キモいのにカッコいいウディ・アレンと『誰々の何々』というタイトル表記
アマプラの配信期限が迫っていたのでウディ・アレンの映画を6本観た。ウディ・アレンの映画は学生時代に一通り観たので、それ以来だった。『ウディ・アレンの〜SEXのすべて〜』だけ今回初めて観て、それ以外はその時に観ていたが、結構内容を忘れていた。どれも面白かった。
ウディ・アレンの映画が凄いのはキモいのにオシャレで面白いところだ。
40代のオッサンが20代(下手すりゃ10代)の女の子との恋愛に普通に悩んでいて面食らう。「何の葛藤もなく若い子と恋してるけど、キモいんですけど!」という気持ちになる。まあ、どんな恋愛であれ多かれ少なかれキモいものだし、恋愛なんて外野がどんなに騒いでも最終的には当人同士の気持ちの問題なのだから好きにすればいいという前提は置いておいても、40代のオッサンが20代の女の子を追いかけ回すのは、掛け値なしのキモさを放っている。
そんな絶対的なキモさから映画はスタートする。でも、そこからキモさの無限谷底に転げ落ちることなく、ギリギリのところをキープし続ける手腕がすごい。オッサンにありがちな、金や権力、社会的地位の振りかざしは基本的に無いので、無自覚のイヤ〜な圧力は感じない。あくまで平等に接するのである。40代のオッサンなのに20代の女の子とあらゆる点で程度が同じというのはそれはそれでどうなのかと思うが、嫌な印象にはならない。じゃあ何で勝負してるのかと言えば、自分のセンスのみである。それも鼻持ちならないセンスのひけらかしではなく、自分はこういう人間にすぎないんだ、それ以上でも以下でもないけど、そんな自分をどう思う?という態度である。
それは全然、響かない人にはうるせえジジイだなとしか思われないだろうけど、何か引っかかりを感じる人はこのオッサン、おもろい!となるであろう、絶妙なラインなのである。気づけば、ああ、いるいる!こういう若い娘に軽口叩かれながら面白がられるオッサンいる!となっている。
絶対的キモさゆえに、共感はしないまま観ているはずなのに、こういう人が若い娘にモテるのは何かわかる、と思わせるリアリティ。しかもそれを本人をモデルとして描いている、というか本人がほぼ本人じゃねえかという設定で出ているので、つまりは本人が実生活でそうやってモテてきたんだろうなということで、そう考えるとよりキモくはあるけれど、説得力はハンパない。曝け出す胆力もまた凄い。
キモさを不快側に転がさないギリギリのところで保ちながら、オシャレな音楽・小道具・景色・構図でコーティングしてくるので、映画として小気味良いのである。そりゃあまあ、総じて面白い訳です。
ウディ・アレンの映画が好き、と公言している人はウディ・アレンのような生活をしていることが多い。すなわち、良い年したオッサンにも関わらず、何故か連れてる女性はいつも若いのである。キモい。キモいけど凄い。当人同士は幸せなんだから、勿論こちらから言うことはない。
むしろ、ウディ・アレンのような生活をしていないのに、ウディ・アレンの映画が好きと言ってる人はヤバい可能性がある。キモいだけでなくヤバい。ウディ・アレンは最初からウディ・アレンだからギリ許されるのであって、ウディ・アレンでもないのにウディ・アレンに憧れるのはやめましょう。それはもう良い年こいて、いつまでもアレな人になるだけです。
初期作はウディ・アレン本人が主役として出ていることもあって、ウディ・アレン的な生活をしている人以外には全然共感を許さない、ウディ・アレン自身を描いてる作品に見える。でも作品を重ねる中で、同心円が広がっていくように、良い具合に本人から距離が離れていって、観ている側が寄り添える内容になっている。核にあるのは人生のままならなさ・不平等さ。“好き”があったとしてもそれが上手く機能しない。
学生の時は『アニー・ホール』『マンハッタン』が衝撃的に面白かった印象だった。こんな奴に共感なんて出来ねーよ!と思いつつグイグイ引き込まれてしまう。『ハンナとその姉妹』はマイケル・ケインの変態紳士ぶりが遺憾無く発揮されてて最高だ。『カイロの紫のバラ』は軽妙でわかりやすいコメディかと思いきや世知辛いラストが切ない。
『インテリア』が今回改めて観た中で一番面白かった。笑いを抑えめに描いた分、良い塩梅の味わいが出ている。新しいお母さんが結婚式で踊っているシーンの全員の表情と場の空気。誰も悪くないのにメチャクチャ気まずい感じが大人になった今観ると凄くわかる。ピースがハマれば全員が幸せになれそうなのに、そうはならないことが世の中には沢山ある、ということを良く描いている。
『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』も観た。こちらはSEXがテーマのオムニバスコント形式の映画である。
上記の長いタイトルの他に、『ウディ・アレンのバナナ』『ウディ・アレンの愛と死』など『ウディ・アレンの〇〇』というタイトルの作品は幾つかある。ウディ・アレンの作品は最初の方はただ笑いを取るコメディ映画が多かった。『アニー・ホール』からただのコメディ映画を撮るだけはもう止めようと意識を変えていったらしいが、『ウディ・アレンの〇〇』というタイトルの作品は初期のコメディ映画に多い。(『ウディ・アレンの影と霧』『ウディ・アレンの重罪と犯罪』など後期にもあるけど)
