雑記15 動物と植物について
youtubeにて期間限定で以下のアニメが無料配信されているとのことです。
とても大切なメッセージがいくつも込められているので、時間が許すようであれば是非ご覧ください。
実は「動物」の持つ象徴性は「熊」でも、「蛇」でも、「狐」でも、それぞれが特定の個人に対して人生を変えるほどの効果、治癒力を兼ね備えています。そのことは記事にする予定はないのですが、ひとまず「動物」の要素が夢として顕れるとき、「内なる異性」と結びつきやすいということだけ覚えておいてください。
元々記事にするつもりはなかった内容ではありますが、少しだけ触れておこうと思います。
俳優の西田敏行氏を覚えている方も多いと思います。
西田氏は幼いころに実母の再婚に際して伯母一家の養子となりました。
伯母夫婦は西田氏をよく映画館に連れて行ったそうで、彼が俳優を志したルーツもそこにあるといいます。
高校生になると本気で俳優を目指すために上京。
しかし、福島育ちのなまりのために周囲となじめず、故郷では人気者で通っていたこともあり自己の同一性が揺らぎました。それでもなまりを直そうと故郷の友人たちとの連絡も断ち、非常につらい時代であったようです。
そんな中、長年会うことなく生活していた実母ともこの時期に再会します。
西田氏は実母に対して何を思えばよいか、どう接するかわからず、
そして、養母に対しても実母との手前、どのような表情をすればよいか、
どう振舞えばよいかわからなくなったのだといいます。
そのような孤独の中で彼が何度も足を運んだのが動物園でした。
中でも彼が惹かれたのはゴリラの「ブルブル」でした。
アフリカから連れられてきたブルブル。遠い故郷の大地を見ているかのような彼の表情を西田氏は「哲学者」と表現します。
同じく故郷を離れて暮らすブルブルに西田氏は親近感がわいたのでしょう、
寂しさや、怒りや、悲しみ。
ブルブルはそういった感情を身体全体を使って表現しました。
恥ずかしげもなく、飾ることもなく。
そんなブルブルを見続けることで西田氏は何かが吹っ切れ、
そして寂しくなったときは実の母に何度も会いに行くようにもなったのだといいます。
以前の記事で「きつね女房」という昔話を取り上げました。
あらすじを引用します。考察については上記の記事をごらんください。
ある山里に成信という若者がいた。
彼ははやくに両親に先立たれ、嫁もおらず、しかし腐らずに一人せっせと、毎日働いていた。
ある日成信が畑仕事をしていると一人の女が通りかかり、道端にしゃがみこむ。成信が駆け寄ると、ひどい熱で、急いで家に運んで手当をした。
女は2,3日でけろっと体調が治る。
成信は女に、どこから来たのか、行く当てはあるのか聞くと、女は身寄りも行く当てもないことを伝える。そして、「自分をここにおいてくれないか」、と言ったのでした。成信はそれを了承した。
女は一生懸命働いた。一年が過ぎて二人は夫婦になった。夫婦になっても二人は懸命に働いた。みるみる豊かになっていく成信の家と美しい妻に、村人たちは、成信を羨ましく思いました。
やがて二人には森目という子どもができましたが、ある日、森目は大変大きな病にかかってしまいました。夫婦の必死の看病で森目はやがて回復したが、その間に畑を管理することができなかったので、荒れ放題になってしまいました。成信は必死に畑を整備しましたが、それだけで何とかなるような状況でもなく、家に帰った成信は妻にこぼします。「今日は何とかなったが、明日中に田植えができるだろうか」。
成信が疲れ果てながら心配している様子を女房はジッと見つめていた。
朝になって成信が畑に出てみて、ひどく驚いた。
田植えがすべて済んでいたのだった。けれど、さらに驚いたのは、苗が全て反対に植えられていたこと。成信はすぐに戻って妻に事情を説明した。すると妻はびっくりした様子で我を忘れて田んぼまで走っていった。成信もそれを急いで追うと、妻は田んぼの周りを走り回っていた。そしてやがて、妻の姿は白いキツネになっていった。夢中に走っている内に自身の姿が戻っていることに気がつかなかったのだ。そして、走りながら妻は歌った。
「よのなかよかれ、わがこにくわしょ。けんみをのがしょ、つとほでみのれ」。
