントミスはやってしまった)が、最も印象深いのはアメリカ史のペーパーテスト。
ペーパーの最後には「サービス問題」があった。曰く、「サンタクロースのソリを引っ張る、9頭のトナカイの名を記せ」。
…… 知 る か ! ! !
あまりに強烈な「サービス」過ぎて、その後覚えたトナカイの名前は、大人になった今でも諳んじることができる。
Dasher, Dancer, Prancer, Vixen,
Comet, Cupid, Donner, Blitzen,
……and, of course, Rudolph.
最後のルドルフは日本でもお馴染み、「赤鼻のトナカイ」。
この名前ネタは飲み屋での酒の肴として今も使っている。ありがとう、あの時のアメリカ史の先生よ(もちろん皮肉)。
思い出作り。JAとドライブしてモールでアニメフィルムを漁り、Jの家に泊まりに行ってゲームをしながら馬鹿話をして、その時Dに「もうこっちに住んじゃいなよ」とハグをされ、バンドでは卒業セレモニー曲の練習をし(担当していたタムで、目立てるおいしいフィルインがあり、これも一種のプレゼントだと思った)、もちろんLともバンド内外で一緒に過ごした。その全ての場面で、私は狂ったように写真を撮った。
寄せ書きもしてもらった。バンド仲間と、支えてくれたバンド外の友達に。赤いバンドクラスTシャツは、あっという間に油性ペンのアルファベットメッセージで埋まった。
今もクローゼットの奥に、大切に仕舞ってある。
執筆中にシャツを久々に引っ張り出して見直してみたが、結構みんな色々なことを書きたい放題だった。
Jは何故か “You're my GEISHA” とのメッセージ。意味分かってんのかこいつ。
左袖の部分には、私とLの名前が揃って大きな面積を占有し、デカデカと書かれてある。
証拠物件としてここに写真を載せたい気持ちもあるが、本名がバレるのでやめておく。
この時期ならでは、かつ留学生同士ならではの相談も行なった。
私と同時期にフランスから留学しに来ていたS(同い年とは思えない超絶美女。私は今で言うアン・ハサウェイっぽいと思っているが、とにかく「日本人がイメージするフランスっぽい美人」を思い浮かべていただければOK)は、留学初期早々にアメフト部の彼氏を作っていた。
さすが恋愛大国の民である。
そんな彼女に、留学が終わったらボーイフレンドとはどうするのか聞いてみた。無論、自分自身とLの参考にするために。
「え、eメールもあるし(※)連絡取れるじゃん。それに飛行機だってあるし、会おうと思えば会えるって!」
繰り返すが、さすが恋愛大国の民である。
だが、アメリカ/フランス間と比べ、日本は遥かに遠いのであった。Sのその一言は、あまりにも簡単なことのようなニュアンスで、私には異世界の言語のようにも感じた。
※なお、この時代(地域によって差はあるだろうが)アメリカの高校生で携帯電話を持っている者は殆どおらず、メールとは専ら「パソコンのメール」のことだった。私は自分のPCを持っていなかったので、LやJとメールしたことはなかった。約束をする時は家の固定電話か、学校での口頭。まるで昭和よ。
いずれにせよ、身の振り方を決めないといけない季節。だがこの期に及んで、私の脳内思考は「どうしよう」という看板を掲げた迷宮をウロウロしていた。“pimp” の名も泣くというものである。
――――――
卒業セレモニーとどちらが先だったかは思い出せない。バンドクラスにて、学校のカフェテリアを貸切にした「一年間お疲れ様パーティー」が催された。卒業する4年生を送り出す目的も兼ねて。
バンドクラスは陽キャからアートマニア、ゴス、オタク系まで、多種多様なカーストが寄り集まった「学校社会の縮図」だったが、音楽という共通言語と趣味があるぶん、一体感は高く、また排他的な雰囲気は皆無だった。
だからこそ、私のような異分子も簡単に受け入れてくれたのかもしれない。
いい意味で「内弁慶」「仲間内では声が大きくなる」感じもあった。