この『誰々の何々』というタイトルの付け方。これがされてると、グッとコメディ感が上がるというか、言ってしまえばかなりチープな印象になる。一方でめちゃくちゃわかりやすい良さもある。ウディ・アレンの馬鹿馬鹿しいやつという感じがするし、ウディ・アレンの映画が観たい時に迷わず選ぶことができる。
この『誰々の何々』のタイトルの元祖は何だろうと考えると、チャップリンなんじゃないかと思う。『チャップリンの黄金狂時代』『チャップリンの独裁者』『チャップリンのサーカス』『チャップリンのスケート』など色々思い浮かぶ。
誰々の部分の表記はあったりなかったり、劇場公開時とソフト化の時に名前が変わったり、そもそも邦題はチャップリン本人が付けたのではなく日本の配給会社が付けたものだから、正式名称というのも難しいところだが、とにかくチャップリンの映画は『チャップリンの〇〇』というタイトルが多い印象だ。
そこから転じて、コメディ映画のタイトルは『誰々の何々』と付けるとそれっぽくなるイメージがついたのではないか。
『チャップリンの役者』『チャップリンの拳闘』『チャップリンの失恋』『チャップリンのお仕事』『チャップリンの女装』『チャップリンの掃除番』『チャップリンの船乗り生活』『チャップリンの寄席見物』
観たことがなくてもと何となく内容を推察することができる。というか、こういったタイトルの場合、“お決まりの型”が展開されることを観客が期待して観るところもあると思う。安定の茶番劇を観ることが出来るという安心感。
そこから“お決まりの型”以上の深みを作品に持たせたい場合、『誰々の〜』という冠は邪魔になってくるのではないだろうか。だから『犬の生活』『キッド』『モダン・タイムス』『ライムライト』には『チャップリンの〜』と付かないし、『アニー・ホール』以降には『ウディ・アレンの〜』と付かないのではないか。(『黄金狂時代』『独裁者』辺りも付いたり付いてなかったりするし、上記の通り『ウディ・アレンの〜』と付く作品は『アニー・ホール』以降も全然あるけれども)
つまり、ただただ笑える、わかりやすい作品には『誰々の何々』というタイトルの付け方が合っているのである。
だが一方で、観客として映画を観る場合、同じ監督の映画のタイトルには全部『誰々の〜』と付いちゃってても良いんじゃないかという気がする。
例えば今回の私のように、ウディ・アレンの映画をまとめて観ますか、となった時には付いててくれた方が、どれがウディ・アレンの作品か、とかいちいち検索しなくて良いので助かる。試しにタイトルに勝手に付けてみる。
ウディ・アレンのバナナ
ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう
ウディ・アレンのスリーパー
ウディ・アレンのアニー・ホール
ウディ・アレンのマンハッタン
ウディ・アレンのザ・フロント
ウディ・アレンのカイロの紫のバラ
ウディ・アレンのハンナとその姉妹
ウディ・アレンの誘惑のアフロディーテ
ウディ・アレンの地球は女で回ってる
ウディ・アレンの世界中がアイ・ラヴ・ユー
ウディ・アレンのギター弾きの恋
ウディ・アレンのおいしい生活
ウディ・アレンのミッドナイト・イン・パリ
ウディ・アレンのそれでも恋するバルセロナ
ウディ・アレンのブルージャスミン
どうだろうか。意外としっくりくる感じがする。
お決まりの型とまではいかないが、作家性を期待して観客が観に来る・コメディとまではいかなくても独特のユーモアが織り込まれる作風、であれば『誰々の何々』というタイトルで統一すると謎のスッキリ感が生まれる気がする。
試しに、こちらも配信期限が迫っていて一気見したのだが、ジム・ジャームッシュの作品でもやってみよう。
ジム・ジャームッシュのパーマネント・バケーション
ジム・ジャームッシュのストレンジャー・ザン・パラダイス
ジム・ジャームッシュのダウン・バイ・ロー
ジム・ジャームッシュのミステリー・トレイン
ジム・ジャームッシュのナイト・オン・ザ・プラネット
ジム・ジャームッシュのデッドマン
ジム・ジャームッシュのゴースト・ドッグ
ジム・ジャームッシュのコーヒー&シガレッツ
ジム・ジャームッシュのオンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ
ジム・ジャームッシュのパターソン
ジム・ジャームッシュのデッド・ドント・ダイ
こちらは付ける前と後でそんなに印象が変わらない。
日本版のタイトルが本国版のタイトルそのままのカタカナ読みだから、ということもあるかも知れない。
コーエン兄弟はどうか。
コーエン兄弟の赤ちゃん泥棒
コーエン兄弟のバートン・フィンク
コーエン兄弟の未来は今
コーエン兄弟のファーゴ
コーエン兄弟のビッグ・リボウスキ
コーエン兄弟のオー・ブラザー!
