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「花散るらむ、それでも君と」5

第4章 父の影、娘の決意
 四月十六日、午後。
 病院のエレベーターが静かに開き、蔵内櫻華は父の手を借りて診察フロアへ降り立った。消毒液の匂いと低い蛍光灯の光は、通い慣れたはずなのに毎回わずかな吐き気を誘う。
 主治医・佐伯の診察室。壁際のモニターには心臓エコーのグレイスケールが揺れ、淡い鼓動を刻んでいる。
 「拡張期の径が、先月より少し広がっています」
 佐伯は淡々と説明した後、声を落とす。
 「ただ、今朝新しいドナー候補の情報が入りました。まだ適合検査段階ですが──可能性は高い」
 聞き慣れた単語のはずなのに、櫻華の指先がひくりと跳ねた。
 父・一徳は短く息を呑み、母・志穂はハンカチを握りしめる。
 「検査はすぐ出来ますか?」
 「今日これから血液を採り、二日後にはある程度の結果が出るでしょう」
 診察室を辞するとき、佐伯は櫻華だけを目で呼び止めた。
 「移植を“希望する理由”を、胸の中で整理しておいてください。医学は体を救うけれど、心を決めるのは本人です」
 言葉の奥に、かつて娘を見送った人間の重みが潜んでいた。
 
 病院のラウンジは窓が大きく、午後の日差しが街を真白に照らす。
 櫻華は紙コップの温いカフェオレを両手で包み、父の斜め向かいに座った。母は会計窓口へ書類を出しに行っている。
 「……検査、頑張ろうな」
 絞り出すような父の声。
 「うん」
 櫻華は頷きながら、心は別の場所にいた。
 (ドナーって……誰なんだろう。知らないまま、心臓をもらってしまうのかな)
 提供者が誰かを知ることはない。ルールだと理解している。それでも脳裏には図書室の夕暮れで見た吉野京一の蒼白い横顔がちらつく。
 体調は大丈夫だと言っていたが、あの額の汗は本当に過労だったのか――。根拠のない不安が胸を掻きむしる。
 父がソファに身を沈め、手を組む姿勢のまま硬直している。
「……お父さん、先生ってすごいよね」
 唐突に漏れた言葉は、胸の奥で長く燻っていた気持ちの端。
 「ん?」
 「授業もわかりやすいし、私が遅れないようにいつも気にしてくれる。会えると安心するの」
 “好き”をまだ口にできない。それでも〈会うだけで鼓動が速くなる〉事実を自分は誤魔化せなくなっていた。
 父は一拍置き、「大学でも就職でも、好きな道に進め。それから――頼りになる先生がいるのは親としても有難い」と笑った。
 「頼りになる、で終わる?」
 探るように尋ねると、父の眉がわずかに揺れる。
 「……いや、終わらない、かもな。だが教師と生徒の壁は大きい。あの先生は真面目だからこそ無茶はできない」
 言葉より、父の口調それ自体が京一の誠実さを語っている。胸の真ん中が熱く疼いた。
 言いながら表情が揺れる。
 「反対じゃない、けど……先生にも立場があるから、迷惑かけるなって?」
 「そうだ。教師と生徒という壁は大きい。あの先生が真面目で誠実だからこそ、なおさら難しい」
 父の唇から “誠実” という単語がこぼれた瞬間、櫻華は胸が熱くなる。あの夕陽の図書室で短歌を語るとき、京一は確かに誠実だった。自分の痛みも桜の痛みも同時に抱え込むような声音だった。
 「……でも、時間はないんでしょう?」
 櫻華は自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
 「だから私は悔いのないように生きたい。もし手術が間に合わなくても、伝えたいことを全部伝える。先生にも、お父さんにも、お母さんにも」
 目の奥が熱く滲む。父は黙って頷き、握り拳の上にもう一方の手を置いた。
 桜子だった前世の父母は思い出せない。けれど、今目の前にいる両親の震える肩は、確かに自分の命を支えているのだと痛いほど解る。
 
 二日後。
 検査結果を待つあいだ、櫻華は学校を早退し、まっすぐ市立図書館へ向かった。京一の姿はない。今日は職員会議らしい。
 閲覧席で百人一首の本を開き、在原業平の歌のページを指でなぞる。
 (“桜さえなければ心は穏やか”――私は桜だから、みんなの心をざわつかせるのかな)
 ページを閉じ、スマートフォンを開く。メッセージ欄に「吉野先生」と表示された未送信の文。
 〈検査結果のこと、先生に話したいです〉
 送るか、ためらう。教頭や理事長、噂、倫理……そんな言葉が宙に浮く。
 けれど父の「時間がない」という声が背を押した。指が震えながら送信ボタンを押す。
 
 夜、自宅。
 スマホが震え、京一からの返信が届く。
 > 了解。身体を優先しろ。結果が出たら共有してくれ。学校の手続きや教頭対応は僕が動く。
 短いが、“君の病状”と“学校の圧力”という二つの不安を真っ向から引き受ける意志が滲む。
 (先生も怖いんだ。私が倒れるかもしれない不安と、教師として責任を問われる不安――それでも逃げない)
 胸が跳ね、動悸が速くなる。だが今夜は発作へ転じない。
 決意だけが熱を帯び、輪郭を鮮やかにしていく。
 
 翌朝、病院。
 採血室の前で名前を呼ばれ、白衣の看護師に導かれる。注射針が静脈に刺さる瞬間、櫻華は目を閉じ、短く祈った。
 ――もしもこの命を繋げるなら、必ず“ありがとう”を伝える。先生に。父と母に。桜に。
 針が抜かれ、白い綿で押さえる指に力を込め、静脈の痛みに未来を縫いとめる。

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序章 ―散った声が、胸に降る―
第1章 色のない春
第2章 薄紅の予感
第3章 桜の補習
第4章 父の影、娘の決意
第5章 揺れる教師たち
第6章 薄暮の約束
第7章 雨のドナー通知
第8章 病室の告白
第9章 白い夜明け
第10章 砕ける閃光
第11章 静かな引き渡し
第12章 新しい鼓動
第13章 雨上がりの教室
第14章 薫風の坂道
エピローグ

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金森努@マーケティング・研修講師/コンサルタント ありがとうございます! これからも頑張ります。