バラと文学と写真論 vol.3 象徴と象徴性
※1万字あります。難度は高いです。文学が徒然に出てきます。

「不思議の国のアリス」(1865年) ルイス・キャロル
ディズニー版'ふしぎの国のアリス'(1951年)
象徴と象徴性
はじめに
今回の話は、本質的に難しいです。
雑学として表層的に処理することもできますが、
それでは、価値本質を享受した(≒理解した、概念を得た)とは言えない。
「ふーん、地動説ね、トリビアとして覚えておきましょうかね」
で、地動説を理解したとはいえないのと同じです。
本論が想定している展望を得られなくても、気に病まないでください。
長くなります。
どこから・・・、薔薇戦争からいきます。
∫1 バラの記章を掲げる
1)記章が為す仕事
薔薇戦争(1455年 - 1485年/1487年)
薔薇戦争(ばらせんそう、英: Wars of the Roses)は、
百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であり、
実状としては、百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが
次代のイングランド王朝の執権争いへと発展したものと言える。
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最終的には、ランカスター家の女系の血筋を引く、
テューダー家のヘンリー7世が、武力でヨーク家を倒し、
ヨーク家のエリザベス王女と結婚して、テューダー朝を開いた。
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薔薇戦争の名称は、2つの王家のヘラルディック・バッジ(記章)である
ヨーク家の白薔薇、ランカスター家の赤薔薇に由来する。
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戦後、ヘンリー7世は、赤薔薇と白薔薇を合わせ、
両家の融合を象徴する、テューダー・ローズのバッジを用いた。
記章は、日本でいう家紋のようなものでしょう。
豊臣家でいえば「五七桐」、徳川家でいえば「三つ葉葵」。
記章は、旗のほか、兵士のお仕着せにも付けられたようです。
両軍が入り混じる状況では、所属が明瞭でないと正しく戦えません。
区別をつけられないゆえに、マークを付け、区別をつけてから殺害する。
日本人だけでなく、当のイングランド人でも両家の兵の見分けはつかない。
映画「ホテル・ルワンダ」の、ツチ族とフツ族の見分けがつかないシーンを思い出します。
「別種(異人)設定」は、加害側が「加害してヨシ」をお手盛りするときに
使う常套手段ですが、主題がずれてしまうので、先を急ぎます。
イングランドの面積は広くないです。
「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」の日本よりさらに狭い。
現代の感覚だと「そんな狭苦しい場所で、何、戦ってるんだ」です。
町民が殺し合ってるみたいな。
生物は、移動が難しい条件で、コロニーを生じます。
それらは、
・閉鎖内部で起きる権力闘争
・勢力圏の境界における、なわばり争い
の背景となる。
そして、戦闘が開始する。
ヒトの司令塔である脳は、結像優勢です(by 瀬戸裕紀)。
意識上でハンドリングできる結像がないと、力がでない。
結像未満の、想起網のもやもやした励起には、個体を駆り立てる力がない。
想起網内に結んだ像を使って、脳が個体の行動を牽引します。
とにかく、脳内に像の形さえあればいい。
脳は、存否性、真偽性、合理性、ときに、安全性すら脇において、
結像を優先します。(無茶苦茶だ・・・)
存否不問。真偽不問。脳内の像に現実縛りはない。
「願像」はよく出ます。
願像は、脳内に思い浮かべる幻像のうち、都合の良いものです。
