『ブルーバレンタイン』の友情ver.
ある演出家が映画好きの俳優に「『ブルーバレンタイン』の友情ver.の映画はないか?」と聞いてるのを盗み聞きした。どうやらそういう作品を作りたくて参考にしたいらしい。その俳優は何本か候補を挙げたがその演出家がピンとくる映画はなかったようだ。
そこから勝手に自分も『ブルーバレンタイン』の友情ver.作品は無かったかと探している。
そもそも『ブルーバレンタイン』とはどんな映画だったか。ライアン・ゴズリングにハマって彼が出てる映画を一通り観たことがあった。その流れで一度観たのは覚えている。
恋愛でサイコーに幸せな絶頂期(過去)と離婚間近の冷め切った時期(現在)を交互に映す構成で、イケメンだった過去と対比する為に毟り取ったようなハゲ頭をガチで仕上げたゴズリングさんの役作りっぷりと、花火の中に絶頂期の画が華やかに浮かび上がっては散っていくエンディングが印象的な映画だった。
つまり『ブルーバレンタイン』の友情ver.とは友情が最高に輝いてる瞬間とヒビ割れて終わっていく瞬間の両方を描いている作品である。流石に『ブルーバレンタイン』のように交互に構成してる映画はないが、友情のはじまりとおわりを感じさせる作品はいくつか思い浮かぶ。
『帰れない山』はまさにそんな映画だった。
(バリバリにネタバレしてくので、悪しからず。)
物語はピエトロとブルーノという少年が出会うところから始まる。
都会の少年であるピエトロは自然好きの両親に連れられて夏休みに山へとやってくる。山の民であるブルーノはピエトロと年端も変わらないけれども既に放牧など家の手伝いをしている。ひょろっとした如何にも都会っ子のピエトロとがっしりとした体つきのワイルドなブルーノ。二人は対照的だがお互いに親友となる。
ブルーノの父親は出稼ぎでほとんど家にいなかった。登山が好きなピエトロの父親はよくピエトロも連れて山に登った。次第にブルーノも一緒に連れて行くようになる。ピエトロの父親は山の男に憧れているようだ。しかし、体の小さなピエトロは付いていくのがやっとだ。ピエトロの父親は体の大きなブルーノの方を褒めるような描写がある。
青年期、元々都会に住むピエトロと山に住むブルーノは疎遠になる。しかし大人になってから再開した二人は、協力して山小屋を作り再び親友となる。ブルーノはすっかり山の男になっていた。ピエトロも休暇がある度に山に来るようになる。ピエトロが連れてきた友人のうち、1人の女性と仲良くなりブルーノは結婚する。彼女はタフな女性で、ブルーノの住む山小屋に2人で暮らし、子供も生まれる。
都会で暮らしていたピエトロも、方々を旅することで本を書き、それがヒットする。旅先の女性と結婚し、ピエトロも自分の道を見つけ始める。
一方で、ブルーノの生活は破綻していく。借金がかさみ、子供のために山を降りようという奥さんの提案に、自分は山でしか生きていけないと頑なに拒むブルーノ。結局、奥さんは子供を連れて出て行ってしまい、ブルーノは山で一人になってしまう。
ブルーノの様子を見にピエトロは山に訪れる。二人は変わらず親友のままだったが、山から降りる気はないブルーノの気持ちを変えることは出来なかった。そして厳しい冬が来て、ブルーノの元に救助隊が向かうが、ブルーノの姿は見つからなかった。
タイトルの『帰れない山』というのは、幼い時にピエトロの父に連れられてピエトロとブルーノの二人が登った時の山のことで、この時の出来事が2人のその後を決定づけることになる。つまり、山で生き続けることを選ぶブルーノと、世界各国を彷徨い歩くピエトロと。
父が亡くなり、ブルーノも亡くなり、ピエトロは再び山に向かうが、あの山には帰れない。それは選んだ道を後戻りは出来ないという意味にも取れるし、無邪気に遊んだあの頃には戻れないという意味にも取れる。山は登るのも降りるのも大変で、登る登らない降りる降りないを選ぶのも自分の自由。そして山から見える景色は山に登ってみないと見えないのである。
時間の行ったり来たりの構成はないが、友情のはじまりとおわり(おわり=死別であって、友情が消滅した訳では無いが)を描いてるという意味で、ブルーバレンタインの友情ver.と言って良いだろう。
