【遅すぎる自己紹介】なぜ僕は田舎でブックカフェをやりながら文章を書いているのか ~思想の履歴書~
僕は愛知県の田原市という田舎で、一人席メインのブックカフェ「自分を見つけるブックカフェ」を営んでいる者だ。
毎日、noteや小説、エッセイなど、何かしらの文章を書いている。仕事がある日は本に囲まれながらカフェの営業をして、田舎で家庭菜園をやったり鶏を飼ったり、楽器を弾いたり、その他色々とやりながら暮らしている。
こう書くと、昔からブックカフェやこういう自然な暮らしをやりたかった人間のように聞こえるかもしれない。
だが実際は違う。
ただ気づいたらこうなっていただけだ。
だが、もちろん人間は突然こうはならない。
本に囲まれたカフェを営み、毎日文章を書き、畑を耕して鶏を飼うような人間が、ある日空から降ってくるわけではない。
振り返ってみれば、その兆候はずっと昔からあった。
だから今回は、遅すぎる自己紹介として、僕がどんな人間で、どういう思想を経て今に至ったのかを書いてみようと思う。
ちょっと変わった子供だったらしい子供時代
らしい、というのは別に自分は普通だと思っていたからだ。
自分の話はあまりしないので、どう書いていいのかわからないが、僕がこんなふうなのは親が離婚をしていたことも関係がある気がする。
というのも、小学一年生の頃、両親が離婚をして子供は3人とも母親が育てることとなった。僕の上と下には姉と妹がいるのだが、どちらともタイプは違えど手がかかるタイプだった。
そうなると、真ん中の手がかからない僕は、完全に放任されることとなる。これが僕が持つ「自由性」の元なのではと個人的には思っている。
「ご自由に過ごしてください」と育てられた、というか手をかけられなかったので、「自由に生きていきます」となるわけだ。
そんな自由な僕が何をしていたのかというと、割となんでもやっていた。
スポーツも好きだったし、勉強も好きだったし、遊ぶのも好きだった。
よく動き、よく学び、よく遊ぶ、という我ながら理想的な子供時代を過ごしていた。
ただ、メンタル的には変わっているところがあって、メタ認知みたいなのがすでに始まっていた。
どういうことかというと、小学2年生ぐらいのときだったと思うが、普通に楽しく遊んでいた。
そのときに、「あれ? 本当に楽しいのかな? 楽しいと思ってるだけじゃねーの?」
なんて考え始めたのが運の尽き、これをきっかけに自分を観察する第二の自分が生まれてしまって、精神が極端な話、二重構造みたいになってしまったのだ。
何かをする。それを見る自分。
何かを感じる。それを見る自分。
何かを思う。それを見る自分。
これは今でも変わらないのだけれど、そのおかげで人生がどこか他人事というか、自分のことじゃない気がしている。そのおかげで色々と見えてくるものもあるが、さまざまなことを本当に心から楽しめているのかよくわからなくなってしまった。
これが僕が「哲学」にハマる原因の一つだと思う。幼い頃から長年培われたメタ認知のせいで、引いて見る、のが当たり前になっているのだ。
突然、文学に目覚めた高校三年生の頃の話
スポーツもやるし、勉強もやるし、遊ぶのも好きだったので、わりと何でもできる器用なタイプに育った。
そんなタイプだったので、地元の進学校に推薦がもらえて、受験勉強をすることなく進学することができた。
高校でもスポーツに勉強に遊びに燃える予定だったのだが、高校一年生の頃の数学の先生が僕と馬が合わなかった。
というのも、数学のテストで途中式が△で減点されていた。
何度確認しても合っている。答えも間違っていない。採点ミスなのかと思い、先生に尋ねたところ、
「俺の教えたやり方じゃないから減点」と言われた。
僕は実は、そんなことはわかっていて自分なりの解き方で解いていたのだ。
設問に「授業で教えたやり方で解け」と書かれていれば、そうしたはずだし、何も書かれてない以上、自分のやり方でやろうが途中式と答えが合っていれば○でいいはずなのに、減点されたのに納得がいかなかった。
そこで先生と揉めた。
「これで合ってますよね?」
「だから、教えたやり方じゃないからダメだ」
「じゃあ、設問にそう書くべきでしょう」
「とにかく俺がルールだ」
「はあ? じゃあ、もう全てやめますよ。くだらない」
と数学の先生にブチ切れた僕は、数学だけやめればいいのにあろうことか全教科を放棄した。0か100かみたいなタイプなので、やるなら徹底してやるが、やめるとなれば全部やめるのである。
スポーツ、勉強、遊び、に費やされていたエネルギーのうち、「勉強」へ割り振られていたエネルギーがスポーツと遊びに振り分けられ、僕は部活と遊ぶために進学校にいっている謎の生徒になってしまった。
