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【連載小説】男友達との約束:1

 加納さんの必殺技はふたつ。まず、ひとつ目は溜め息。始業から約10分。私の隣席でパソコンのキーボードを一心不乱に叩いていた加納さんが、「はぁーー……あ」と、今日もアクセル全開で必殺技を繰り出す。自席でデータ入力作業をしていた私は、思わず手を止めてしまう。オフィス全体に自分の息を漂わせてしまうんじゃないかと思うほどの巨大な溜め息を吐いた加納さんは、溜め息のあとに言葉を続けない。ただ、溜め息を吐くだけ。
 私はパソコンのディスプレイと向き合ったまま、視線だけで加納さんの横顔を盗み見る。今年で39歳になると言っていた加納さんは、ほとんどメイクもしておらず、日焼け止めしか塗っていないらしい。だからといって、決して若々しい肌をしているわけでもなく、頬にはくっきりと茶色いシミがあるし、ほうれい線も目立つ。女性だからって必ずメイクをしなければならない、なんて押しつけがましい思想は持っていないけれど、他人の前に無防備な素肌を曝け出していられる神経は理解できなかった。
 溜め息を吐き出した加納さんが、何事も無かったかのように自分の作業を再開したので、私も自分の仕事に意識を集中させる。しかし、また10分ほど経過すると、「はぁーー……あ」と、加納さんの口からは溜め息が吐き出される。この一連の流れが3回ほど繰り返された頃、私は耐えられなくなって口を開いてしまう。

「……加納さん。どうかしたんですか?」

 聞かなきゃいいのに、私はいつも加納さんに話しかけてしまう。敗北感。

「え? なに?」

「あの、溜め息ばっかりなので、何かあったのかなって」

「あら、気にしないでー。なんでもないのよ」 

 満足げな笑顔でそう答えたあと、加納さんはパソコンのディスプレイと向き合って作業に戻る。溜め息を吐くなとは言わない。誰だって溜め息を吐きたくなる時はある。でも、理由がわからない加納さんの溜め息は、私の気力を消耗させる。
 そして、加納さんの必殺技は、もうひとつ。

 カタカタカタ。……ぱぁーーん! 

 これがふたつ目の必殺技。キーボードを単調なリズムで叩き、そして、エンターキーだけを尋常じゃない強さで押し叩く。エンターキーにとっては、もはや拷問。なんで俺だけこんなに叩かれるんだ。スペースキーや文字キーには優しくするのに。バックスペースキーなんか俺の真上にあるのに小指でソフトタッチだぞ、理不尽だ。……と、可哀想なエンターキーの境遇を妄想している場合ではない。私も仕事中だ。ぎゅっ…と、眉間に力を込めて目の前の作業に集中する。だけど……、

「はぁーー…あ」

 ぱぁーーん!  

「はぁーー……あ」

 ぱぁーーん!  

「はぁーー………あ」

 隣の席で、加納さんの溜め息、エンターキー強打のコンボが繰り返される。その度に、私の神経は鰹節みたいに削り取られていく。
 せめて、加納さんの必殺技がどちらかひとつであれば、まだ我慢できただろう。溜め息とエンターキー強打。このコンボが、とにかく私に効くのだ。
 私のせいじゃないのはわかってる。加納さんの溜め息もエンターキー強打も、私に向けられているわけじゃない。実際、「気にしないで」って言われたし。もしかしたら、職場とはまったく無関係な場所で何か嫌なことがあったのかもしれない。その鬱憤を職場で溜め息として吐き出しているのかも。それなら、私は無視すればいい。そんな風に頭では理解しているのに、巨大な風船みたいに膨らんだ加納さんの溜め息に押し潰されそうになる。
 そして、ぶち抜かれそうなほど強打されているエンターキーの音も、私をびくつかせる。何の音なのかわかっているのに、私は必要以上に大きな音が不快だし、少し怖い。集中力が削がれて鼓動が速くなる。だからといって、他人のキーボードの叩き方を注意するなんて傲慢だし、ましてや相手は職場の先輩。あのー、もう少しエンターキーに優しくしてあげてください、なんて言えない。私は加納さんの必殺技に対抗できる技をひとつも持っていない。職務上、仕事はほとんどデスクで行うから、隣の席に座っている加納さんの溜め息とエンターキー強打から逃れられない。
 仕事が終わる頃には、私の体力も精神力もどちらもゼロになって、加納さんの頭上に「WIN!」の文字が躍っている。