劇中でそこまでは描いていないけど勝手にブルーバレンタインみを感じるのは『あの夏のルカ』だ。
地上にいる時は人間の姿をしているが、水に濡れると半魚人のような姿になるシー・モンスター。正体がバレると迫害されるから、シー・モンスターが人間と接するのは御法度だった。
シー・モンスターのルカとアルベルトは人間世界のベスパに憧れて、港町に忍び込んだ。トライアスロンのレースで賞金をもらえることを知った二人は、人間の少女ジュリアと協力して優勝を目指す。
ディズニーでピクサーですから、もちろん暗い展開などはなく、ルカとアルベルトの仲違いや、シー・モンスターである正体がバレて大ピンチなどを挟みつつ、最終的には勿論めでたしめでたし。子供たちの一夏の成長をきっちり描いている。日本語ver.だとヨルシカのボーカルが歌う『少年時代』がエンディングで聴けて、これがまたとても良いんですよ。。
文句のつけようのない名作だけど、観た後にはルカとアルベルトはこれから疎遠になっていっちゃうんだろうなぁという寂しさを勝手に感じてしまう。
ルカとアルベルトはベスパに乗ってみたいという共通の目的で地上に出るという危険を冒すのだけど、普段は都会に暮らしているジュリアから学校の話を聞くとルカは学校に憧れるようになる。ベスパよりも学校に行きたいという話をしてルカとアルベルトは喧嘩になるのだけど、最終的にアルベルトは優勝賞金で電車のチケットを買ってルカにプレゼント。都会に旅立つルカをアルベルトが見送るところで物語は終わる。
知的好奇心が旺盛なルカに対して無骨なアルベルトは漁師のマッシモと暮らすようになり、その後の様子もディズニープラスで見られる。広い世界と勉強によって将来の可能性が広がっているルカに対し、アルベルトは漁師ぐらいしか選択肢がなさそうに見える。視野が広がったルカはアルベルトを退屈に思ってしまうのでは、とか。アルベルトの方が卑屈に感じてしまうんじゃないか、とか。青年期にありがちな疎遠になっていく感じがありありと想像できてしまう。それこそ『帰らない山』のピエトロとブルーノのように。
また『少年時代』が未来よりも過去を感じさせる歌だから、神様視点で『あの夏のルカ』がまるで過ぎ去った輝かしい子供時代のように思えてきて余計に泣けてくる。
なので、ここに『あの夏のルカ』も『ブルーバレンタイン』の友情ver.であると断定します。
最近観た友情ものでは『ロボット・ドリームズ』も良かった。
都会に住む孤独な犬が夜中の通販で見かけた友達ロボットを注文する。家にやってきたロボットと犬は、通販の宣伝文句通り、無二の親友となる。しかし、ひょんなことからロボットは電池が切れたまま海岸に置き去りにされてしまい、犬もロボットを取り戻そうとあの手この手を尽くすのだが、上手くいかない。そうこうしているうちに1年以上月日が経ってしまう。
全編台詞なし。その代わり、この映画では音楽が重要な役割を果たしている。犬とロボットが友情を育むシーンではアース・ウィンド&ファイアーの『セプテンバー』が流れる。言葉もなく表情も乏しい2人だが、お互いの友情を想起させるシーンがある度に、セプテンバーが流れる。Do you remember? 二人ともちっとも忘れていないのに、忘れられないから忘れようとすらするのに、それでも思い出してしまう度にこの曲が流れる。
ぶっちゃけ『ロボット・ドリームズ』は犬とロボットが互いに想い合いながら、擦れ違い続けるだけの映画である。結末を書くと壮大なネタバレになってしまってシラけてしまうから、というか未見の人は知らないまま観て欲しいから、これに関しては書かないけど、正直、この映画は『ブルーバレンタイン』の友情ver.というより『ラ・ラ・ランド』友情ver.です。この映画を見たら間違いなくセプテンバーを聴いて踊りたくなります。切なさや苦味も感じるのに爽快なのが良いです。大好き。
映画じゃないけど、あいみょんの『君はロックを聴かない』を聴くといつも思い浮かぶ物語がある。
この曲は普通に聴けば、
ロックが好きなことしか取り柄がない少年が、好きな女の子に振り向いて欲しくて、勇気を出して自分の好きな音楽を紹介する、という内容だ。
僕の心臓のBPMは
190になったぞ
君は気づくのかい?