大量のスイーツ(ご想像の通り、アメリカの菓子はめちゃくちゃ甘い)とドリンク。もちろんアルコールなどは入らないが皆ハイになる中、先生(コーチ)から4年生へのメッセージが読まれ、もうひとつのハイライトが訪れた。活躍した生徒に贈る「アワード(表彰)コーナー」である。
最初のうちは「まともな」表彰内容だった。
例えばドラムコンペのソロ部門で優秀な成績を残したMへ贈る “Master of Drums” アワード(※正確な賞名を覚えていないのでニュアンスだけ再現する)、マーチングの先頭で皆をまとめあげた女子生徒に贈るリーダーアワード、など。
だが段々と、ジョークとイジり混じりの内容も増えてくる。遅刻が多かったメンバーに「目覚まし時計を買え」アワード、騒がしかった奴には「沈黙を覚えましょう」賞、みたいな感じで。私もコーラを飲みつつ爆笑していた、そんな矢先。
“Next ! ” の単語の後に叫ばれたのは、私のファーストネームだった。想定外の事態にコーラを吹き出しかける私、周囲の歓声。笑顔ながらも戸惑いつつ前に出た私に、コーチも笑いながら賞状を読み上げた。
Award :
“I Can Play the Drums !
And Don’t Know What Ghost Notes Mean ! ”
賞:
俺はドラムが叩けるぜ!
ゴーストノート(※)の意味は知らん!
※ゴーストノート(ghost note)
「小さく弾く」よりもっと弱い、聞こえるか聞こえないかの微かな装飾音符のこと。リズムやグルーヴに色気を出したり、味付けをする目的で用いられる。
いや、知ってるよ、ゴーストノート!
もちろん知ってる。ドラマーには超重要!
あのコンペの日、Lから頬にキスされた後。あの一瞬、テンパって、ゴングバスの譜面を無視して、フルアクセントの連打でぶっ叩いて、繊細なニュアンスをぶっ壊した自分。
つまり、あの時の私を好意的にイジる「アワード」だった。
特に一緒に演奏していたパーカッションチームの連中は大爆笑。皆、拍手で賞状を受け取る私を囃し立ててくれる。もちろんLも。いつもの印象的な笑顔で、ニコニコしながら私に拍手を贈ってくれていた。
嬉しかった。
「賞」を受け取ったこと以上に、私という「合法的なエイリアン」が「アメリカという社会の輪」に入れた、その証明だったから。それは小さな社会の一員として認められた証であると同時に、「クールな変わり者たちの輪」に選ばれた誇りでもあった。
“Welcome to the Island of Misfit Toys.”
この章の英語副題にも用いた上記フレーズ。後年、私のお気に入り映画のひとつになる『ウォールフラワー(英題:The Perks of Being a Wallflower)』の、エマ・ワトソンによる台詞。
意味は「ようこそ、はみ出し者の楽園へ」。
居場所がなかった主人公の少年を自分達の仲間に加える際、歓迎と共に告げる言葉だ。
バンドクラスにも「クールなはみ出し者」はたくさんいた。
十字架のタトゥーを腕に入れたクリスチャンのトランペッター。
目元にいつもブラック基調のメイクをしていた、恐らくゴスのクラリネット奏者。
Lも、Nも、Mもきっとそうだった。
アメリカ生活終了間際、私はその「輪」の一員になれたという、確信めいた実感を得たのだった。
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#9:最後の演奏、手紙、帰国、メールアドレス、愚かなティーン男子
“Japan Again : How Far Her Body Is”
卒業セレモニーに向けての演奏練習は、私にとっても「最後の曲」であることを意味していた。
送り出す側のひとりが、実は来年の1学期にはもういないことが確定している、という何だか複雑な状況だったが、それはそれ、これはこれ。
来年もバンドクラスは続くのだろう。今のSeniorはいなくなり、新しいFreshmanを迎え入れて。その時私はいないが、だからこそ最高の演奏をしてやろう。なお例によって、Lは「あの」思春期男子の目に毒なミニスカートとストッキングを履いていたが、さすがに本番までそれに気をとられるほど私はアホではない。