脳の気分システムは、現実と幻像を区別しません。
物語を読むと、作り話なのに、高揚したり、泣いたりします。
都合のよい幻像のほうが快が得られて、牽引されやすいでしょう。
恐怖に駆動されて、都合の悪い「怯像」が出ることもあります。
幻像が人を動かすという構図に、「サピエンス全史」の
ユヴァル・ノア・ハラリを思い浮かべる人が多いかもしれません。
哲学者は、長いあいだ、
「人が思い浮かべているのは幻像だ」と、繰り返し主張してきたのですが、
「で、何が言いたい?」になってしまい、民に定着させるのが難しかった。
「あなたが考えていること(夢や理想や因果)は(脳に結像した)幻像だ」
と言われて立腹し、命題を偽に割り振る心理も作用したでしょう。
ハラリは、この困難を、「人類史と共同幻想」という形で解決した。
「全人類を操る神になった気分」という優越の励起を使って、
発散不可避であった、哲学の命題を安定させた。
カーネギーの「人を動かす」の欲を細線で繋いだといってもいいでしょう。
ハラリはいろいろ上手いのです。
プロデュースの才が突出している。
啓発手段として成書(結像)を選び、
自分が広告塔(結像)になることも厭わなかった。
話を戻しましょう。
目で見える形に作った現実存在、たとえば、
記章、お守り、聖典、イコン、偶像、石碑、祭壇
も、意識をまとめるのに役立ちます。
結像を想起させる「マト」のようなものを用意してもらえると、
意識が収束する快を得られます。
脳内の結像を導く補助具みたいなものでしょうか。
物を提示することで現実感を付与する、演出効果もあるかもしれない。
結像でありさえすればいい。
「結婚」とネーミングした、お手盛り願像を思い浮かべることでもいい。
「売上2倍」という絵に描いた餅 電子データ上の数値目標でもいい。
「合格」と揮毫した半紙を、目に入れる方法でもいい。
像さえ結べば、
思考の混乱や散逸は抑制され、
目標に向かうのだという感覚が強化され、
個体を牽引する力になって、
実際、個体が行動してくれる。
脳は、あの手この手で、個体を行動させようとします。
ニンジンをぶらさげて、馬を走らせる。
ニンジンが虚像でも、現実に走るのであれば、その動作は現実です。
ニンジンの背後には、生存有利に絡む内発の励起があります。
内発が電力を投入して、ニンジンの画像を光らせている。
その内発は、淘汰由来です。
ヒトは、従属栄養動物なので、外部から利を得ることが必須です。
幼体期の、他者から利を貰って享受したい欲求(被欲系)や、
成体期の、搾取や略奪で利を得る欲求(獲得欲)が初期搭載されています。
生き残った ≒ 結果として生存率が高くなる内発を搭載された、でしょう。
記章。これは、マトのタイプのようですね。
イングランドの兵士は、欧州原産のバラを守ろうと戦ったのではないです。
豊臣軍は、キリ科の植物を守るために戦ったのではない。
徳川軍は、ウマノスズクサ科の植物を守るために戦ったのではない。
軍勢は、絶滅危惧種の保護に人生を捧げる、熱血レンジャーではなかった。
記章は、政権(利権集団)の象徴という、ある種の設定です。
政権は、一枚岩でもなければ、一人格でもない。
「王」は特定の人物ですが、思考が移ろい続ける生身の人間であり、
そういう点で、少々、もやもやした存在です。
絵姿による固定は可能ですが、政権は王家であって、王一人ではない。
王が病死しても、政権の体を維持するには、人間でないほうがよいです。
単純化した、わかりやすい形でないと、兵士の気が散るでしょう。
結像の快で「踊る阿呆」になってくれないと、よい手駒にならない。
支配サイドは、戦闘行為に集中してもらうため、
・敵と味方という、単純にして、人為的な2分と、
・味方側の、作為的な単点化⇒記章
を提供します。
本質的にもやもやである実態を、脳の嗜好に合うように、
揺らがない図形で象徴させて、高く掲げる。
バラの記章。
そのわかりやすさにシビれる! あこがれるゥ!