それはさておき、周りは受験一色の高校三年生の頃、僕にとって授業なんてものは眠るための時間だったので、枕用のタオルを持参してほとんどずっと眠っていた。
そんなあるときだ、さすがに眠りすぎて眠れなくなっていたとき、ふと現代文の問題集を開くと「『蜜柑』芥川龍之介』」という一文が目に入った。
「芥川? なんか聞いたことあるけど誰だっけ? 暇だし読んでみるか」
と思い、2、3000文字程度の短編を読み始めた。
まさか、ここから15年間、読書をし続けるなんて当時は思っても見なかった。
その頃のことはいつか記事にしたが、一言で言えば完全に魅せられた。
「くそっ、この芥川ってやつ、天才だ! でも何がどうすごいのか今の自分では理解できないのが悔しい……!」
この時はスポーツ・遊び、に振り分けられていたエネルギーが一点集中して、全部「文学」に捧げられた。
これまでうとうと眠るどころか、熟睡していた生徒が突然、本を読んでいるのだから、先生たちも驚いたことだろう。
そんなこんなで、気づけば15年本を読み続けてしまったわけだが、これが今営業しているブックカフェのルーツであり、今後の人生がいい意味で狂ったのもこの芥川くんのせいなのである。
本を読みすぎてクソほど病んだ青年期
さて、高校3年生の頃から始まった読書生活だが、18歳の終わりごろから21歳にかけての3年間で、僕は1000冊以上の本を読んでいた。当時は一冊読むごとに正の字でカウントしていて、正の字が200個、つまりは1000冊になった時点で数えるのが怠くなって数えるのをやめてしまった。
それくらい本を読むと知的になりそうだが、いいことばかりではない。
人間というものはあれだけ膨大な量の文字を短期間で読むと、間違いなく
「病む」
のである。
だって、ほら想像して欲しい。
読む本にもよるだろうが、僕は芥川龍之介に魅せられて読書遍歴がスタートしたわけだ。
芥川から入った人間が何を中心に読むかというと、あの時代の日本文学なのである。
芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成……、ろくな死に方をしていない錚々たるメンツである。彼らの文章の「暗さ」たるや凄まじいものがある。そういうものを何万、何十万文字、と浴び続けていれば狂ってくるのは当然の理だ。
日本文学的「暗さ」に青年時代の僕はもろに影響を受け、日に日に病んでいった。もちろん、海外文学を読んだり、現代作家を読んだりもしたが、最初の入りが「暗い」ので、メンタル的に病んでいったのである。
メンタルが病んでいった結果、どうなったかというと、日本から飛び出したくなったのだ。
なんだかもう、この国自体に嫌気がさしたというか、本能的に「外に出ろ」と内なる声が囁くのだ。
0か100か、という人間なので、もう出ると決まればそっちの方向に動いていく。日本語だけを読み続けていた3年間から一転して、英語を学び始め、ワーキングホリデーという制度があることを知り、オーストラリアかカナダかを選ぶときに、寒いのが好きだからカナダ、みたいな簡単なノリでカナダに決めてしまった。
恐れがないどころか、日本嫌だな、と思っているので、携帯も解約して家族とバイト先以外には誰にも告げずに、意気揚々としてカナダへと旅立っていった。
経験値が5倍速で入ったカナダの1年半
カナダ時代の経験を書いていけば、文字数が100倍あっても足りないので割愛するが、簡単に言えば経験値が日本にいるときの5倍速で入っていった。
僕はもともと恐れがない人間なので、どこにでも誰のところにでも入っていけた。そんな人間が海外で生活をすると、経験値が尋常じゃない速度でたまっていく。
なんにでも「Yes」と答えて、人生を謳歌していく「イエスマン」という映画あるが、当時の僕もあんな状況だった。
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楽器もやったことのないのにバンドを組んだり、
英語もろくに話せないのにヒッチハイクをしたり、
ホームレスの人たちと公園で友達になったり、
我ながら「これまじで死ぬかもしれないな」と思うようなことまでやったが、とにかくここでは書き切れないほどにいろんな経験をしていた。
そうやって自由な気質のカナダで自由に楽しく暮らしていると、なぜだろう、なんか逆につまんねーぞ、と思い始めた自分がいた。
自分に合いすぎている。
国も人も政治も素晴らしい。
毎日が楽しくて仕方がない。
おそらく99%の人にとっては理想的ともいえる快適な状況が、僕にはつまらなく思えてきた。
カナダで暮らしていたら僕は楽しく過ごすことができる。
死ぬまで何事もなく幸福で満ち足りた一生を過ごすだろう。
ただ、それでいいのか?
そんな楽しい人生で、ハッピーエンドを迎えました、なんていう一生で僕は満足できるだろうか?
