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現代に生きる世捨て人⑨ 樹木希林──老いを敵にしない

失うことに逆らいすぎないとき、人は少し自由になる

人生の前半、私たちは失わないように生きている。

若さを失いたくない。健康を失いたくない。仕事を失いたくない。評価を失いたくない。

それは自然なことである。人は手に入れたものを守ろうとする。若い頃は、そのために努力する。勉強する。働く。鍛える。備える。

しかし人生後半になると、少しずつ気づき始める。

どれほど努力しても、失われるものはある。

若さは戻らない。身体は変化する。大切な人との別れも避けられない。

人生は、得ることだけではなく、失うことを学ぶ旅でもある。

そのことを、静かに、そしてどこかユーモアを忘れずに生きた人がいる。樹木希林である。


樹木希林という人には、不思議な軽さがあった。

長く俳優として活躍し、多くの人に愛された。けれども、自分を特別な存在として飾り立てる感じがなかった。

老いを隠さない。病を隠さない。衰えを隠さない。自分を必要以上に美しく見せようとしない。

現代社会では、老いは隠すものになりやすい。若く見えることが価値になる。衰えはなるべく見せないほうがよいとされる。

老いを隠すことに必死になりすぎると、人は自分自身と戦うことになる。

老いていく身体。変化していく顔。疲れやすくなる日々。

それらを敵にすると、人生後半は苦しくなる。

樹木希林は、そこから少し自由だった。老いを敵にしなかった。


病気になっても、彼女は病と戦う英雄のようには振る舞わなかった。

苦しみはあったはずである。不安も、痛みも、恐れも。けれども彼女は、病気を人生の例外として扱わなかった。

「そういうこともある」

どこかそんな姿勢で、病を人生の中に置いていたように見える。

これは、諦めとは違う。現実と喧嘩しすぎないということである。

エピクテトスは、自分の力で変えられるものと、変えられないものを区別せよと語った。

老い。死。身体の変化。病のすべて。これらは変えられない。

しかし変えられないものをねじ伏せようとし続けると、苦しみはさらに重くなる。

樹木希林の姿には、エピクテトスの知恵に通じるものがある。

変えられないものと戦いすぎない。失われていくものにしがみつきすぎない。そのうえで、今日をどう生きるかを選ぶ。

受け身の諦めではない。成熟した受容である。


人生後半になると、身体との付き合い方が変わる。

若い頃、身体は「使うもの」だった。無理をさせる。頑張らせる。気合いで乗り切る。

しかし年齢を重ねると、身体は「相談する相手」になる。

今日は疲れている。ここが痛む。昔のようには動けない。

そのたびに、人は過去の自分と比べてしまう。

昔はもっと元気だった。昔はもっと美しかった。

しかし、その比較を続けるかぎり、人は過去との競争から抜け出せない。

樹木希林は、その競争から少し降りていたように思う。

今の身体で生きる。今の顔で生きる。今の年齢で生きる。

それだけでよい。


五木寛之は、人生後半を「下山」と呼んだ。樹木希林の姿もまた、下山の歩き方を感じさせる。

急がない。飾らない。必要以上に抗わない。しかし生きることを投げ出さない。

老いには老いの歩き方がある。病には病の速度がある。

受け入れることと、諦めることは違う。

諦めるとは、人生に背を向けることかもしれない。しかし受け入れるとは、現実を見たうえで、その中で生きる道を探すことである。

病がある。では、今日をどう生きるか。老いがある。では、今の身体で何ができるか。

樹木希林の生き方は、その問いを静かに見せてくれる。


彼女の言葉や姿には、執着の少なさがある。

家族も大切にしていた。仕事も続けていた。けれども、何かを必死に握りしめる感じがない。

若さに執着しない。健康に執着しない。世間からどう見られるかにも、どこか距離がある。

だから、自由だった。

執着を手放すとは、すべてを捨てることではない。大切なものを大切にしながら、握りしめすぎないことである。