その歩兵、次の戦闘で殺されるかもしれません。
わかりやすさの快には、リスクが潜んでいることがあります。
両王は、共通の遺伝子を持ち、母語も、文化も同じ。
どちらの王が勝っても、
兵が、徴税・徴用される立場であることに変わりありません。
両家の兵は、共に被搾取層であり、真の利害は一致しています。
・王と自分を同一視するという、優越の誤認(罠)を懐疑し、
・勝利欲(win-lose欲)や攻撃欲が内発であり、制御の対象だと気づき、
・「~のため」で、攻撃行為を「善」に設定する仕組みがあると気づき、
・自分が消耗品の駒として利用されていると気づき、
・王権と民権を分けて認識することができれば、
集団ボイコットで、戦闘を停止できるかもしれませんが・・・。
識字できない脳に、難しいことを考える力はありません。
「民権」を結像できない限り、王家の「記章」に対抗できそうにない。
意識は、抵抗のすべなく、隷従的に記章(結像用のマト)に引っ張られる。
「我らが勢力が勝ち、支配するのだ」(支配されるほうは嫌です)
「敵を抹殺し、平和を謳歌するのだ」(抹殺されるほうは嫌です)
戦いは30年に及んだそうです。長い。
民が愚民で終わらないのは、ご存じの通りです。
英国は後年、議会制民主主義の祖になります。
「君臨すれども統治せず」
体制の確立は、18世紀のことでした。
2)記章に紅白、どちらのバラを採用するか
バラの花は強い印象を持ち、象徴に使用するのに適しています。
記章のデザインに使われたのは、原種に近い5弁花でした。
人は5が好きらしく、5の放射型の記章はその点でもいい感じです。

右: ヨーク家の記章
両家はどちらも記章にバラを採用しており、その意匠は、ほぼ同等です。

出典:Wikipedia 薔薇戦争
上下反転しているものの、意匠的にはほぼ同じ。
二つの記章で大きく違うのは色です。
ところで、個体を行動させるパワーという点では、
赤バラのほうが、白バラより強そうに感じられてしまいます。
・赤バラのほうが印象が強い
・赤がやたらエモい。情熱的
・朱と交われば赤くなる現象の想起がある
史実の知識抜きで、
「赤バラと白バラを対戦させたらどうなるか」
と想像すると、勝敗が見えてしまうほどです。
「赤バラを記章に掲げたことが、士気向上に働き、勝利確定に寄与した」
極論、「赤バラを記章に掲げた時点で、勝利は確定していた」
と想像すると、ぞっとします。
いや、極論です。寄与率はそんなに大きくないでしょう。
30年かけて、やっと勝敗が決したぐらいですから。
ところで、源氏と平家、どちらがどちらの色の旗を掲げたと思いますか。
(想像したのちに、検索で回答を見るのを勧めます)
寄与率は小さくても、象徴の影響は完全なゼロとは言えない気がします。
シベリウス作曲「フィンランディア」は、
愛国心を喚起し、フィンランドの独立運動を支えたといわれます。
フィンランディアは、「祖国フィンランドよ」と国土を想いたくなる、
結像性を備えた音楽です。
∫2 小説「不思議の国のアリス」
小説「不思議の国のアリス」に登場する
赤の女王/白の女王
赤バラ/白バラ
は、赤 vs 白で、上記の薔薇戦争の想起が顕著です。
キャロルは歴史学者ではないですが、英国人ですので、
学校で薔薇戦争を習ったことでしょう。
しかし、本作を、薔薇戦争の史実で考えるのは、お勧めしません。
本作の真価は、シュール感(超現実:シュールレアリスム)です。
睡眠中の夢のような、未統合の励起が作る、荒唐無稽が持ち味です。
文学用語で、nonsense。
キャロルは、音韻のみを調律し、論理性を崩壊させる、
Nonsense verseを作る詩人でもありました。
シュールレアリスムは、後年、1920年の美術界の動きです。
文学に対して「シュール感」という語を使うと、
文学勢が「こちらが先だ」と怒り出しそうなので、この話はおしまいに。
まあ、あまり神経質に史実との関連を考えないほうがよいです。
小説を読むときは、想起のイメージが広がれば、それでよいです。
A.創作活動: もやもや
⇒見事な結像(シーン、アイテム、登場人物)
⇒言語創作物
B.読書活動: 言語創作物
⇒見事な結像、豊かな想起
(ただし、再生機は著者とは別)
圧縮と展開みたいな。
読者の脳内における想起の広がりは、個体任せ、成り行きです。
本作の読解としては
「なんとなく、赤の女王のほうが、強引で、侵略的で、強そう」
「そういえば、薔薇戦争では、バラの記章が掲げられたんだっけね」
