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日本統一の完成を記念した景行天皇陵と母・日葉酢媛命陵、皇子・日本武尊陵

景行天皇陵(山辺道上陵)は渋谷向山古墳(奈良県天理市渋谷町向山)で衆目一致します。渋谷向山古墳は纒向の最後の記念碑的な大陵(墳丘長300m/箸墓を越える全国ランキング8位)です。古墳時代前期の築造とされます。渋谷町は城上郡で、延喜式の記載に合致もしています(山辺道であって、山辺郡ではない)。景行天皇は古墳時代前期の纒向時代の最後の天皇で、日本武尊(白鳥)等の活躍で日本統一を成し遂げ、近江に遷都した業績があります(これは神話に反映しており、景行天皇=ウガヤフキアエズ(鳥居)で(鳥居の祖型の探究|古墳時代史解題)、神武天皇(磐余彦)=日本武尊(近江に建部大社)です(古事記のモデルとなった書経における中国最初の帝王の堯と神武天皇/日本武尊|古墳時代史解題孝元天皇/素戔嗚尊の母(イザナミ?)は近江出身だった?(息長氏の謎解き)|古墳時代史解題(有料記事))。私的には行燈山古墳の被葬者(垂仁天皇)の後継者でもあります(宝来山古墳は垂仁天皇陵か、行燈山古墳は誰の古墳か|古墳時代史解題)。

見出し画像はウィキペディア「渋谷向山古墳」墳丘全景(Saigen Jiro)。

母・日葉酢媛命(記:大后・比婆須比売命)の陵としては、古事記に記載がある狭木之寺間陵に比定される佐紀陵山古墳(奈良県奈良市山陵町)で異論はありません。古墳時代前期の築造ということで、年代も問題ないと思います。墳丘長207m。日葉酢媛命だけが古墳時代前期の「皇后」として、大きな古墳を築いたと思われることに関して言えば、古事記に大后(おおきさき)とあることで裏付けられると思いますが、当人にとりわけ力があったというよりは、力があった景行天皇の母として、景行天皇が大きな古墳を築いたのではないかと考えています。古墳は子が築くルールのバリエーション(祖型)です(寿陵の中国、子が親の古墳を築く日本①(応神天皇陵から雄略天皇陵まで)|古墳時代史解題)。そう判断した根拠は、日葉酢媛命の野見宿禰に関わる形象埴輪の逸話が、景行天皇に関わると考えられるからです(崇神天皇・大彦命に続くNo.3は誰か(椿井大塚山古墳)、そして野見宿禰の謎へ|古墳時代史解題)(野見宿禰=因幡国だと思いますが、因幡国は伊福部氏が有力で、伊福部氏は垂仁天皇より、景行天皇と関係が深いように思われる)。つまり形象埴輪も垂仁朝の考案というより、親世代の為に景行朝頃に考案されたものだと思います(日本書紀の記述とは矛盾しますが(古事記とは整合的ですが)垂仁天皇より一つ下の世代的にも日葉酢媛命は景行朝まで生きていたのかもしれない)

皇子・日本武尊の陵ですが、日本書紀に伊勢國能褒野陵とあります。これは宮内庁に能褒野王塚古墳(三重県亀山市田村町字女ヶ坂)に治定されており、私も特に異論がありません。能褒野王塚古墳は4世紀末の築造等とも言われていますが、第4章 能褒野王塚古墳へ(亀山市歴史博物館)によれば、穂積裕晶氏が佐紀陵山古墳と相似形と指摘しているので、景行朝(4世紀前半)の築造と見て良いと思います。通説は50年ズレており、日本の専門家は徒弟制度で先輩の業績を否定できず、修正などされていないのです(古事記の崩年干支が誤らせた古墳時代の開始年代|古墳時代史解題)。

2026年3月24日追記)景行天皇陵(渋谷向山古墳)は成務天皇が築いたと思います。渋谷町に式内水口神社があって、穂積氏の遠祖の大水口宿禰が垂仁朝に伊勢国に天照大神を祀る時に活躍したと見られますが、新撰姓氏録に大水口宿禰は伊香賀色雄の子です。成務天皇の妃が穂積氏で、これは伊勢国鈴鹿郡で日本武尊と関係が深いです。日本武尊の母が播磨の吉備氏で、モモソ姫(天照大神)の一族です。日向の名付け親で纒向日代宮の景行天皇の為に成務天皇が景行天皇陵を築いたのであって、その証拠が水口神社と言えると思います。渋谷の地名と水口も関係ありそうですが。


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