すると、みるみる内に逆さだった苗が正しい植え方に戻っていったのでした。
ひと段落ついて、妻は人間の姿に戻って成信に伝えた。
だましていたことを許してほしい、
自分は本当に夫のことが好きだった、
自分は山に戻らないとならない、
それだけ言って、空のかなたに消えていってしまいました。
その秋、役人が年貢をとりに里に来たが、不思議なことに成信の家だけ穂がならず収穫がなかったので、役人は成信からは何も取らずに戻っていった。すると、役人が帰ってすぐに、なんと穂が実り始めたのでした。
そこで初めて、成信は妻があの時に歌ったものの意味を知ります。
「世の中よかれ、我が子にくわしょ。検見を逃がしょ、苞穂で稔れ」
成信はいつまでもその稲たちを眺めていた。
そして、下記の記事では私の猫の夢を共有しました。
西田氏に関しても、きつね女房に関しても、そして私の夢に関しても、
現実での新しい発想や観点の扉を開くために、
そして「裏」側から「表」側へ戻ってくるために、
そのために特定の動物とのふれあいという要素(鍵)が必要だったといえます。
ニンゲンにとって動物とはそういう存在でもあるのです。
ニンゲンは「存在」を通して現実のカタチとコミュニケーションをとる。
ニンゲンは現実のカタチを通して「存在」とコミュニケーションをとる。
現実のカタチと、「存在」もニンゲンを通してコミュニケーションをとる。
さて、ここで問題提起させていただきたいのが、
もしその個人にとって鍵となる動物が絶滅してしまっていたら、
もしくはその個人が鍵となる動物と触れ合える機会を制限されてしまったら、
その者の人生が単に味気ないものになる、ということに留まらず、
そのままコワレテしまうことすらありえるでしょう。
話が変わりますが、国という枠組みの至上命題は「滅びないこと」です。
国は「滅びない」ために都度生成される合理性をありとあらゆる手段を用いて遂行します。
そして有事下においての「滅びないこと」のために行うべき合理性の一つに、国民の思想や行動の制限と統制が生成されるのです。
それは善い、悪いということではなく、そしてどの党の誰がトップでそれがどのような思想、信条を持っているかということすら関係なく、国という枠組みは「そういうもの」なのであり、一度その合理性が生成されてしまえばもう曲げることはできないのです。
残念ながら、国のカタチを守る合理性とは「そういうもの」なのです
私はいくつかの記事で世界大戦について触れてきました。
つまり
もしくはその個人が鍵となる動物と触れ合える機会を制限されてしまったら、
ですから、まだ自由が残されている今のうちにあなたにとって鍵となる動物をあなたの中に保存し、叶うことならその動物を守ってあげていただきたいのです。
ホントウに何の罪もない戦争の被害者は動物たちなのですから。
そして動物に加えて、植物についてもいくつかの記事で触れてきました。
もしくは、動物と過ごし、
植物を育て、絵や彫刻、音楽に触れ、
誰かと共に生き、誰かに贈り物を渡して、
想う場所で祈りを捧げ、
あなたの要素を「こちら側」に保存し、抜け道を用意して
電子の海に飲まれたとしてもその抜け道を通って「こちら側」に帰ってこられるようにするのです。
あなたが最後まで日本人でいられるように
あなたのままでいられるように
たとえばあなたが森や山の中でふと浮かんだ発想があったとします。
後日それは歴史上のとある哲学者が言っていたことと通じるものであったことを知りました。
このとき、その発想は果たしてあなたが自身で辿り着いたものなのでしょうか?
それとも森や山の植物たちがあなたの深い部分に働きかけて組み込んだものを自分が考えたものと錯覚しているのでしょうか。
もし後者なのだとすれば件の哲学者の言ったことも植物たちの働きかけによるものだとは思えてきませんか?
それが植物たちのコミュニケーションなのです。
今のうちに植物たちについても触れあっておくことをおすすめします。
この先どんな「悲劇」があなたを待ち受けていたとしても、動物たちや植物たちがあなたのことを、
あなたのカタチがコワレテしまわないように守ってくれることでしょう。
目を閉じた世界から。