程度の想起で、十分です。
ララア「赤いモビルスーツが勝つわ」
えっ・・・
象徴の話はここまでです。
∫3 象徴性 A:ベクトル誘導
突然ですが、アメリカの国花は、バラです。
国花の制定は、国の責任を負う者の、願いのあらわれです。
「民それぞれ、思いがあろう。
そうとは理解しているが、それでも国として、まとまりを。
内戦を回避し、分断を抑制し、民の心を合わせ、総体で国造りを」
米国は、州の分裂や内戦を抑え、合衆国の体を成すことが必須です。
建国も遅ければ、国花の制定も遅い。
国花の制定は1986年です(つい最近)。
象徴の仕事は、バラに務めてもらうことにしました。
薔薇戦争当時、バラはシンプルに、両王家の象徴でした。
しかし、近代以降は、バラを取り囲む想起網に、
A: 象徴を掲げ、心に同じ方向のベクトルを宿らせ、人心をまとめる
ことが含まれるようになっています。
薔薇戦争でバラが記章として採用されたのは、
バラが十分な象徴性を備えていたからです。
カスミソウ、タンポポ、スモークツリーでは象徴の仕事は務まりません。
(僕は好きですが)
たまたま、バラが象徴に使われたのではない。
元より、バラが強い結像性と象徴性を帯びていて、
象徴が必要になったとき、他の候補を排してその座につき(バラ⇒象徴)、
実際に、象徴として機能し、象徴としての実績を重ねて、
「象徴と言えばバラですね」という想起を産んでいった(象徴⇒バラ)
回帰で混乱したでしょうか。
循環因果は、生物学では高頻度で出現するモデルです。
環が閉じる形で、その状態を維持する(≒散逸に抵抗する)。
「ニワトリとタマゴ、どちらが先か?」という素朴な問いで、
固まっている場合ではないです。
因果が循環的であるがゆえに、その形を取り続ける事象は多数あります。
バラと象徴の関係は、回りながら変容していかない分、簡単なほうです。
バラ ⇔ 象徴、の想起が成立しているためでしょうか。
バラが、王族や皇族の名を冠して捧げられることはよくあります。
・クイーン・エリザベス(1954年作出)
・プリンセス・オブ・ウェールズ(1871年作出) アレクサンドラ妃に
・プリンセス・オブ・ウェールズ(1997年作出) ダイアナ妃に
・プリンセス・ドゥ・モナコ(1981年作出) グレース妃に
・プリンセス・ミチコ(1966年作出)
・プリンセス・アイコ(2002年作出)
余談
すみません、たった今、知りました。
カトリックの祈りの道具、ロザリオの由来は「rosarium(バラの冠)」。
聖母マリア(とその純潔)を象徴するバラだったとは。
科学史はともかく、僕に文化史を頼んではいけません。
宗教には、顕著なベクトル誘導が見られます。
∫4 象徴性 B:概念
1)象徴を、概念としてハンドリングする
小説「薔薇の名前」(1980年)は、バラの話ではないです。
著者ウンベルト・エーコは、記号論の研究者でした。
象徴性を表す象徴としてバラを最適と考え、採用したように見えます。
「Il Nome della Rosa」、響きもよいです。
概念「象徴」。
今ここで、論を展開する私は、
象徴に行動を支配されてしまう、従性の意識体ではなく、
象徴が絡む意識の動作を考察できる、知的な胆力を持った意識体です
という、ハイブローの気概を感じます。
いや、これでは言い回しが難しい。
バラの記章を軍旗に掲げて、「エイエイオー」ではなく、
「なぜ、兵士たちはバラの記章を掲げてエイエイオーなのか、
この奇妙な意識の動作は、研究の価値がある」
としましょう。
この知的レベルで小説を書かれたら、降参です。
研究者はときどき、小説執筆に手を出すことがある・・・。
天は低確率で、二物を与えます。
僕は、過去、幸福について論じて、ひどい状況に陥ったことがあります。
僕の幸福論の文面を読んだ市民が、ことごとく
「私にとっての幸福はこう」「私が考える幸福はこうだわ」を始めてしまい、
誰一人、個体を駆り立てる幸福感システムの考察開始に到達できなかった。
「私は幸福になりたい、なりたいったら、なりたいの!!」
の駆動力が強すぎ、想起した瞬間、意識が瞬時に内発と一体化した。
内観の分離状態を数秒も保てなかった。
市民勢、全滅。生存者ゼロ。
僕の筆が未熟という話もありますが、筆の立つ物書きでもたぶん苦しい。
「象徴」は、個体を駆り立てるように働きますが、
「象徴性」としたときには、背後にある内発(生存有利に関わる欲)を
ぼかせるので、なんとか、概念としてハンドリングできる気がします。