なぜ今笑うんだい?
嘘みたいに泳ぐ目
ダラダラと流れる青春の音
乾いたメロディは止まないぜ
君はロックなんか聴かないと思いながら
あと少し僕に近づいてほしくて
ロックなんか聴かないと思うけれども
僕はこんな歌であんな歌で
恋に焦がれてきたんだ
なんの気なしに聴いていれば、男の子が女の子に音楽を聴かせる初めての瞬間の情景が浮かんでくる。
しかし、節々に“初めての今”ではなくて、過ぎ去った過去のように感じられる表現がある。
埃まみれ ドーナツ盤には
あの日の夢が踊る
この少年は音楽狂いであるはずなのに、ドーナツ盤には埃が被っている。毎日聴いてるなら埃なんて被らないはずなのに、はて?
あの日の夢?今まさに、彼女と付き合うことを夢に見ているのではないのか?
すると「僕の心臓のBPMは190になったぞ」とかも気になってくる。如何にも音楽マニアっぽい表現だが、現代の若者というより一昔前の若者って感じがする。
君がロックなんか聴かないこと知ってるけど
恋人のように寄り添ってほしくて
ロックなんか聴かないと思うけれども
僕はこんな歌であんな歌で
また胸が痛いんだ
1番と2番のサビでは
「君はロックなんて聴かないと思いながら」だったのに、
ラストの大サビ前では
「君がロックなんか聴かないことを知ってるけど」になっている。
1番と2番の時には君のことをよく知らない“初めて”の時だったのに、大サビ前では君のことをよく知っている“初めてではない今”になっている。
これらの要素から、
「“初めてではない今”に“初めて”だった頃の話を
誰かが誰かに聞かせている」
という物語が思い浮かんでくる。
誰が誰に聴かせているのか?
それはお父さんがひとり娘に対して聴かせる物語。
父と娘は母が亡くなってから喋ることが少なくなってしまった。元々仲が悪い訳ではなかったが、父の音楽趣味が真面目な娘には理解できなかった。母と娘は話が合ったので母を介せば娘も父と話すことが出来た。しかし、母が亡くなって父も娘も互いに塞ぎ込み、前よりも余計に喋ることが出来なくなってしまった。父は娘に何と声を掛ければ良いのか分からない。娘は父が自室に引き篭もることが多くなったと感じている。父が自室で何をしているかといえば、音楽を聴いているようだ。
ある日、いつものように父が自室で音楽を聴いているところに娘がノックして入ってきた。初めてのことだった。どうした?と父が聞くと、娘は一呼吸置いて、父が好きな音楽について教えてほしいと言った。
そこで父は一番奥に仕舞い込んでいたレコードを引っ張り出した。ドーナツ盤の埃を払い、針を落とす。ふつふつとなり出す音楽。そこでようやく父は語り出した。
この曲は父が母に初めて聴かせた曲だった。母は娘と同じように、父の聴くような音楽に興味はなかった。それでも聴かせたら彼女は笑ってくれた。自分は彼女にもっと笑って欲しいから、あんな歌やこんな歌も聴かせた。笑ってくれる度に近づいてくれた気がした。でも、今思うと寄り添ってくれてたのは彼女の方だったのではないか。音楽の話しかしない自分に笑ってくれていたのだから。
今だってそうだ。自分は音楽を聴いて悲しみを乗り越えようとしていたけど、娘と向き合うことから逃げていただけだった。寄り添ってくれたのは娘の方からだ。
フツフツと鳴り出す青春の音
乾いたメロディで踊ろうよ
この曲で踊った思い出。それは父から誘ったのか、それとも母が見かねて言ったものだったか。
娘も誰かと近づきたくて、音楽のことを知りたがったのかも知れない。娘なら寄り添える誰かを見つけられるだろう。母と似た娘だから。父でも寄り添える母を見つけられたのだから。
書いてみて『ブルーバレンタイン』と本っ当に全っ然関係ないから我ながらびっくりである。
まぁ無理やり結びつけるなら、冷え切った父と娘の今に、父と母の最良の過去と、父と娘のこれから・娘に待っているであろう輝かしい未来が重なっているから、最悪の今に最良の過去・未来がダブって見えるという意味では『ブルーバレンタイン』的でしょう。友情ver.というか、世代を超えた再生ver.ですね。
美しかった過去を今になって取り戻すことは決して出来ないけど、それはそれで良かったということは人生で大いにある。私にも失ってしまった友情はある。
Yという友人がいた。
