見出し画像

「花散るらむ、それでも君と」8

第7章 雨のドナー通知
 四月十九日、未明。
 窓の外で雨が軒をたたく。点滴スタンドの金属質な匂いが残る夢から目覚め、蔵内櫻華は胸に手を置いた。新しい鼓動はまだ自分のものではない。だが今日、その候補が告げられるかもしれない――そう思うと、呼吸が浅くなる。
 
 朝七時、リビング。
 父はスーツのままソファに深く腰を埋め、スマホを握りしめていた。母はキッチンで湯を沸かしながら、耳を澄ませている。
 無言の食卓。味噌汁の湯気が細く揺れ、雨音に溶けた。
 リビングの電話が突然鳴り、空気が張り詰まった。父が受話器を取る。「はい、蔵内です」
 間を置かず立ち上がる。言葉は短い。
 「……わかりました。すぐ伺います」
 切った後、父は振り向かずに鞄をつかんだ。
 「佐伯先生だ。今朝、ドナー候補の臨時会議が組まれた。八時半に病院へ」
 母が震える手で櫻華の肩を抱く。「着替えは病院で揃うわ。行きましょう」
 
 雨脚は強まり、ワイパーがリズムを刻む。車内の暖房を最高にしても足先の冷えは取れなかった。
 (今日で終わるかもしれない。始まるかもしれない)
 ガラス越しに流れる街並みが、遠ざかる岸のようにぼやける。
 
 病院玄関、淡白な照明。エレベーターに乗ると鏡張りの壁が揺れ、蒼ざめた頬に父と母の影を重ねた。
 九階。佐伯医師が病棟ロビーで待っていた。白衣の胸ポケットに差したボールペンが、緊張でわずかに揺れている。
 「早い連絡で驚かせたね。結論から言うと、君に適合する可能性が非常に高い心臓が見つかった」
 櫻華の喉が鳴る。父の指が肩を支えた。
 「手術は最短で明晩。詳細はこれから検査班と詰める。だが意思確認だけは今すぐ必要だ」
 佐伯は静かな目で言葉の刃を渡す。
 「手術を受けますか?」
 
 雨粒がロビーの大窓を叩く音が広がる。
 (受ける。生きたい。だけど——)
 頭に浮かんだのは京一の横顔だった。図書室で和歌を語った声、昇降口で「逃げない」と誓った瞳。
 生きられれば、あの人の決意を無駄にしない。
 生きられなくても、約束を抱いて旅立てる。
 「……お願いします」
 声は震えたが、はっきりと空気を震わせた。父の肩が落ち、母が顔を覆って嗚咽した。
 
 同意書にサインする間、スマホが指の中で震えた。
 〈from 吉野〉
 > どうだった?
 わずか十文字。なのに鼓動が跳ねる。
 > ドナー決まりそう。検査これから。
 送信すると、すぐに返事。
 > 良かった。怖くても前を向け。ここにいる。
 短い行に、昨夕と同じ真っ直ぐな熱が灯る。
 (先生……)
 返事を書く前に、看護師が腕を取った。「採血室へ移動します」
 画面を閉じ、白い廊下へ足を踏み出す。雨と消毒液の匂いが混ざり、遠くで救急ベルが鳴った。
 
 採血室のカーテン越しに針が静脈を突く。赤い糸が試験管に満ちるたび、心は軽くなったり重くなったり交互に沈む。
 (死んでしまうかもしれない誰か。助かるかもしれない私。そして——守ると誓った先生)
 針が抜かれた瞬間、小さな痛みが指先に走った。生の痛みだ。
 ――逃げない。
 京一の口癖が胸の奥で鳴り、薄いガーゼの下で脈が強く打った。
 
 午後三時、検査の合間に病室へ戻ると、母が窓辺で祈るように手帳を握っていた。父は医局に呼ばれて不在らしい。
 雨はなお止まず、灰色の雲がビル街を覆う。だが雲間のどこかに、薄い光の層があると信じたかった。
 胸ポケットのスマホが震えないかと何度も確かめ、それでも画面は静かだった。
 (先生も今頃、私のことで教頭と揉めているかもしれない)
 想像すると痛む。けれど痛みは生の証で、麻酔のような恐怖よりましだった。
 
 夜になっても雨は細く降り続き、外来の灯がにじむ。
 廊下に車椅子を押す音が遠ざかり、病棟に微かな静けさが戻る。枕元の短歌ノートを開き、鉛筆を握る。
 ――生き残れば、春をもう一度書き換える。散り急ぐ桜ではなく、芽吹きの緑でページを満たす。
 窓の闇にぼんやり自分の顔が映る。頬は痩せているのに、瞳の奥に火種のような光があった。
 京一の言葉がそこに灯り続けている。
 
 夜半、ナースコールのランプが淡く光り、点滴の滴が一定のリズムで落ちる。
 嵐の前の静けさ。
 櫻華は深い呼吸とともに目を閉じた。雨音が遠くへ引いていく。一行空いたページに、新しい春がそっと息を吸い込む気配がした。

第8章へ→

序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ

#創作大賞2025 #恋愛小説部門 #桜と恋 #切ない青春 #百人一首 #教師と生徒 #タイムリミットラブ #再生の物語

いいなと思ったら応援しよう!

金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。