富澤たけし「ちょっと何言ってるか分からない」
わからなかったですか、申し訳ない。
2)耳学問の、その先へ
バラが「象徴性の象徴」の性質を帯びていることを、
本質ではなく、耳学問として知っている人も多いでしょう。
しかし、情報として知っているだけではちょっと・・・。
ファンタジー小説「黒龍とお茶を」(1983 年)では、
黒龍が、路上に落ちていたバラ(胸に飾ったバラが落ちたゴミ)を拾って、
唐突に象徴論を開始します。(バラといえば象徴なので)
直後、主人公のご婦人から、
「象徴なんか知らない、そんなのわからない、バラはバラよ、はい終了」
攻撃を食らう。
そこで、黒龍は「おお、あなたこそ私の師だ!」と敬服します(何故)。
僕は上記のシーンゆえに「黒龍とお茶を」を好きになれない。
ゴミはゴミよ →まあ、いいか。
バラと言えばゴミ、ゴミといえばバラ → どうしてその想起なんだ
意識には象徴という動作なんかない、想起網もない → 正気か
自分がわからないことは、無存在、または偽である → ひー
いや違う、僕が引っかかっているのは、そこじゃない。
「粗雑な物言いでないがしろにすると、高位者が敬服したがってくれる」
という願像(「はい論破」よりひどい)は、
「家族を殺し、倒れるまで暴力を振るうと、仲間になりたがってくれる」
という願像
(スライム願像)
「凌辱すると、その女が自分に惚れ、忍従したがってくれる」という願像
(AV願像)
と同じく、他者の人格想定が我欲補完的に歪んでいて、嫌悪感を否めない。
人格想定障害者なら歓迎するかもしれない。
「そうそう、こういうのでいいんです。
人間どもは、害すると、私の利と優越を支援したがる 'なんか'です。
それこそ真の姿、それこそあるべき姿というものです。作者さん万歳」
他者を、'なんか'認識することを、カントは、'it'認識と呼んでいたっけ。
人格の想定を欠き、物と見なしているようだ、ということで、'it'。
・・・いかん、僕の小説の好みの話をする場ではなかった。
本題に戻らなくては。
耳学問を否定するつもりはないです。
トリビアは楽しいです。将来、何かの役に立つかもしれません。
脳は知育なしではまともに動作するようにならないので、
ノード拡充のために情報は詰め込んだほうがよいです。
まずは量。質については、一定の量を確保できたあと。
しかし、雑学としての情報獲得と、本質の理解は、やはり違う。
雑学として収納されている知を振り回すのは、あやうい。
・本質とずれている。用法が不適切。知ったかぶりっぽい。
・起源や経緯を理解した上で出してない。
・バラが生物であるという、重要な隣接概念がまったく感じられない。
・私(読者)の想起と違いすぎる。著者は何を見ているんだ。
になりかねない。
知の巨人にして、記号論の大家にはならなくていい(無理です)。
著者と読者は、異なる脳を使って考える存在ではありますが、
脳の動作が、そこそこ似ているので、情報の受け渡しができます。
「当たらずといえども遠からじ」ぐらいまで、本質に近づき、
中堅の想起網を持ち合わせた状態で書くことができれば、大丈夫です。
いつになく批判的な論調に、退いた人もいるかもしれません。
おどかして申し訳ない。
人は、成長します。
身体の成長がとまったあとも、思考基盤は充実を続けます。
そのままで終わりということはない。
過飽和の水蒸気の中に、チリが入ると、雨粒が成長する。
過冷却の水は、わずかな振動ノイズで、一瞬で結晶化する。
人を成長させることはできないのですが(できないのですよ)、
見守ること、成長したときに、それを祝福すること、
そして、チリやノイズの仕事をすることはできる気がします。
∫5 象徴性の末期と復旧
終章です。
バラは、最初は、以下の象徴だったでしょう。
美、愛、情熱、真心、真実、神秘、高貴
現代の創作物では、以下の符丁として使われることも多くなってきました。
貴族趣味(スノッブ)、気障(ナルシスト)、耽美、退廃、
成金的豪華、少女趣味、プロポーズ
象徴の最終形態は、おそらく「符丁」です。
脳内だけでぐるぐる回していると、形骸化してきます。
存在が軽く、持ちやすくなるせいか、嘲笑の快と結びついたり、
都度の吟味なしで寄りかかれる「お約束」になったりします。
しかし、待った。
バラは、実在の存在です。
脳内だけで、延々と「犬」の観念を転がしていると、
犬の認識が、符丁に近くなっていくでしょう。
「犬ですか?