演目のひとつはゆったりした前半から、怒涛のハイテンポとシンコペーションが連続する中盤以降へ変化する構成。私のパートも、基本は最も小さくハイピッチなミニタムを16分音符中心のマーチングフレーズで叩き、キメの部分でミッドタムからロータムに流れていくフィルインが頻発する、なかなか歯応えのあるパターンだった。
得物はMからプレゼントされた、反対のほうにマレットがついたリバーシブルのドラムスティック。これほど気合の入る展開があるだろうか。コンペなどよりもっと前向きに臨んでいたかもしれない。
結論、そこでの演奏は今までで一番いい出来だった。キメの部分が少しでもずれるとタムは悪目立ちするが、そこも何とか乗り切った。
演奏後、観客だったJやDからもcoolだったとお褒めの言葉をいただき、Mからは何故かアメリカのドラムセット通販カタログを餞別に貰った(日本では売ってないモデルが載ってて、なんだかんだ読んでて楽しかった)。
こうして、私のアメリカ最後のドラムプレイは終わった。
ここまで来ると、残った課題はほぼ「帰国準備」だけとなる。
「日本に帰ったらメールはできるんでしょ?」
「もちろん、日本人はPCじゃなくて携帯のメールが主流だけど。帰ったらすぐ新しい携帯買うと思うから、絶対メールする」
「よかった。私も欲しいなー、携帯」
Lとはそんなやりとりをしていた。帰国後もコンタクトを取り続ける意思があると示されホッとしていたが、私は最も重要なことを失念していた。
会話の中で何故か、既に彼女のメールアドレスを知った気になっていたが、実際はどこにもメモしていなかったのだ。
だが、そこはさすがと言うべきか……やはりLだった。最終日に手紙を渡された。
「アドレス書いてるから。絶対にメールして。でもここで中身は読まないでね」
飛行機の中で読むことにした。
空港は遠い。来るのはホストファミリーだけだ。Lに加え、JとDも見送る代わりに、ふたり合同で書いた手紙をくれた。こちらはすぐに封を開けて読んだ。
手紙の締めには、まるで映画のシーンのような一文が添えられていた。
"May our friendship last forever"
(いつまでも変わらぬ友情があらんことを)
LやJ、Dは手紙で愛をくれた。
Mはドラムカタログで趣味の深掘りをくれた。
ホストファミリーとも別れ(JAは絶対日本に遊びに行くと言っていた)、機内でLの手紙を読んだ。詳細をつらつら書くことはしないが、愛は確かに込められていた。分かりやすく丁寧に書かれたメールアドレスと共に。
そのことを思い出すたび、今も心が苦くなる。
十数時間のフライトを終え、久々に日本の領土へ足を踏み入れた。空港で出迎えてくれた両親は、私の姿を見るなり一言。
「うわ、アメリカ人が来た!」
……明るい茶髪はキープしていたので当然か。またその日、懐かしの我が家でシャワーを浴びていたら、外の妹が何やら声をかけてきて、無意識にこう答えてしまった。
“What !? ”
今でもイジられるエピソードだが、そういった「身も心もアメリカに染まった」留学生向けに「日本への復帰プログラム」というものが存在する。3日間ほどの泊まりがけで、我々は「日本人」へ戻るためのレクチャーを受けるのである。
日本の学生たちも夏休み。友人との再会や新たな出会いもあったし、日本とアメリカの勉強段階のズレの解消のために塾にも通った。要は日本に帰ってきてからも、やることは山積みだったのだ。
新調した携帯電話を使い、Lには数回メールした。JAやJからはその後も手紙が送られてきた。だが、目の前のことに熱中するティーンとは、マルチタスクを放り出すものである。何より、メールはもちろん嬉しかったが、テキストからは当然、あの生々しい熱や感触は感じられない。
遠く離れてしまって触れられない、Lの柔らかい身体や脚、声よりも、現実に帰還してからの目の前の出会い。つまり、かつての夢・幻想と目の前の現実を天秤にかけ、私は前者を放置したのだ。
連絡は途絶えた。
いや、私が断ち切った。忘れようとするように。面倒くさがって。