+++

 塩茹でされた枝豆の美味しさは唇についた塩をこっそり舌で舐めるところまで。枝豆の莢を唇で啄んでつるりとした中身だけを口の中に招き入れ、上唇に付着した塩味を舌先でちょっとだけ舐める。この居酒屋で出される枝豆は適度に塩辛くて、唇にくっつく塩味も絶妙だ。そんな特殊な楽しみ方をしていると、向かい側に座っている悠也も、ちょうど自分の上唇を舐め取っているところだった。

「あー、わかる。溜め息って見えない凶器だよな。エンターキーにしても、うるさいとかじゃなくて、こっちが怒られてるような気分になるっていうか。それはストレスだなー。大変だな、愛里」

 悠也は私の愚痴に全面的に同意しながら、食べ終わった枝豆の莢をどんぶりの中に放り込んでいる。そのどんぶりにはさっきまで揚げだし豆腐が入っていたので、まだ美味しそうな出し汁が少しだけ残っているけど、まあいいや。悠也の大雑把な性格には慣れている。そんなことよりも、悠也が私の苦痛を理解してくれたことが嬉しくて、身を乗り出さんばかりの勢いで話を続ける。

「でしょ? やっぱり、溜め息もエンターキー強打も気になるよね。でも、周りに相談しても、スルーすればいいじゃんとか言われちゃうんだよね」

「気にならない人もいるっていうのが難しいよな。たぶん、その加納さんって人は、他人が出す溜め息とか物音なんて全然気にならないタイプなんだと思う。だから人前でも溜め息吐くし、大きな音出しても平気なんだろ」

 流石は悠也。私の悩みを的確に理解してくれている。自分の中に溜まり続けていたストレスの岩石が軽くなっていくのを感じた私は、何度も頷く。職場の先輩である加納さんは、溜め息とエンターキー強打という武器で私にストレスを与え続けてくるのに、周囲はなかなか理解してくれない。同僚に相談しても笑ってスルーされてしまう。それに、加納さん自身はとても面倒見が良くて好感度の高い先輩だから、下手に愚痴れば私が悪者になる可能性すらあるのだ。
 そんな私の悩みを理解してくれるのは、目の前にいる悠也だけ。悠也は私の親友だ。悠也と出会ったのは高校時代で、ずっと同じクラスだった。仲良くなったきっかけは、とてもありきたりだけど、席が隣同士だったから。だけど、理由はそれだけではないと思う。同じ隣の席でも、加納さんとはまったく仲良くできないが、悠也と私は完璧にツボが同じだった。苦手な科目の時になんとなく窓の外を眺め始めると、悠也もまったく同じタイミングで視線を上げていたり、テスト前に重要な箇所だと思って教科書にアンダーラインを引いていたはずなのに、どこが重要なのか自分でもさっぱりわからなくなっていると、悠也もまったく同じ箇所にアンダーラインを引いていたりとか。とにかく、すべてのタイミングが似ていて、そのことを私たちは互いに笑った。だからこそ、私たちは親友になった。恋人ではなく、親友。その関係は、約10年経って社会人になった今でも変わらない。

「溜め息とか大きな音でパワハラって騒ぐのも、ちょっと違うんだよな。人それぞれ不快に思うラインは違うだろうし、ほんとに難しいよ」

 ぶつぶつと真剣な声音で呟きながら、悠也は指先を舐めた。赤い舌先が薄い唇の隙間からちらっと覗いて、すぐ引っ込む。行儀が悪いなと思うけど口にはしない。もし、これが恋人だったら、ついつい尖った口調で指摘してしまって口喧嘩に発展してしまうかもしれない。だけど、悠也とはそれが無い。気楽な付き合いだった。
 悠也は、どちらかというとイケメンの部類だと思う。いつ会っても柔らかそうな黒髪を耳上ショートに切り揃えていて清潔感がある。薄い唇だけが他人に少し冷酷そうな印象を与えるけど、全体的に整った面差しをしていた。だけど、私は悠也に対して恋愛感情は抱いていない。手を繋ぎたいとかキスしたいとか、それ以上のことをしたいなんて微塵も思わない。私にとって悠也は、窓際に置かれている小さな観葉植物の鉢植えみたいなものだ。あれば嬉しいんだけど、無くても困らない。そんな感じ。