答えは、「No」だった。
カナダで何事にも「Yes」と答えて挑戦してきた僕が、カナダで暮らすという選択肢ができると、それに対しては「No」と答えたのだ。実際に働いていたレストランで「就労ビザを出してあげるから残ってくれ」と頼まれたが、僕はそのオファーを蹴って日本に帰るという選択をしたのだ。
さあ、不思議であるが、なぜそうしたのか僕にはわかる。
僕は基本的に、難しいことが好きなのだ。無理そうなことがやりたい。できそうなことはやりたくない。
カナダで順風満帆な暮らしをする、というのはやる前から目に見えていたことだ。
じゃあ、日本はどうだろう?
嫌で嫌で飛び出した日本の方が、なんだかやりがいがあるような気がしてならなかったのだ。
要するに、難しい方を選んだ。
仮に途中で頓挫して上手くいかなくて路頭に迷って死んだとしても、僕は難しいことがやりたかった。
その難しいことを成すために一体何をすればいいのかはわからなかったけど、ぼんやりと見えていたイメージはあった。
それは、
「帰りたくなかった日本という場所を帰りたい場所にする」
という使命だった。
僕は日本から飛び出した。飛び出して外から見た日本は、正直に言ってクソだった。そのクソッタレな日本という国に、日本から飛び出した人の多くは残念ながら戻ってこない。だって、外国の方がいいんだから、戻ってくる理由がない。
そうなると、日本のいい部分も悪い部分も知った人は、なかなか日本に戻ってきてくれない、という状況が生まれる。
だからこそ、日本は変わらないのだ。
そう思うと、僕はこの日本ってやつを変えなければならない気がした。それができるのか、そのためには何をすべきなのかはわからなかったけれど、とにかくこのカナダで得たマインドを日本に持ち帰らなければならない、そんなことを思って日本に帰国した。それが9年前だ。
そんな自分に何ができるのか? を考え始めた帰国後
日本の良さも悪さもカナダから帰るとよくわかる。
その良し悪しについてはここでは語らないが、日本とカナダの決定的な違いは、
日本は人が忙しすぎる
ということに僕には思えた。
いろんな問題があるが、とにかく人々が忙しすぎてそれについて考える暇さえない。考える暇すらないから、忙しさの中で生きて死んでいく。だから、何かが抜本的に変わるということはなく、ただ生きづらさだけが跳梁跋扈してやまないのではと。
じゃあ、どうすればいいのだろう。
人々に立ち止まってもらうには、一体どうすればいいのか。
しばらくは妙案は浮かばなかった。
しかしあるとき、ふと思ったのだ。
「自分一人だけになれる場所や時間があればいいんじゃないのか」
僕という人間が決定的に変わったのは、
本を膨大に読んだあの時間、つまりは「言葉」と、
カナダで一人で高速道路を歩いていたあの経験、つまりは「一人になる」
という二つの経験だった。
「言葉」と「一人になる」
この二つが絶妙に合わさったとき、人は変わるのではないか。人が変われば、日本だって変わっていくのではないか。
そう思って、始めたのが、
一人席メインのブックカフェ、
「自分を見つけるブックカフェ」だ。
僕が今営業しているブックカフェは、そんな経緯から始まったのだ。
もちろん、思いついたからといってすぐに店を始めたわけではない。
資金もなければカフェをやった経験もない。
それでもやるしかなかったし、こんなに燃える展開はない。
だって、何よりも「難しいもの」を求めていたのだから。
田舎にある、一人席メインのブックカフェ。
普通なら絶対に成り立たないこんなカフェを成立させること。
こんなにも難しいことはなかなかないと我ながら思う。
それを成立させるために、どうにかこうにか試行錯誤をしている。
丁寧な暮らしをしているのも、古本を販売して利益をあげているのも、こうやって文章を書いているのも、何もかもがこの難易度の高いブックカフェ経営を成り立たせるための術なのかもしれない。
最後に
半生を振り返ってみると、僕の人生は一貫しているようでいて、一貫していない。
自由に生きたいと思いながら、自ら難しい道を選び続けてきた。
楽な方へ行けばいいのに、なぜかいつも逆を選んでしまう。
だから今も、田舎で一人席メインのブックカフェなんていう、普通ならやらないことをやっている。
そして、おそらくこれからもそうなのだろう。
気づいたら、一人席メインのブックカフェになっていたように、この先も気づいたら別の何かになっている気がする。
何になるのかはわからないけれど、一つだけ確信できることがある。
僕はどこで何をしていようと、難しくて面倒なことを選ぶだろう。
そして何があっても、言葉を綴ることだけはやめることはない。
読書をし続けていた時も、
カナダにいた時も、
帰国してからも、
ブックカフェを始めてからも、
いつも僕のそばには「本」と「言葉」があった。
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