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「花散るらむ、それでも君と」6

第5章 揺れる教師たち
 四月十七日、職員会議は珍しく空気がざらついていた。
 黒板に並ぶ議題の末尾──「年度内の進路指導方針」に下線が引かれる。だが若松理香の意識は、発言者の声を遠くに聞きながら別の一点に縫いとめられていた。
 吉野京一。
 机に肘をつき、眉間を押さえる姿が会議中に何度も揺れる。頬はわずかに痩け、首元のシャツが小さく呼吸に揺れている。
 (無理している……)
 自分の弟が病に蝕まれたとき、最後まで「大丈夫」と笑っていた顔が頭に重なり、胸に鈍い痛みが走る。
 「若松先生、進学クラスの補習日程、共有いいですか」
 教頭に名を呼ばれ、理香はあわてて資料をめくる。ページの端が指にひっかかり、紙が裂けた。小さな破れ目が、胸の焦燥そのものに見えた。
 
 会議後の夕刻、理香は図書室へ向かった。進路資料の差し替えが名目だが、真の目的はただ一つ、京一の様子を確かめること。
 開架の奥で彼はプリント束を抱えていた。視界に入った瞬間、理香の足は止まる。
 「吉野先生」
 振り向いた京一は、少しだけ驚いた表情を見せる。眼鏡の奥の焦点が揺れた。
 「若松先生、どうかされました?」
 「補講プリントの返却に来ただけ。──顔色、良くないわよ」
 言葉が思った以上に尖り、反射的に付け足す。
 「私、保健の知識は浅いけど、過労と頭痛は危険サイン。無理しないで」
 「大丈夫です。進路面談が重なって寝不足なだけ」
 微笑むが唇の端が引きつる。そのとき、脳裏に“櫻華”という噂がちらりと過った。生徒たちの間で囁かれる「担任と特別な生徒」の話。
 (何も知らないふりをしていいの?)
 窓辺の椅子に京一が腰を下ろした拍子に、プリントが一枚滑り落ちる。拾い上げた理香は、そこに百人一首の歌と丁寧な注釈が書かれているのを見た。
 (蔵内さんに渡す教材……)
 胸がざわめき、口が先に動く。
 「彼女、退院できるといいわね」
 京一の指がプリントの端を強く掴む。
 「……ありがとうございます」
 沈黙。夕陽が書架を赤く染め、埃の粒が光る。理香は深呼吸し、声を落とした。
 「吉野先生。あなたが全部背負わなくてもいいのよ。もし何かあったら、一人で抱え込まないで」
 京一は一瞬だけ視線をそらし、それから力なく笑った。
 「若松先生は優しいですね」
 “優しい”の一語が、かえって遠い。理香は目を伏せ、手にしたプリントをそっと返すしかなかった。
 
 図書室を出ると、廊下の奥から保健室へ続く扉が見える。
 弟を運び込んだあの日も、白いカーテンの隙間で途切れた心音を聞いた。保健室の匂いは、今も記憶の奥で血の味を帯びている。
 理香は無意識に扉を開けた。中には誰もいない。
 窓辺のベッド、清潔な白布。手を伸ばしかけ、指を引っ込める。
 (私は結局、あの子を救えなかった。だからせめて、誰かを支えたいのに……)
 桜の花が散る音を、心臓が脈打つたびに思い出す。
 「若松先生?」
 後ろで保健教員が首をかしげた。理香は「失礼しました」と笑い、逃げるように廊下へ出た。
 
 下校時刻を過ぎ、グラウンドに人影はない。春雷の前触れのような風が吹き、空気が湿る。
 校舎脇の桜は葉桜になりかけていた。
 理香は枝先を見上げる。緑と茶のまだらな葉が震え、散り残った花びらが二、三枚だけ揺れている。
 (花はもう散った。でも誰かが来年を待っている)
 掌を胸に当てると、そこには焦燥ではなく淡い温もりが残った。
 
 夜、自室。デスクライトの下で採点を終えた理香は、ふとスマホの通知を開く。
 “教職員連絡網(至急)”──石川教頭から。
 > 吉野京一教諭、軽度の貧血と診断。数日間、午前授業のみ担当。諸連絡は私まで。
 理香は画面を凝視した。軽度──だが数日前より症状は確実に進んでいる。
 (もし彼まで倒れたら、蔵内さんは……)
 指が震え、未送信の下書きに文字が浮かんだ。
 〈困ったときは頼って。私はあなたの同僚です〉
 送信ボタンを押す直前で思いとどまる。
 “同僚”である限界と、“それ以上”を願ってはいけない距離と。
 画面を消し、部屋の灯を落とす。窓の外で雨が降り出した。途切れ途切れの水音が、やけに胸に沁みた。
 
 布団に横たわり、雨音を数える。弟がいなくなった夜も、こんな雨だった。
 理香はそっと掌を握る。
 (今度こそ、私は間に合いたい。誰かの絶望の前に、ちゃんと立ち会える大人でいたい)
 雨脚が強まり、遠くで雷鳴が震えた。
 明日、蔵内櫻華に声をかけよう。必要なら進路室を開放しよう。教頭の視線が怖くても、何度でも。
 雷鳴に重なる鼓動を聞きながら、理香は目を閉じた。
 窓の向こうで葉桜が揺れ、街灯の光が濡れた葉を淡く照らす。春はまだ終わらない。揺れる教師たちは、これから本当の嵐を迎える──その前夜だった。

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序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。