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「花散るらむ、それでも君と」15

第14章 薫風の坂道
 吉野家の門扉を押すと、白木蓮の残り香がわずかに鼻をくすぐった。五月の風は甘く、しかし胸に刺さる。インターホンを鳴らす指が汗ばんでいるのを感じながら、一徳は深呼吸を繰り返した。
 
 応接間へ通されると、仏壇に遺影が飾られていた。黒のネクタイ姿で微笑む吉野京一――葬儀の日よりも柔らかな光の中で、どこか生徒を見守る教師の顔をしている。
 吉野宗一郎が茶を差し出し、理恵が静かに礼を述べる。互いに言葉を選びながら、一徳は胸ポケットから包みを取り出した。中には厚手の便箋が三通。表書きは「感謝」「約束」「未来」。
 「娘がまだ直接お礼を申し上げられません。……せめて手紙だけでもお受け取り願えれば」
 宗一郎は眼鏡の奥でまぶたを震わせ、深く頭を下げた。「あの子の心臓が、桜の芽吹きを支えていると聞きました。それだけで……私たちは救われます」
 言葉は静かだが、指先は震えている。理恵は喪の色を帯びたスカーフを整え、遺影へ向き直った。「京一が望んだとおり、鼓動は教え子の中で続いています。どうか娘さんを――先生の“春”を、長く咲かせてください」
 
 一徳は答えを喉に詰まらせた。父として、死と命の重さを量った瞬間は数え切れない。それでも息子を差し出す決断――その痛みを想像するだけで、胸が裂けそうになる。
 「……必ず守ります」
 声は掠れた。理恵が差し出した白い封筒には、桜の透かし模様と「吉野京一教育支援基金」の文字が印刷されていた。志の代わりに、彼の退職金と香典を奨学金へ充てる手続きだという。
 「蔵内さんにも理香先生にも、ぜひ理事会で構想を聞いてください。桜の下で学ぶ生徒たちが、京一の遺志を継ぐ在り方を考えたいのです」
 胸が熱くなる。自分が差し出した手紙より、はるかに大きな形で返ってくる善意。言葉に詰まったまま深く一礼すると、遺影の少年のような笑みがふと柔らかく揺れた気がした。
 
 退院前検査の日。循環器病棟のリハビリ回廊には、繰り返す足音とスリッパが擦れる音。櫻華は歩行器なしで一歩を刻み、汗を光らせている。
 「一万一千歩。京一先生の万葉集に合わせたいって?」
 理学療法士が笑うと、櫻華は額に髪を貼り付けて息をつきながら頷いた。
 「“ひさかたの”を一歩ずつ……」
 囁く声が、鼓動と重なる。かつて息切れのたびに暗転した視界が、いまは遠くまで澄んでいる。
 一徳は廊下の端で見守り、思わず拳を握った。胸骨の下で鳴る拍動は、咳き込むことも、止まる気配もない。
 (こんなにも力強い……京一先生、ありがとう)
 
 病室へ戻る途中、櫻華がふと足を止めた。窓の外に広がる初夏の空。淡い雲が引き伸ばされ、風が樹々の葉を押し上げる。
 「お父さん、退院したら学校に行きたい。あの桜の木を見て、それから……百人一首大会の練習を友だちと」
 そこに「教師と生徒」の壁はもうない。桜子として果たせなかった文化祭、京一が語った“和歌の試合”。すべてを自分の春に上書きしようとしている娘の目に、怯えはなかった。
 「疲れさえしなければ、好きに歩きなさい。……ただし、無理はしない。それが君と先生の約束だったはずだ」
 返すと、櫻華は笑って頷いた。目尻に滲む涙を拭う仕草に、確かに京一の面影が宿る。過去も未来も、今この瞬間に束ねられている。
 
 週末。学校理事会の仮議決が下り、吉野基金は“桜奨学金”と名づけられた。対象は慢性疾患と闘う在校生・卒業生。理香が立案し、石川が規定を整え、一徳は外部顧問医として協力を求められた。 
 議案書にサインを入れながら、一徳は窓外の運動場を見た。柔らかな風がブルーシートのプールを震わせ、遠くの桜は濃い葉陰を揺らすばかり。それでも、来年の花芽はもう枝先に潜んでいる。 
 (春は回って来る。次こそ娘が笑顔で立ち、吉野先生の教え子たちがその下で歌を競えるように……)
 ペンを置き、深く息を吸うと、若葉のにおいに混じって微かに桜の幻香がした。 
 坂道を昇る風の向こうで、高い校舎の窓に夕陽が煌めいた。

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序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。