Yは100kg以上の巨漢ながら、パンチングマシーンで200kg出すわ部活もやっていない癖に妙にサッカーは上手いわ、運動神経が良かった。成績は対して良くないのに、先生と交渉して何とかしてもらうのも上手く要領が良かった。ヤンキーではないが妙に迫力のある奴で、インテリヤクザメガネデブといった風貌だった。
私は中学から私立に入学し、人見知りもあってなかなか馴染めずにいた。そんな私にとってはYは初めて仲良くなった友達の一人で、放課後の何でもない時間をダラダラ一緒に過ごすことが多かった。中高一貫校だったので6年間一緒だった。特に中学の時は親友だったと言って良いだろう。
Yは金持ちという訳ではないが、妙に金払いが良かった。学校帰りに毎日ラーメンを食ったりスタバで飲み物を買ったりしていた。母親と二人暮らしだったが、あまり母親は家にいないようだった。Yの家に遊びに行くと、そんなに片付いてはいなくて、猫が2匹いて、いつも最新のゲームで遊べた。母親とは仲が良くなかったようだ。母親が誰かに電話であの子を本当は産みたくなかったと言っていたのを聞いたことがあるし、直接言われたこともあるらしい。
Yとは笑いの趣味が合って、中身のない話でダラダラと2時間ぐらい電話で喋ることがよくあった。仲の良い親友は今の学校にはいなくて、昔住んでいた団地の友達が今でもよく会う親友なのだと言っていた。私は親友ではないのか、と思ったが言わなかった。
高校に入って別のクラスになると自分は部活をやっていたこともあって、あまり喋らなくなった。というより、無視されるようになった。試験期間などは部活もないので、一緒に帰ろうとすると目も合わせてくれないのだ。特に理由はなかった。
その後、たまに家に遊びに行くとYはウイイレばかりやっていた。自分はサッカーに興味はないし、そもそもテレビでリアルなスポーツゲームをやるのは意味わからんと思ってたので面白くなかったが、Yがやりたがるからやっていた。高校を卒業してまた疎遠になった。久々に会ったのは大学を卒業する間際の頃だった。
Yは海外のスポーツを取材するための学校を卒業していた。どうやらそういうジャーナリストの専門学校のようなところがあって、しかも海外の学校だった。そこを卒業して久々に日本に帰ってきたという話だった。今後もスポーツ関連の仕事に就くらしい。私は安心した。何となくYにはやさぐれている空気を感じていたので、自分の好きなことを仕事にすることを知られて嬉しかった。引っ越しに金が足りなくて貸して欲しいと言われた。私は喜んで八万円貸した。それ以降、Yとは連絡が取れなくなった。
一応、周りの人にも聞いてみたが揃って連絡は取れないという。現在も消息不明だ。
どこにいるか探してみようという気も起きないし、仮に今、向こうからお金を返したいと連絡がきたとしても会わないだろう。もう終わったことである。当時はショックだったが、今はそんなこともあったな、という過去になった。そしてそんな終わり方ではあったが、楽しかった過去は楽しかった過去として現在も存在しているのである。Yの祖母の家に毎年泊まって夜通し桃鉄したことや、変な声真似だけで笑いながら1時間ぐらい電話したこと。それはそれで自分の中で大切な記憶として残っている。消したい過去でもなく、ただ自分の中に存在するだけだ。
そういう訳で『ブルーバレンタイン』の友情ver.のようなことは誰にでもある。きっとある。
そしてそれは決して悪いことではない。
『ブルーバレンタイン』のエンディングの花火は、非常に切ない。最良の時が美しく浮かんでは消えていくから。でも、花火はその場限りで無くなってしまうが、良かった過去が無くなることはない。たとえ花火のように儚く終わってしまったとしても記憶に焼き付いた美しさは褪せない。
最良の時の記憶はそのまま取っておいて、それはそれとして置いておく。下手にそれを取り戻そうとしない。それよりも未来に目を向けて、新しい今を見つけることが肝要なのだ。
まぁこんだけ言っといて『ブルーバレンタイン』は10年ぐらい前に一回観ただけで正直ほとんど忘れているので、近いうちにまた観たいなと思う。
だいぶ長く書いたけど、まだ書き足りないことがあるので、続きはこちら。
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