【S7|日本のデザイン】神事としての大相撲---完成してしまったデザイン #3
第3回|なぜ歌舞伎は更新され、相撲は保たれたのか
日本の伝統芸能、と聞いて
多くの人が思い浮かべるものは、いくつかある。
能。
歌舞伎。
文楽。
そして、大相撲。
この中で、もっとも「静かな顔」をしているのは、
おそらく相撲だろう。
一方、歌舞伎はどうだろう。
隈取。
豪華な衣装。
早替わり。
宙乗り。
現代では、アニメやゲームとのコラボレーションも珍しくない。
それはそれで、素晴らしい。
歌舞伎は、いまも多くの人を惹きつけている。
けれど、ふと考える。
なぜ歌舞伎は、これほどまでに「更新」され続けてきたのか。
そして、なぜ相撲は、そうしなかったのか。
これは、優劣の話ではない。
方向性の話だ。
歌舞伎は、もともと大衆の娯楽として育ってきた。
人を驚かせ、楽しませ、引き込むことが使命だった。
だから、観客に近づいた。
時代の感性に歩み寄った。
表現を足し、足し、足し続けた。
一方で相撲は、少し違う道を選んだ。
相撲も興行ではある。
観客がいて、勝敗があり、番付がある。
けれど、その根には、
「神に捧げる」という前提が、ずっと残っている。
土俵は、神聖な場。
四股は、祈り。
所作は、儀式。
相撲は、観客に向かって開かれているようでいて、
本当の意味では、神に向かって閉じている。
ここが、大きな分岐点だったのだと思う。
歌舞伎は、
「どう見せるか」を更新し続けることで、生き延びてきた。
相撲は、
「どう保つか」を選び続けることで、残ってきた。
歌舞伎は、観客に近づいた。
相撲は、神に近づいた。
だから、歌舞伎は派手になり、
相撲は簡素なままだった。
どちらが正しい、という話ではない。
ただ、結果として、相撲は「キッチュ化」を免れた。
足さない。
盛らない。
説明しない。
それでも、失われない。
この在り方は、
デザインの世界では、ほとんど奇跡に近い。
多くのプロダクトやサービスは、
「分かりやすくする」ために、
「新しく見せる」ために、
要素を足していく。
相撲は、逆をやった。
削り続けた。
余計なものを入れなかった。
核に触れることを、徹底して避けた。
その結果、
相撲は説明されなくなった。
説明されないものは、
批評されにくい。
でも、壊れにくい。
完成してしまったデザインは、
もはや語られなくなる。
相撲が、いまもそこにあるのは、
進化したからではない。
完成してしまったからなのだと思う。
次回は、
その「完成」を支えながら、
それでも時代に合わせて変わってきた部分について考えてみたい。
変わったものと、
変えなかったもの。
その切り分けにこそ、
伝統とデザインが両立するための、
重要なヒントがある。
ここまで読んで、
もし何かが静かに残っているなら、
それはまだ言葉になっていないだけかもしれません。
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