「ありがと。悠也に愚痴っただけでも気が楽になった」

「そっか。明日からも負けんなよー」

 愚痴は長引かず、悠也の乾いた口調で締め括られた。このカラッとした雰囲気がとても心地良い。これが女友達なら、お互いの愚痴をこれでもかとマウントしながら投げ合った挙げ句に収拾がつかなくなって、その収拾がつかなくなっている状況を改善しようともしないから、余計にストレスが溜まってしまう。
 学生時代から、女友達よりも男友達の方が多かった。マウントとか嫉妬とか嫌味とか、そんな複雑な心理を押しつけてくる女性と一緒に過ごすよりも、男性と過ごす方が圧倒的に楽なのは明白だ。けれど、そういう自分の割り切った性質が不利に働く場合があることも自覚していた。男友達が多いと、何故か女性に嫌われるのだ。男に媚びている、モテると勘違いしている、調子に乗っている……。とにかく、色々と文句を言われる。私に男友達が多いからといって、何故、無関係の女性たちが憤るのかずっと疑問だし、今もよくわからない。
 ただ、大学時代、男女混合の飲み会に参加した時に少しだけわかったことがある。女性たちは、会話から置き去りにされるのを嫌っているのだ。
 飲み会に参加していた男性の1人が、好きな少年漫画が休載になってしまって悲しいと嘆いていて、私も悠也の影響でその漫画がとても好きだったので彼に同意したら、男性陣と私とで話がとても盛り上がった。だけど、その場にいた女性陣は漫画の話題についていけず置き去りにされてしまっていた。そういう時は周囲に配慮しつつフォローが必要なのだと反省した。誰だって仲間外れは寂しいし、盛り上がる話題には参加したい。きっと、反感を買わないためには「女性を会話から置き去りにしないこと」が大切なのだろう。そもそも、会話についていけないのは、あなたの話題や知識が少ないからじゃない? とも思うのだが、それは口に出さない。
 悠也は傍らにあるビールグラスを手にして、中身が既に空になっていることに気が付いたようだ。軽く手を上げて店員を呼び、レモンサワーを注文している。悠也とはこうやって何度も居酒屋でサシ飲みをしているが、彼がだらしない酔い方をしたところを見たことが無い。何事においても自分の限界を把握しているのだと思う。

「俺も明日から本気出す。たぶん」

 気の抜けた口調で言い、へらっと笑う悠也の唇は赤く染まっている。その薄い唇だけが心地良く酔っていることを如実に表していて、私もつられて笑った。結局、悠也と会うのが一番楽しい。

「なあ、愛里。30歳になってお互いに恋人がいなかったら結婚しような」

「はいはい、わかったよ。約束ね」

 私と悠也との間には、何度もこんな会話が交わされた。安っぽくて子供っぽい約束だ。けれど、この約束は私を支えてくれていた。結婚願望なんてほとんど無いけど、悠也が口にする「結婚しよう」は、私に安心感を与えてくれた。将来は1人ではない、という安心感。もし、悠也が他の誰かと結婚したとしても構わない。悠也にとって、私は唯一の存在だ。もちろん、私にとっても。親友という不動の立場は私をこの上なく安心させた。
 悠也は恋人ではない。だけど、彼は私にとって大切な存在だ。恋人ができれば必ず報告したし、別れた時も報告してきた。安っぽくて子供っぽい約束を気軽にできる悠也との関係は、私にはとても大切。
 どんなに多様性が叫ばれる世の中になっても、友情よりも恋愛の方が重要視されがちだ。男と女が恋愛をして、結婚によって一生を添い遂げる。確かに、そんな関係も美しいかもしれない。だけど、友情という関係性だって、とても大事だ。パートナーと呼べる相手と喧嘩した時、逃げ込む先は友達ではないのか。家族や恋人には話せないことも、友達には話せる。そんなこともあるはずだ。
 私のグラスも空になっていたので、手を上げて店員にハイボールを注文する。自分の身体からふわりと柑橘系の爽やかな香りが漂うのを感じた。香水なんて興味が無かったけれど、誕生日に悠也がプレゼントしてくれたのをきっかけにつけるようになった。聞いたこともないブランドで明らかに安物なんだけど、悠也の気持ちが嬉しくて、気分を上げたい日にはつけている。最近は加納さんの溜め息とエンターキー強打が憂鬱すぎて、ほとんど毎日つけてしまっているけど。
 きっと、明日も私は加納さんの溜め息とエンターキーに悩まされる。だけど、悠也との約束があれば頑張れる。

男友達との約束:第2話

男友達との約束:第3話

男友達との約束:第4話

男友達との約束:第5話

男友達との約束:最終話


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