この回顧録でも、何度も記載したはずだ。
ティーン男子とは愚かなものである、と。
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#10:大人になった今、あの頃の自分を許そう
“Daydream Believer : Let Me Forgive Me”
社会人になった今、留学時代は遠い昔。というか本当に幻だったのでは?という馬鹿な考えが頭をよぎることもある。
大袈裟かも知れないが、バンドも、スクールバスも、プロムの際のAやJのウインクも、今振り返ればすべてが、私を「この物語」の一員にするために配置された舞台装置であったようにすら思えてくる。
だが、それは紛れも無く現実だったよ、と諭してくれるような存在もいた。ホストブラザーにして誇るべき友人、JAである。彼は二度、日本に遊びに来てくれた(もちろん、彼がAnime Kingであることも大きい)。
一度目は私の実家に泊まった。深夜、一緒に自転車を走らせてコンビニやレンタルビデオ屋にも行った。英語を解せない両親のために、誇らしく堂々と通訳したことを覚えている。確か、夕食はローストチキンだった。
二度目は私が大学生の時。友人のバンドが出演するライブハウスで一緒に暴れ回った。既に、合法で酒が飲める年齢になっていた。
彼にはJなどの近況も聞いた。元気にやっていると教えてくれたが、どうしてもLのことは聞けなかった。彼とLは接点がなかったから。いや、この期に及んで言い訳してもしょうがない。怖かったからだ。
アメフト部のJが外向きの世界を開いてくれた「舞台の光」だとすれば、JAは内面の世界を支えてくれた「部屋の灯り」だった。このふたりがいなければ、恐らく私の異国での生活は詰んでいただろう。社会的にも、精神的にも。留学生活でリスペクトしていた人物を挙げよと言われたら、間違いなくJAとJだ。いくら感謝してもしきれるものではない。
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Incubusのアルバム《Morning View》を聴いたのは、日本に帰ってしばらく経ってからだった。なんとなく手が伸びなかったのだ。彼らのサウンドはますますメロウに、ハードな部分とのメリハリを付ける形で円熟味を増していた。
アルバム内の代表曲《Wish You Were Here》を聞いたら、どうしても彼女のことを思い出してしまった。アメリカは、やはり遠い。
I'm counting UFOs
I signal them with my lighter
And in this moment I am happy, happy
I wish you were here
I wish you were here
(UFOを数えて
ライターで彼らに合図を送る
この瞬間 僕は幸せ 幸せ
君もここに居たらよかったのに
君がここに居ればよかったのに)
数年後、ふと思い立って彼女の名前をFacebookで検索してみたことがある。
明るい声、太もも、笑った時に目が細くなる顔。忘れられていたようで、忘れてはいなかった。
結果はヒットなし。何人か似た人はいたが、本人は見つからず。
Meta(当時はまだFacebook社)の優秀なアルゴリズムも、彼女と「再会」させてくれなかった。
でも、それでよかったのだと思い始めた。
あのコンペの日のバスの中。Lの服装、あっけらかんとした笑顔、そしてあのキス。
彼女はあの短いスカートとストッキングで、自分がどれだけ男の視線を惹きつけるか分かっていたんじゃないかとも思う。
計算だったのか、天然だったのかは定かではないし確かめる術もないが、あの日の夕焼けとバスの温度だけは、やはり忘れられない。
――――――
第8章でも言及した、現在の私の好きな映画のひとつ、『ウォールフラワー』。親友を自殺で亡くしPTSDを患った主人公のチャーリー(ローガン・ラーマン)がふとしたきっかけで、先輩でゲイのパトリック(エズラ・ミラー)とその義妹サム(エマ・ワトソン)に出逢い、青春を取り戻し、サムに恋し、失敗も成功もする話。
