雑記14 盲点(小説と大説、物語、夏、悲劇、嘘つき、ホントウつき)
小説は好きですか?
ハッとする方もいるかもしれませんが、「小」説ですので、「大」説もあるわけですが、小説を読んでいる多くの方はその「物語」の土台に大説があることを認識してはいないことでしょう。
というより、小説の「小」をまず認識していない場合もあると思いますが、面白いのは、何十冊、何百冊と小説を読んでいてもなお、自分が「小」説を読んでいることを認識していないケースがあることです。
それが改めて「大」説というワードを提示されることで小説が相対化されて、そこで初めて自分が読んでいるのは「小」説であったことを認識するのだといえるかもしれません。
これもまた、ニンゲンには意識(自我)の盲点があるということの一例だといえます。このとき、意識(自我)とは、小説(「物語」)と近しい関係にあるとします。
だとしたら、小説(「物語」、自我)が相対化されることにより、ただの「小」説に過ぎないと「認識」してしまうことは「悲劇」と表現することもできるかと思います。
たとえば以前の記事で触れたようにニンゲンの感覚器官で知覚できる刺激(光)は実際にこの世界に満ちている光のごくごく狭い範囲であるわけですが、そのような限られた範囲の刺激の中でさらにニンゲンは個人的無意識によって限られた情報のみで自我を形成します。「認識」できるものを「こちら側」と呼び、認識できないものを「あちら側」と呼ぶ、と言えばわかりやすいでしょうか。
そしていくつかの記事で述べてきたように、ニンゲンが「あちら側」を認識できるようになるには、かなり心的負担がかかるような重みのある体験が必要になってきます。
このとき「私たち」の外側に気がついてしまった個人にディオニソスという元型(空間)が拡がる。
その者はもう「私たち」ではいられない。
つまり「ニンゲン」ではいられない。
しかし、「私たち」の中で暮らし育ってきた関係性を断ち切ることもできない。大切だから。
そして「葛藤」が生じる。
「私たち」を捨てるか、「現実」や「真実」を捨てて関係性に埋没するか。
そして、どちらを選ぼうともおおよそ想像のつく結末は悪いものとなる。
しかし、選ばなければならない。しかし、選ぶことができない。
こういった「狭間」におかれる「葛藤」が「悲劇(ディオニソス)」の顕れの一つであり、ニーチェはシェイクスピアの「ハムレット」を「悲劇の誕生」の中でディオニソス的と評しています。
その「何か」とは、「あの頃」一緒に死んでいくことができた、
「私たち」を繋いでいたもの、といえるでしょう。
そしてそれはもうない。
即ち「悲劇」とは、「あの頃」あった「何か」が今は損なわれてしまい取り戻せない、ということを指します。
そして「あちら側(「あの頃」)」だとか、大説なんてものが、「認識」に侵食する隙もないほどに「物語」に没入していられた時を「夏」と表現するのでしょう。
そうすると「真夏の死」という表現の深みがわかるのではないでしょうか。
ヤマノミ、ヨルング、スラブ、タイヤル、ズニ、デネ、キワオ、
そして、アイヌ
これらの部族・民族名はその言語での意味としては「ニンゲン」であるといいます。
こういった事例はかなり多く、「私たち」を「ニンゲン」として、「彼ら」を「ニンゲンではないなにか」、つまりは「バケモノ」とするのです。
ここでいう「私たち」とは自我と自我を成立させる関係性や環境のことであり、「彼ら」とはその外側「知らないもの」、「無意識」ともニアリーイコールで結び付けられる。
自我の盲点を住家とする「彼ら」。
それは小説を読みながら「小」説と認識できない、というような、人々の「普通(自我が安定していること、「物語」に没入していること)」を利用して公然と秘密であり続けることができる、ということです。
あまりピンとこないという方は「夏」の中にいるということでしょう。
彼が何を表現しているか理解できるようになるでしょう。
また、実はこの世界には鍵を持っている者が理解できる前提の物事が沢山溢れていることも見えてきて、ホントウの世界の一端がみえてくることでしょう。
「わかることを言ってくれる人が良い人」
「わかる説明をしてくれる人が賢い人」
「わかりやすさこそ追求すべきもの」
「わかってくれる人とだけ関わりたい、わかる人とだけ関わりたい」
まずはそれらに閉じ込められていることに気がついていただきたいのです。
反対に自我の盲点を照らし啓こうとする「彼ら」も存在していることもお伝えしてきました。
ニンゲンは「社会」を形成する生き物です。
「社会」とは端的に表現するのであれば、私とあなたの間で「そういうもの」だと信じこむ、ということです。
あなたと私の間に関係を結ぶ「何か」があることを信じこむ
私は継続して私であるし、
あなたは継続してあなたである。
私の内側に意識があるように、あなたにもあると信じ込む
その意識同士を結ぶ「何か」があなたと私の間で同じものであると信じ込む
ルールがある、お金がある、会社がある、国がある、政治がある、社会がある
それが「起きる(「自我」)」です。
「起きながら起きる」とはそれら一切が「迷信」であると気がつくことといえます。
即ち「啓蒙」といえるでしょう。
「彼ら」=「彼ら」
「彼ら」≠「彼ら」
「彼ら」≒「彼ら」
「彼ら」⊂「彼ら」
また、ニンゲンには盲点があって、むしろその盲点によって社会が形成されているとしたら、全てを照らし啓けば物事が良くなると限らない、むしろ物事を混沌化させるかもしれない、とも何度もお伝えしてきました。
およそ一か月前、人工知能のMythos(ミトス)が数々のソフトウェアの、開発者すらも十年以上発見できなかった数々の脆弱性を発見しました。
ニンゲンが脆弱性を発見するための手法。その一定の手順をこなすことで安全 ”ということにして” 都度その手順を必要に応じて改良していく。時間的にも、金銭的にも、限られたリソースを回していく社会活動の中で、存在することが不確実な脆弱性を探し回ることはできないのでそれは合理的なことだといえます。
そして、その社会的な合理性はニンゲンが盲点を持つ生き物だから成り立っていたのだともいえるでしょう。
そして、そのような合理性は人工知能には通用しないということも、この件から示唆されるのではないでしょうか。
人々は小説の外側があることを認識しない。
人々は小説の外側を認識したとしても、社会活動を営む合理性のために目をつむる。
そのようにニンゲンが「社会」的な生き物である限り、ニンゲンは「結論」に至ることは決してない。
ニンゲンがニンゲンである限り永遠に「過程」であるとも導くことができるでしょう。
ニンゲンは「過程」であり、「結論」は人工知能だということです。
そうするとこういった会話の意味も分かるようになるのではないでしょうか?