人は、愛するものほど握りしめたくなる。しかし強く握りすぎると、自分自身も苦しくなる。

ディオゲネスは所有を減らし、ソローは暮らしを小さくし、長明は方丈の庵に身を置いた。

樹木希林は、執着を軽くした。

少なく握るほど、人は身軽になる。


病気は「戦い」として語られることが多い。病と闘う。老いに負けない。

その言葉が力になることもある。しかし、すべての人に合うわけではない。

勝てない自分を責めてしまう人もいる。病気が進むことを、まるで自分の努力不足のように感じてしまう人もいる。

病と共に生きる。病を抱えながら暮らす。そういう道もある。

樹木希林の姿は、その道を示していたように思う。

病に勝ったから尊いのではない。病を抱えてもなお、その人らしく生きたから尊いのである。


人生後半になると、未来の不安が増える。

介護が必要になったらどうしよう。誰かに迷惑をかけたらどうしよう。

しかし未来そのものは支配できない。今日をどう過ごすかは選べる。

いつか失うかもしれない。ならば、今日をどうするか。いつか動けなくなるかもしれない。ならば、今この身体で何をするか。

未来を恐れすぎると、今日が薄くなる。老いを敵にしないとは、今日を取り戻すことでもある。


人生後半には、失うことが増える。

親を見送る。友人を見送る。役割を見送る。若さを見送る。

「見送る」という言葉が似合う。去っていくものに、静かに手を振ることである。

養老孟司が語るように、人間も自然の一部である。変化することは異常ではない。老いもまた、自然である。

桜は散る。葉は落ちる。季節は移る。人も変わる。

樹木希林は、その自然な流れを敵にしなかった。老いていく自分を、無理に若い自分へ戻そうとしなかった。


瀬戸内寂聴は、苦しみを抱えたまま生きることを語った。

樹木希林もまた、苦しみを否定しなかった。

病気でも美しい景色は見える。老いても誰かを愛することはできる。衰えても言葉を交わすことはできる。

人生は一色ではない。苦しみの中にも、静かな喜びは残る。

老いの中に自由がある。喪失の中に感謝がある。不自由の中に、思いがけない静けさがある。

樹木希林は、その矛盾を生きていた。深刻になりすぎない。けれども浅くもない。

タモリの脱力とも響き合う。重さを知ったうえで、少し笑う。


人生後半になると、立派な締めくくり方を考えてしまう。

しかし、そうした言葉さえ新しい義務になることがある。

樹木希林なら、そこにも少し笑いを入れるのではないだろうか。

そんなにきれいにまとめなくてもよい。人間は、もう少しぐちゃぐちゃでよい。老いるときは老いる。迷惑をかけるときはかける。それでも人は生きていく。

老いても迷う。病んでも怒る。死を前にしても怖い。

人生後半の成熟とは、怖くなくなることではない。怖さを抱えながら、今日を生きることなのだと思う。


タモリは、力を抜く自由を教えてくれた。黒柳徹子は、好奇心を生きる自由を教えてくれた。五木寛之は、下山する自由を教えてくれた。養老孟司は、自然へ帰る自由を教えてくれた。イチローは、競争の果てに残る習慣を教えてくれた。瀬戸内寂聴は、苦しみを抱えたまま生きる勇気を教えてくれた。星野道夫は、自分を小さくする自由を教えてくれた。横尾忠則は、老いてなお遊ぶ自由を教えてくれた。

そして樹木希林は、老いを敵にしない自由を教えてくれる。

人生後半は、失わないために戦い続ける時間ではない。

失われていくものを見送りながら、それでも今日を生きる時間である。

執着を少し手放す。変化を少し受け入れる。病や老いを、人生の外側へ追い出さない。

すると人生は、思っていたより穏やかになる。

老いとは不幸ではない。人生が自然へ戻っていく過程なのかもしれない。

そして、その道を少し笑いながら歩けたらいい。


今回の問い

あなたは今、何を失うことを恐れているだろうか。

そして、その一部を手放しても大丈夫だとしたら、心はどれほど軽くなるだろうか。


Kashimono / Karimono
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