岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する89 夏目漱石『行人』をどう読むか①
これまで『行人』に関しては、「『行人』を読む」として15本の記事を書いて来た。
本来ならその続きとして、つまり「『行人』を読む⑯」として書くべきところを敢て「『行人』をどう読むか①」として書くのは、これまで書こうとして敢て書かなかったところ、金でも貰って書くべきところを書いてみようかと思うからである。
おそらくこの記事をきちんと読むと、これまで曖昧だった『行人』という作品の大きな構造が理解できる筈だ。
そして驚いた人は私の本を買うはずだ。
本を買わない人は基本的に理解できていないと思う。
つまり思わず本を買うほど驚かなければ、それは理解には程遠いだろうということだ。
行人の意味は?
まず私はこれまで『行人』の粗筋は誰も理解していないと書いて来た。それは何故か。
実は『行人』というタイトルの意味さえ不確かで、岩波の注解も、小宮豊隆の「道行く人」「使者のことを司る役人」「使者そのもの」「生人」、荒正人の「旅人」「使者」「使者をもてなす官名」という意味の重ね合わせ、などの解釈を紹介し、なお定説はないとしながら、「直接的には母一行を迎える二郎をさすと理解すべきだろうか」としている。
これでは到底作品の構造を理解しているとは言えない。
よくよく考えてみよう。
自分は三沢を送った翌日また母と兄夫婦とを迎えるため同じ停車場に出かけなければならなかった。
自分から見るとほとんど想像さえつかなかったこの出来事を、始めから工夫して、とうとうそれを物にするまで漕ぎつけたものは例の岡田であった。彼は平生からよくこんな技巧を弄ろうしてその成効に誇るのが好きであった。自分をわざわざ電話口へ呼び出して、そのうちきっと自分を驚かして見せると断ったのは彼である。それからほどなく、お兼さんが宿屋へ尋ねて来て、その訳を話した時には、自分も実際驚かされた。
「どうして来るんです」と自分は聞いた。
藤井淑禎氏の解釈に従えば、むしろ「行人」は岡田にならないものであろうか。
きわめてシンプルに物語構造を捉えた場合、「いいかげんなお使いを兼ねて旅行している」二郎と、
「そこがすべての懸合事の気転ですな。万事そうやれば双方のためにどのくらい都合が好いか知れんです」
他の客が続いてこう云った時、父は「いやどうも」と頭を掻いて「実は今云った通り最初はね、そのくらいな事じゃなかなか疑りが解けないんで、私も少々弱らせられました。それをいろいろに光沢をつけたり、出鱈目を拵えたりして、とうとう女を納得させちまったんですが、ずいぶん骨が折れましたよ」と少し得意気であった。
こうして「いい加減なお使い」をした親父と対になり、嫂との一夜を報告しない二郎と、一郎の様子を長文の手紙で知らせるHさんとも対になり、旅行は旅行でまた対がある。
しかしお貞の縁談だけではなく重子の縁談を巡っても「いい加減なお使い」をしていたという書かれている部分と、書かれていない「いい加減なお使い」の対もある。
それは二郎と直が以前から知り合いであったという設定の中に現れる。
「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいにどこへでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。妾なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立枯れになるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの」
一郎に植え付けられる前に、直の実家と長野家の間では、大変御無沙汰している二郎が縁談の際に「いい加減なお使い」をしたことが想像に難くない。関係性からしてそうなる。佐野とお貞ばかりではなく、一郎と直の二人の夫婦仲の責任はお使いをした二郎にもあるのだ。お貞の見合いの下見に行かされる二郎はそういう役割を担ってきた。
この「二郎と直が以前から知り合いであったという設定」が掴めないまま、ネジが一本抜けたようなところから勝手に『行人』を分裂させている『行人』論の何と多いことか。
ネジが一本抜けたら、それは分裂しても仕方ない。
逆に「二郎と直が以前から知り合いであったという設定」の意味が分かっている人が見つからない。
つまり物語構造が捉えられていない。
それでは駄目だ。それで分かったような事を書いていては駄目だ。恥ずかしい。
梅田の停車場
これまでにこっそり仄めかしてきたが、この『行人』は「梅」がキーになる話だ。梅田の次に出てくるのは梅に鶯の掛け軸、その次が直の眺める古い梅、
実際嫂のいった通りその座敷は物綺麗にかつ堅牢に出来上っていた。
「東京辺の安料理屋よりかえって好いくらいですね」と自分は柱の木口や床の軸などを見廻した。嫂は手摺の所へ出て、中庭を眺めていた。古い梅の株の下に蘭の茂りが蒼黒い影を深く見せていた。梅の幹にも硬くて細長い苔らしいものがところどころに喰っついていた。
そしてその梅が直と二郎の思いをシンボリックに映し出す。
お重も来き、母も来る中に、嫂だけは、ついに一度も自分の室の火鉢に手を翳さなかった。彼女がわざと遠慮して自分を尋ねない主意は、自分にも好く呑のみ込めていた。自分が番町へ行ったとき、彼女は「二郎さんの下宿は高等下宿なんですってね。お室に立派な床があって、庭に好い梅が植えてあるって云う話じゃありませんか」と聞いた。しかし「今度拝見に行きますよ」とは云わなかった。自分も「見にいらっしゃい」とは云いかねた。もっとも彼女の口に上った梅は、どこかの畠から引っこ抜いて来て、そのままそこへ植えたとしか思われない無意味なものであった。
どこかで植え替えられる梅に希望を見出したい直と、それを「無意味」と残酷に突き放す二郎がいる。梅の構図は漱石の意図である。二郎はその意図を知る由もない。しかし無意識に「無意味」と突き放しているから残酷なのである。嫂が梅に込める思いが届いていない。二度もテレパシーを交わしながら、この肝腎な場面では気持ちが通じない。
ここで先の「どこへでも飛んで行ける」が鶯であり、直は梅であることが分かる。この梅の流れが最初の一文字から始まっている。「どこへでも飛んで行ける」のが二郎だからThe Wayfarerという英語のタイトルもそう見当違いではないのかな。
そんなことは言われなくても解っていたという人は、おそらくいない。何故なら、言われても解らない人しか見つからないからだ。
そこで頑張っても何もないと思う。そもそも何を頑張っているの?
素直になろう。
[付記]
兎に角『行人』は対だらけだ。お見合いが成功して嫁に行くお貞と、二郎がぐずぐすしている間に嫁に行きそびれるお重、二郎の短い手紙と親爺の長い手紙、……。
で、買わない?
知らないまま死にます?