日本人の大半が「遠い異国のファンタジー」として捉えるであろう映画は、私にとっては身につまされるほどリアルだった。あれを観たのはもう令和になってからだ。酒を飲みながらサブスクで。もう社会人として立派に独り立ちした年齢にも拘らず、私は泣いた。
チャーリーは私だった。さすがにあそこまでNerdではなかったけど。
サムがLに見えた。実際の彼女はエマ・ワトソンほど美人ではなかったけど。
ではパトリックは。JAでありJであり、DやAの集合体、だったかもしれない。
泣いた。当時の自分の愚かさに。そして、馬鹿なティーン男子だった自分を内省し、許してあげようと。大人になってからだって、濃い付き合いをしたとしても、ふとしたことで関係が途切れることなんて幾らでもある。社会人になってからもそうだった。その誰もが持つ記憶を、人よりほんの少しだけ早く経験しただけじゃないか、と。
――――――
留学中の印象的な出来事を凝縮したので、とても濃く、充実しているように読めただろうが、実際は暇な日、退屈な時もいっぱいあったし、挫折感も死ぬほどたくさん味わった。バンドクラスが「心の旅」だとしたら、アメリカ史の授業は「知の戦争」だった。
思えば、差別も確かに存在した。
あるナードが、私に嫉妬したのかどうかは知らないが、「日本人のアソコは小さいぜー」と叫んできたことがある。
周囲の生徒はすぐに「無視しろ」と言ってくれたし、彼の立場はその場で超絶悪化した。溜飲は下がった。
アメリカ史の授業では、太平洋戦争当時の資料ビデオが流され、“Jap” という言葉が繰り返される場面もあった。
クラスメイトは「君にはきつすぎなかった?」と気遣ってくれたし、もちろん教師による事前の注釈もあったとは思う。
だが、それとこれとは別問題だ。
それでも全体的に見れば、私のようなエイリアンへ、皆が本当によくしてくれた。L、JA、J、D、A、M、N、他にも大勢。
ひとつはっきり言えることがある。
人種差別とは、結局「やることのないバカがやること」だ。
異国で多くの愛と善意に触れた私は、今なら自信と確信をもってそう言える。
そのナードがどんな人間だったか。彼がその後どんな軽蔑の眼差しを周囲から受けていたか。そしてそれ以外の人々がどれほど私を歓迎し、支えてくれたかを思い出すたびに。
そして私は私の愚かさを今も戒めとしながら、宝石のように輝いていた、得がたい留学生活を経て磨いた人格やスキル、そして以下の人生哲学を骨格に、今日も生きている。
感じたことは正直に、大きな声で主張せよ。まるで演じるように。
人を褒める時は、思ったことの百倍の言葉で飾れ。
〈了〉
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📝 次回予告
でも、これもある意味前日譚。
ここでは書ききれなかった『留学体験記外伝』シリーズも準備中。
特に友人たちの些細なエピソードと、そこに付随するアメリカの「衣・食・住」。エイリアンから見た「不可解な矛盾」、カルチャーギャップの理由を、文化人類学的観点から解き明かします。
↓
外伝1発目投稿しました!
また、詳細はまだ明かせませんが「完全版」も構想中です。
📝100フォロワー突破記念(?)
留学体験記をいったん締めたら、再び和訳論を挟んだ後、文化論の別方向からもアプローチ。
『嵐が丘』『銀英伝』『リーガルハイ』をなぜか同じテーブルに並べて語るというカオスにも挑みます笑。
文化論≒キャラクター論。文化の成熟性とは、創作の自由、人間の矛盾をどう扱うかに宿る。
📝文化論寄りの記事も併行して執筆中
*「不自由の国」アメリカのステレオタイプと、Dave Matthews Bandが日本に突きつける無言の檻
*「意訳と誤訳の境界」論
📝アカウントの全体像はこちら
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今後ともよろしくどうぞ。
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