情報社会と陰謀論: 五感を失った世界での物語への渇望
はじめに
効率化を追求することで、手で触れて感覚的に確認できる手触りが、社会から減っています。
伝統的なコミュニティの影響力や宗教の影響力も、江戸時代や1950年代と比較して下がっています。
すると、デジタル空間で補うニーズも生じます。
[由来] 三世紀の中国、西晋王朝の時代の文人、傅玄の「太子少傅の箴(皇太子の教育係のための心得)」という文章の一節から。
ネット社会以前は、比喩的に「朱に交われば赤くなる」ことを五感で確認できましたが、視聴覚偏重は他者との触覚的な共感を持ちにくくなるから、我々が何に交わりどう染まっているのか感覚的に把握しにくくなっています。
こうした流れの中で、陰謀論を「ただの物語」と片付けることに、私は少し困惑します。この現象の本質はもっと複雑だと感じるからです。陰謀論を信じる人、面白がる人、そして批判する人。それぞれの立場があり、私は「信じ込んでしまうことで世界の見え方が歪んでしまう」状況がもったいないと感じています。しかし、単に情報リテラシーの問題として片付けるのではなく、より深い視点から考えてみたいのです。
五感で確かめる世界から、目と耳だけの世界へ
例えば、猫の舌のザラザラした感触、むくむくした子犬の足のどっしりとした重み。中型犬や大型犬の子は、とくにそうですね。こうした生き物との触れ合いは、視覚や聴覚だけでなく、嗅覚、触覚といった五感を総動員して体験されます。味覚は、これならうちの子に食べさせても平気かなと、確かめる際に使えますね。どれも、一例です。
私たちはこれまで、世界を文字通り「手で触って」確かめてきました。箱の中身を知るために、トントンとノックし、物の実在を確かめることもできました。例えば、江戸時代はまだ行ったことがないのですが、反物の品質を手触りで判断したはずです。昭和もカタログ販売はあったけど、目で見て手で触れて質感や厚みを確認しました。ランドセルの固さや大きさを覚えていますか? そして、現代はAmazonや楽天などのように画像で確認しています。それを補うために、レビュー動画なども参考にしますね。
しかし、ネット社会への移行によって、情報は主に目と耳で処理するものに変わりました。インターネットでは、香りや触感、味といった感覚を伝えることは(今のところ)難しい。情報が映像、文字、音に限定されると、何が起きるでしょうか?
情報の「裏を取る」という行為の個人差
簡単に言えば、情報の「裏を取る」ことができる人とできない人が分かれていきます。これは単に情報リテラシーの問題ではありません。情報リテラシーの知識があっても、直感的に信じたい、自分の体験を通して納得したいという認知特性を持つ人もいるからです。
2016年と2024年の死後組織検体を比較し、時系列での増加を確認。異なる研究機関(UNMとOSU)での再現性も確認され、統計解析により信頼性を補強しています。また、認知症脳でのMNPs増加は、他の群と有意に差がありました。
例えば、上記のように論文が存在するなら、信頼できる根拠になります。だけど、ニュースサイトを高速でスクロールしている時に、手を止めて確認できるとは限りませんよね。
様々な理由から、全ての人が情報の裏を取るわけではない。そして、裏を取らない人たちがリスクを背負うことになる。これが陰謀論の温床になると私は考えています。
さらに、新自由主義と金融資本主義により様々な格差が生まれ、公共への外部不経済が行われることで、構造的な問題により、問題が複雑に加速しました。村上春樹の指摘する「システム」を思わせます。
くわえて、デジタル情報は情報爆発と言われる状態であり、人には限界があるから情報過負荷により、我々が我々でいることを保ちにくくなっています。(まずは、スマホの通知を減らすことをお勧めします)
羅針盤という共有方基準が機能しにくくなり、バラスト(安定用重し)でもある身体性が機能しにくくなり、社会の許容限界を喫水線だとイメージすると、上記で述べた事柄は霧中航海を思わせます。情報が多すぎて、見通しが悪いのです。
抽象化された世界と物語の力
カフカや村上春樹が指摘してきたように、現代社会では人間が疎外され、まるで記号のように抽象化されています。こうした状況に対して、物語には再び世界を具体化する力があります。
歴史年表を暗記するより歴史物語を学ぶ方が記憶に残りやすいように、私たちはデータよりストーリーを理解しやすいのです。だからこそ、陰謀論が持つ「物語性」に惹かれる心理を、察することはできます。
「我々と奴ら」以外の道
陰謀論を信じる人たちを単に「情報リテラシーが低い」とレッテルを貼っても、何も問題を解決できません。なぜ彼らがそういった物語を「信じたくなる」のか、「面白いと感じる」のかを、同時代に同じ世界で共に生きる者として、私は考えたいのです。
ネット社会以前なら、人の言動の矛盾は観察によって検証しやすかった。しかし現代は、そうした確認は格段に難しくなっています。「落とし穴があるから気をつけて」と警告するだけでは、もう事故は防げそうに無いのです。
同じ船の乗客として
エコーチェンバー(同じ意見の人同士が集まり、偏った意見が増幅される現象)の危険性は2000年代前半から指摘されてきたにもかかわらず、状況は悪化の一途をたどっています。情報だけでは問題は解決しないのです。
少子高齢化が進む日本社会において、私たちには「仲間割れ」する余力はもう無いはずです。私たちは異なる目的を持ちながらも、「日本語圏」という同じ船に乗り合わせています。この船旅をどうすれば快適にできるのかが、知恵の出しどころではないでしょうか?
誰も置き去りにしない社会へ
「誰も置き去りにしない」というのは、美しい机上の空論ではなく、戦える仲間を最大化する合理的な生存戦略です。そして、療養や介護ですでに個人的な闘いを通じて社会貢献している人々に、これ以上無理させたくもありません。
誰も置き去りにせず、誰にも無理させないことは可能でしょうか?
大量生産・大量消費社会への移行、自動車社会への移行、そして今、ネット社会への移行において、私たちは問題をそれぞれに実感しています。それは五感を通じた世界との再接続であり、多様な認知特性を尊重しあう社会の在り方かもしれません。個人個人の点と点を、結ぶことで初めて、我々は現代を知ることができます。
陰謀論は、現代社会の歪みを映し出す鏡とも言えます。水鏡のように、捉えどころがないかもしれない。それを単に軽蔑して諦めるのではなく、我々の社会に何が起きたのか検証すべき時期を迎えています。
事実確認(裏をとること)
物語の必要
倫理の不在
例えば、こうしたことを軸に、陰謀論は掴めないものへの手触り願いの表れだと仮定するならば、AR/VRが取り入れられる世界で、ますます、解決策としての手触りや香りや味などを伴う、物語の登場を期待します。私の目にはこう見えます。皆様は、何が必要だと思われますか?
2011年12月15日公開のこの動画、覚えていますか?
1998年1月28日発売のこの曲、リアルタイムで聴いていて、今も好きです。でも、なぜこの曲なのかは、うまく説明できないのです。他にも良い曲ありますよね。直感とか、相性から連想しました。
Photo by Pixabay from Pexels:
https://www.pexels.com/photo/spiral-staircase-in-between-bookshelves-256477/
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