谷崎潤一郎の『幼少時代』を読む② 弑せられる天皇
弑せられる天皇
天皇が人に弑せられる場面は、能にも狂言にも歌舞伎芝居にも、嘗て演ぜられた例はないが、水天宮のお神楽では正しくこれが演ぜられたことがあった。それは眉輪の王が安康天皇の寝てゐる所に忍び寄って、傍らにあった太刀を取って天皇の首を斬るところで、私はそれを疑いもなく見た。
改めてそう言われてみると、確かに弑せられる天皇というものはドラマでも映画でも見た記憶がない。深沢七郎の『風流夢譚』が芝居にかかったり、ドラマ化されるということもなさそうだ。ここには猛烈なタブーが根強くあるはずなのだ。ならば水天宮のお神楽でだけそんなことが可能だったのかと不思議になる。
ずたずたに切れ目を入れられた顔の写真
当時ずたずたに切れ目を入れられたおこのの顔の手札型の写真は、俳優や芸者の写真と並んで方々の店頭で売っていたので、私も水天宮の縁日で、しばしば露店に曝されているのを見たことがあった。
時代とは言え、水天宮は寛容なものだ。今ではとても考えられない。このずたずたの顔という辺りは『お艶殺し』に採用されたものか。
築地精養軒
かようにして明治三十五年に、父がいよいよどんづまりの窮境に陥ったために、私は十七歳で築地精養軒(場所は京橋区釆女町、━━ 今の銀座五丁目)の家庭教師に住み込んだので……
谷崎潤一郎の『痴人の愛』に「築地の精養軒」というものが出て來る。これは「上野の精養軒」のことだろうと勝手に解釈したが、正解だろうか。主人公はそこから田町の駅まで歩く。築地と上野、まあ近いと言えば近い。しかし「築地の精養軒」とは言わないなあ。「築地の西郷さん」だと何のことなのか分からなくなるから。

あったのか。
南朝が破れて再び武家の世に戻ったのに
そしてその頃の生徒たちは忠君愛国の思想で固められていたので、あの第一巻の「頼員回忠の事」や「資朝俊基関東下向の事」の條に、「君の御謀叛事成らずば」とか「君の御謀叛次第に隠れなかりければ」とか、後醍醐天皇の北條氏征伐の計量を「君の御謀叛」と記しているのを発見した時は、私は異様な感に打たれた。
そして南朝が破れて再び武家の世に戻ったのに「めでたかりし事どもなり」とはどういうことかと不思議に思う。「その頃の生徒たちは」と云うからには、今の自分は違うということだ。
[余談]

違うと思う。