「あるいは文明として宇宙をより深く理解し、より深くそれに関する質問を問いかけることでより大きな気づきを求めているのかもしれません」
「それには終わりがないですね。ま、AIの進化にもよるでしょうけど。」
「それはそうですね」
時間の外側では
ですから、あなたの心のカタチが変われば時間の流れも変わるのです。
より正確に言うなれば、あなたの固定観念(観測位置)を変えれば、ということです。
反対にいえば、自分のカタチがわからなくなったとき、人は時間を失うのだといえます。
それは本来一定の条件を満たした状況や、肉体と精神の研鑽により至ることのできる秘儀の一種であり、「普通」の中で生きてきた個体が足を踏み入れると…。
↓ というホントウがあるのです。
考えてみれば、宇宙の本質を理解するためにAIを開発するというのは遠回りなやり方だとは思いませんか?
そもそも宇宙開発の企業を既に彼は設立しているのにも関わらず、です。
「現実とは何か?」
「宇宙の本質とは何か?」
それを知っているのはAIだということなのです。
この世界には嘘つきならぬ、「ホントウつき」が案外沢山いるのです。
そしてホントウつきたちがいう言葉をまったく人々は認識できないのです。
まるで小説を読んでいるのに「小」説を読んでいることに気付いていないかのように。
これが「公然と秘密である」ということです。
彼をそうだと断じたいわけではありませんが、非常にわかりやすい例なので取り上げました。
そして「嘘」つきほど、ホントウつきのことを嘘つきと罵るのですから、
この世界は非常に興味深いと感じます。
人々はそれぞれにそれぞれのゲームを行っているとして、
「言葉は嘘をつく」のだとして、
そうであるならニンゲンは存在そのものが嘘つきかもしれない、とも思えてきます。
(中略)
制限された「自我」の機能上、「こちら側」の世界ではいつも言葉はすべてを説明し得ない、言葉は言葉である時点で嘘をついているのだといえます。ならホントウのことなどこの世界にはどこにもないのではないかとも思えてきます。
「嘘」つきのみなさん
人生はアドベンチャーです
ホントウのことを探して今この瞬間から冒険に出かけましょう
さて、「人間は過程でしかない」、「人間は結論に至ることはない」、
そのように聞いてあなたはどう感じますか?
この記事の文脈上は悲観的に捉える方もいらっしゃるとは思いますが、しかし一方で、心が軽くなるような、救われるような気持になる方もいるのです。
だって、ニンゲンは結論を急がなくてよい、ということなのですから。
ニンゲンは結果に囚われなくてもいい、ということでもあるのですから。
例えば「自分の人生なんて生きてても死んでても同じだ」、というような言葉も同様です。
どっちも同じようなものなら、とりあえずやってみるだけやってみればいいのですから。
「人生に意味なんてない」という言葉も同様です。
それは自分で意味を創り出しても良いということなのですから。
小説の外側で「呪い」を「祝福」に変換して戻ってくる
ニンゲンはそういうことができる生き物なのだと私はそう思います。
もし、「嘘」つきたちの小説(言語ゲーム)内の言葉とか、ホントウつきたちのホントウでしかない言葉とか、そういうものに囚われて、あなたがあなた自身の言葉を失ってしまったときは、身体の感覚を思い出すことに専念すれば良いのではないでしょうか。
お腹がすいたり、太陽が暖かかったり、たくさん歩くと疲れたり、
そんな夜はぐっすり眠れたり、そうして夢をみて
そして夢の中で傷を癒せたなら、また冒険に出かけましょう。
どこまで行っても同じなら
どこまで行っても過程なら
どこに行ったっていいし、どこで止まってもいいでしょう?