コーエン兄弟のバーバー
コーエン兄弟のレディー・キラーズ
コーエン兄弟のノーカントリー
コーエン兄弟のインサイド・ルーウィン・デイヴィス
コーエン兄弟のヘイル・シーザー!
コーエン兄弟のマクベス
こちらもあまり印象は変わらないかと思ったが、幾つか効果的なタイトルになったものもある気がする。
『バーバー』はあまりにタイトルがシンプル過ぎるから付けた方が作品の格が出た感じがする。原題が『The Tragedy of Macbeth』の『マクベス』もコーエン兄弟の、と付いた方が作品の意匠として良さげだ。
逆に凄い軽くなってしまったのが『ノーカントリー』だ。バカっぽくなる効果が効きすぎてる。というか『ノーカントリー』は原題通り『ノーカントリー・フォー・オールドメン』の方が絶対良い。
ウェス・アンダーソンだったらどうか?
ウェス・アンダーソンのアンソニーのハッピー・モーテル
ウェス・アンダーソンの天才マックスの世界
ウェス・アンダーソンのザ・ロイヤル・テネンバウムズ
ウェス・アンダーソンのライフ・アクアティック
ウェス・アンダーソンのダージリン急行
ウェス・アンダーソンのファンタスティックMr.Fox
ウェス・アンダーソンのムーンライズ・キングダム
ウェス・アンダーソンのグランド・ブダペスト・ホテル
ウェス・アンダーソンの犬ヶ島
ウェス・アンダーソンのフレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊
ウェス・アンダーソンのアステロイド・シティ
ウェス・アンダーソンのザ・ザ・コルダのフェニキア計画
ウェス・アンダーソンのヘンリー・シュガーのワンダフルな物語
ウェス・アンダーソンの毒
ウェス・アンダーソンの白鳥
ウェス・アンダーソンのねずみ捕りの男
ウェス・アンダーソンは世界観が独特かつ確立しきっている感があるので、翻訳版タイトルも元々かなり統一感がある。
作品の意向を汲んで本国版タイトルを直訳しているのもあれば、『ザ・ザ・コルダ〜』のように敢えてズラしているものもある。
『ヘンリー・シュガー〜』『毒』『白鳥』『ねずみ捕りの男』はロアルド・ダール原作でネトフリ公開の短編映画4作だが、後半3つのタイトルがシンプルな分、付けた方が統一感がある。
『アンソニーのハッピー・モーテル』『天才マックスの世界』の頃は、タイトルに迷いがある気がして、まだ評価が確立されてなかったんだなという印象だ。
ちょっと趣向を変えて、ヨルゴス・ランティモスでやってみる。
ヨルゴス・ランティモスの籠の中の乙女
ヨルゴス・ランティモスのロブスター
ヨルゴス・ランティモスの聖なる鹿殺し
ヨルゴス・ランティモスの女王陛下のお気に入り
ヨルゴス・ランティモスの哀れなるものたち
ヨルゴス・ランティモスの憐れみの3章
ヨルゴス・ランティモスのブゴニア
ヨルゴス・ランティモスの作品はコメディというにはあまりに癖があり過ぎるが、ヤバすぎて笑うしかないみたいな部分があるので、ある種の馬鹿馬鹿しさみたいなものが付けることで強調されるような感じがする。
型が決まっているコメディに有用なタイトルの付け方と思ったが、ホラーにも合いそうな気がしてきた。
コメディとホラーは緩急で観る者の感情を揺さぶる点では似ているとよく言われる。
ゾンビ映画の巨匠、ジョージ・A・ロメロでやってみる。
ジョージ・A・ロメロのナイト・オブ・ザ・リビングデッド
ジョージ・A・ロメロのゾンビ
ジョージ・A・ロメロの死霊のえじき
ジョージ・A・ロメロのランド・オブ・ザ・デッド
ジョージ・A・ロメロのダイアリー・オブ・ザ・デッド
ジョージ・A・ロメロのサバイバル・オブ・ザ・デッド
当然のように統一感は出るが、これらは権利元が違うが世界観を共通する“ジョージ・A・ロメロのリビング・デッド”シリーズでもあるので、改めて冠を付け直すことによって、シリーズとして撮っている監督の意向を強化する効果があると思う。また、似たようなタイトルのパロディ・オマージュ作品がいっぱいあるので差別化の効果としても良さそうだ。
アリ・アスターやジョーダン・ピールなどのホラー映画監督、
クエンティン・タランティーノやロジャー・コーマンなどでも出来そうだがキリがないのでここら辺でやめておく。
映画のタイトルは監督の意向だけでなく、製作やらスポンサーやら色んな立場の人々の想いが込められているから、それを本国とは別の国で上映するとなると、また更に沢山の人々の思惑が乗っかってくる訳で。
タイトルに『誰々の何々』と冠を付けることは、ある意味メチャクチャ乱暴な行為でもあるけれど、そのざっくばらんな感じが独特の味わいを出すこともある。映画のタイトルに冠を勝手に付けるという遊びでした。
