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柄谷行人の『新版 漱石論集成』をどう読むか③ 悪い見本みたいだ

割引あり

炭鉱ではない


 私の主張はシンプルなものです。『行人』は回想だと気がつかないで『行人』を論じる柄谷行人というペンネームの人がいたとしたら物凄く恥ずかしいということです。

 そう思いませんか?

 それは洪水や妊娠期間に気がつかないで芥川龍之介の『あばばばば』をあげつらうようなものです。

 この読めていないというのはなかなかむずしい問題で誰にも見落としくらいはあるんですけど、大きな構造と言うか枠組みは抑えないと駄目ですよね。

そういう人物がふらふらと山道を歩いていて、いつのまにか炭鉱の現場に入る。

(柄谷行人『新版 漱石論集成』岩波書店 2017年)

 ついこの間も似たような人を見かけました。

 炭鉱の現場?

 銅山という言葉が十八回出てきますから「炭鉱の現場」と書く人は流し読みしかできていないことになります。
 これが不思議なんですが彼は『資本論』なんかもドイツ語と日本語で読むわけですよね。多分ですけど。そうしないとマルクスの本なんて恥ずかしくて書けない筈です。そこには鉱山労働者の事が色々書かれてなかったでしたっけ。鉄や錫や銅も掘るみたいな。

 まあ、知らなかった、勘違いではなく「銅山」とはっきり書いてあるわけですから、その文字は見ましょうよ。

 多分ですけど石炭を掘るより銅を掘る方がリスクも高くて金になるという設定でしょう?

 

回想です


 しかし、それは常に現在進行形で書かれているのです。

(柄谷行人『新版 漱石論集成』岩波書店 2017年)

「御前さん、まだ眼が覚めないかね。ここから降りるんだよ」
と注意してくれた。それでようやくなるほどと気がついて立ち上った。魂が地の底へ抜け出して行く途中でも、手足に血が通ってるうちは、呼ぶと返って来るからおかしなものだ。しかしこれがもう少し烈しくなると、なかなか思うように魂が身体に寄りついてくれない。その後台湾沖で難船した時などは、ほとんど魂に愛想を尽かされて、非常な難義をした事がある。何なんにでも上には上があるもんだ。これが行き留りだの、突き当りだのと思って、安心してかかると、とんだ目に逢う。しかしこの時はこの心持が自分に取ってもっとも新しくて、しかもはなはだ苦い経験であった。

(夏目漱石『坑夫』)

 銅山に気がつかない程度に読み流せば、この「その後」にも気がつかないかもしれません。しかしそれはあくまで「読んだことは読んだんですけど、何のことやら僕にはさっぱり。無理ですよ、無理。『坑夫』に関して何か書くなんて」というレベルの人の読み方です。

 まあ本当に眺めた程度。

 実際読書メーターにはそういう人がいますよ。解っていないなあという人。

 しかしこれほど酷くはないですよ。

 普通は確認するでしょ。

 いかに逡巡をするほどの汚ならしいものでも、一度皮切りをやると、あとはそれほど神経に障らずに食えるものだ。これはあとで山へ行ってしみじみ経験した事で、今では何でもない陳腐の真理になってしまったが、その時は饅頭を食いながら少々呆れたくらい後が食いたくなった。

(夏目漱石『坑夫』)

 これだって短い期間の回想ですね。現在進行形ではありません。

 今では経験の結果、人間と畜生の距離がだいぶん詰ってるから、このくらいの事をと、鈍い神経の方で相手にしないかも知れないが、何しろ十九年しか、使っていない新しい柔かい頭へこのわる笑がじんと来たんだから、切なかった。自分ながら思い出すたびに、まことに痛わしいような、いじらしいような、その時の神経系統をそのまま真綿に包んで大事にしまって置いてやりたいような気がする。

(夏目漱石『坑夫』)

 これは少し遠い位置からの回想ですね。こうしたものを全部見落として、出鱈目を書いて本が出せるんだから恐ろしいことです。

 それでみんな感心している訳でしょう。

 一体どうなっているんですか、この世界は。

巻き添えにしないで


 しかし、もし写生文でなく一人称でこういう心理状態を書くとどうなるでしょうか。非常に深刻なものになるはずです。たとえば芥川の最晩年の作品、『歯車』などは、そういった病的状態を、内側から書いたものです。

(柄谷行人『新版 漱石論集成』岩波書店 2017年)

 あのう、

 あなたね、漱石が読めていないのに『歯車』に言及しないでくれますか。

 病的状態を、内側から書いたってどういうことですか?

 外側から書いていますよ。

だからそれでは繋がらない


 彼女が須永と千代子の結婚を切望するのは、須永を自分の妹の娘である千代子と結婚させることで血のつながりを回復したかったからです。

(柄谷行人『新版 漱石論集成』岩波書店 2017年)

 このように柄谷は松本の屁理屈をそのまま引き取っていますが、千代子と市蔵が結婚しても血は繋がりませんよね。仮に二人に子供が生まれればその子とは遠縁になります。姪の子ですから。しかし市蔵とは繋がりません。

 解りますよね。

 姻族と血族は違います。

 母親の目的は別にないですかね?

 須永市蔵の母は直や美禰󠄀子のように「こうとは決め難いキャラクター」に見えます。『坊っちゃん』の「おれ」なんかは気がつかなさと云うものはあるものの、裏がないというか、正直じゃないですか。

 しかしいかにも裏のなさそうな須永市蔵の母は御弓に暇を出しました。御弓は市蔵を産むとじき死にました。そして市蔵を引き取る。しかし自分の子供が生まれると「兄さん」とは呼ばせない。差別する。自分の子供が死に、市蔵が総領息子になる。こうなると『虞美人草』が思い出されてきませんか?

 須永市蔵の母は形式上は母親だがただの養母なんです。
 そして松本恒三目線では市蔵は良家の娘を嫁に貰ってもおかしくない財産家なのです。

 なんかねえ、引っかかるんですよね。

 しかしそんなことは柄谷には見えていませんね。

知らされていた


 しかし、この唐突な参禅において重要なのは、宗助がそれを妻に隠していることである。

(柄谷行人『新版 漱石論集成』岩波書店 2017年)

 うつるんですね。デマというのは。

 さすがにこれは駄目でしょう。

 これが人にものを教えるレベルの人なのかと疑いたくなりますが、人にものを教えるレベルの人なんですね。

 ココがわからないというのは本当にひどいレベルです。

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