愚かに近い忠実、安産を願う人があやかりたがる動物、
パトラッシュ、スヌーピーあたりですかね?
ええと、あれだあれ、思い出しました、ジャコモ・バッラ」
犬を飼っている人の認識は違う。
愛犬は、なによりまず命であり、
ぬくもりと毛の感触であり、豊かな表情ある存在であり、
日々、世話を要する動物であり、家族であり、友であり、
かけがえのない存在であり、ときに忘れえぬ思い出です。
バラも、自分の手で育てると認識が変わります。
愛バラは、柔らかい新芽であり、雨に濡れる姿であり、世話の対象であり、
触れたくなるつぼみであり、表現しえぬ麗しい甘い香りであり、
バラの開花は、事務的な歳時を通りこし、心のイベントでさえある。
アーシング。
接地があるかないか。
長い間、観念の中で、ぐるぐる回すことしかしてこなかった人と、
現実体験を通して認識を厚くしている人では、書く小説が違う。
科学者はよく、見てきたようなモデル(仮説)を立てますが、
何万回でも、現象(現実で測定しうる事象)に立ち返ります。
ときにはモデルに虚数を使用しますが、それでもアースを切らない。
砂上の楼閣は、一応、砂の上にあるので大丈夫です。
脳内のぐるぐるは、大地を離れ、あらぬ方向へ飛んでいく。
形骸化した観念となり、時には都合のよい虚像として肥大する。
極楽浄土みたいに、観念だけで大きなプラモデルを作ってしまうことも。
何度でも、しつこく、現実に立ち戻る。
この矜持は、科学の強さの根源でもあります。
大地に立つゆえに、踏みしめながら、ほんの少しずつ、前に進める。
「病気は悪魔の仕業だ」では、何万回、脳内をぐるぐる回しても、
人類の寿命を倍に延ばすことはできない。
「我々を中心に天球が回る」では、何万回、脳内をぐるぐる回しても、
通信衛星を打ち上げることはできない。
荒唐無稽で遊ぶのはOKとして、
ボディ感のある小説を書くなら、アースがあったほうがよいです。
小説が虚構だからといって、空想のみで構成するという決まりはない。
実経験、実感の裏付けは、きっと生きる。
「星の王子さま」 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
故郷に残してきたバラへの愛情と愛着と悔恨。
「バラが咲いた」 浜口庫之助
自宅の庭でバラが開花したときの歓喜感。
恋心のメタファーにも見える。
実によいです。
僕の私園にもバラがあります。
実験栽培場なので修景しておらず、バラは12株にとどまりますが、
それでも、5月のバラは文句なしに麗しい。
そろそろ論を閉じます。
アースすると、現実のみずみずしさが復旧します。
実家には、いつ帰ってもよいです。
帰るところがあるというのはよいものです。
∫6 おわりに
noteでは「思ったこと感じたこと」を書く記事が人気とか。
僕が考えたことをそのままぶちまけると、こうなります。
この記事が意味不明のときは無理せず、保留にするとよいです。
反論や展開は、ご自身のスペースでお願いします。
自由な意見で、まったく問題ないです。
noteのシステムでは、引用すると引用元に通知が行くようになっています。
引用しつつ、自論を成立させると、読み応えのある記事になります。
反応する(反応と一体化する)のではなく、自分の中から生じた反応を、
「これは何なのだ?」と観察できれば、きっと前に進めます。
もっと読み易い文に触れたい人は、
著書「対人弱者の生存戦略」を買ってくださるとうれしい。
リズムの良さと理路の明瞭さを保証します。
内容抜きで、解説術の教科書として使ってもよいです。
次号は、読んで楽しめる、ふつうの話題です。
またー(^^)/
トップ画: John Tennielによる挿絵(彩色版)
Alice's Adventures in Wonderland - Wikipedia
挿画: Julikis_Seto
僕が読んだのは、福音館書店の白黒版です。
[ バラと文学と写真論 シリーズ目次 ]
vol.1 シェークスピアが見たバラ
vol.2 最初の赤いバラ
vol.3 象徴と象徴性
vol.4 秘密の花園に植えられたバラ
[フォトアルバム 薔薇の季節 シリーズ目次 ]
vol.1 バラの庭園
vol.2 原種1 欧州
vol.3 原種2 日本・中国
