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【S7|日本のデザイン】神事としての大相撲──完成してしまったデザイン #0

序章|なぜ大相撲は、こんなにも懐に入ってくるのか


正直に言うと、私は相撲に詳しいわけではない。
番付をすべて言えるわけでもないし、決まり手を網羅しているわけでもない。
熱心な相撲ファン、という立ち位置ではない。

それでも、大相撲はなぜか、私の生活から消えない。

たとえば、テレビをつけたとき。
たとえば、ニュースの一角。
たとえば、年の初めや節目の時期。

「観よう」と思っていないのに、
気づくと、観ている。

この感じは、少し奇妙だ。

スポーツであれば、応援するチームや選手がいる。
演劇であれば、演目や役者を選ぶ。
宗教であれば、信じる・信じないという距離がある。

けれど相撲は、そのどれとも少し違う。
選択する前に、すでにそこにある。

力士の身体は大きく、ぶつかり合いは激しい。
勝敗は明確で、世界としてはとても原始的だ。
それなのに、どこか騒がしくならない。

歓声は上がるが、煽られない。
熱はあるが、暴走しない。

この「荒れなさ」は、何なのだろうか。

考えてみると、大相撲はいつも少し引いた距離で存在している。
前に出すぎず、こちらに迫ってこない。
「わかれ」「信じろ」「感動しろ」と要求してこない。

それでも、排除されない。
古いものとして切り捨てられもしない。

むしろ、
日本人の生活の中に、自然に残っている。

この在り方は、とてもデザイン的だと思う。

強い主張をしないのに、消えない。
説明されないのに、理解されている。
更新され続けているのに、変わっていない。

私はデザインの仕事をしているが、
本当に難しいのは、目立つことではない。
「長く、違和感なく存在し続けること」だ。

大相撲は、それをやっている。

しかも、意図的にやっている感じがしない。
「残そう」として残っているのではなく、
気づいたら、残っている。

だからこそ、
どこか懐に入ってくる。

理屈ではなく、感覚として。
評価ではなく、前提として。

大相撲は、日本人の心を映す鏡、
──という言い方もできるのだろう。

ただ私は、もう少し別の言葉で捉えたい。

大相撲は、
日本人が「考える前に受け入れている形」を、
そのまま保持してしまった存在なのではないか。

なぜ、これほどまでに荒れないのか。
なぜ、派手にならなかったのか。
なぜ、時代が変わっても、核が揺らがないのか。

次に書くとすれば、その根っこにある「基盤」の話になるだろう。
相撲の強さではなく、
相撲を相撲たらしめている、見えない設計について。


ここまで読んで、
もし何かが静かに残っているなら、
それはまだ言葉になっていないだけかもしれません。


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