ネギ女 その1 ネギ女現る、の巻
あなたは「ネギ女」のことを知っていますか?
最近ネットで話題の、こわーい都市伝説のことです。
正直自分には、縁もゆかりもない話だと思いこんでいました。
でも、私はある日、出会っちゃったんです。
本当に手に一本のネギを持った、その「ネギ女」に 。
大貫敦子
右足のヒールのかかとが折れちゃってて、もう余計に心も折れてくる。
転んだ場所がちょうどゴミ捨て場の近くで、燃えるゴミの日は明日のはずなんだけど、夜のうちにもう出してる人が何人かいて、それがさっきから臭ってしょうがない。
この場から離れたくてたまらないんだけど、怖くて動けないのだ。
息を止めて、そっと顔を出し、路地裏の向こうに目を向ける。と、さっきの女の影が 正面のカベに街灯の光で影絵のように照らし出されてて、ヒッ、と声を上げそうになった。その影は、キョロキョロとあっちを見、こっちを見して、この私を探してる。
……待って。ヤバい。超怖い。
こういうときって、いったいどうすればいいんだろう、って、ずっとパニックになっててしばらくわからなかった。大声を上げて、周囲に助けを求める? それとも、スマホで警察に電話する?
でも、その二つとも、積極的にしたいとどうしても思えないのだ。
なぜなら、そうするためにちょっとでも声を出しただけで あの女はまた、あの大きなネギを振りかざして、私を襲ってくるような、そんな気がするからだ。
声だけじゃない。なんなら私の体の匂い、ほかにも何か私が発してる、よくわからないもの そんなものまでをも鋭くキャッチして、あの女はこの私を見つけだすんじゃないか、って思えるからだ。
きっとそうだ。だから少し生ゴミ臭くてもここで我慢して、このままジッとやりすごした方がいい。
さっきからずっと右膝が痛くって、見ると転んだときにガッツリすりむいてたらしく、ストッキングが破れて血がにじんじゃってた。痛みをこらえて、その場に立ち上がる。ゴミの入った「カラスいけいけ」の枠で体を支えて、背筋を伸ばして直立し、またじっと息を潜めた。
たとえばまだ季節は早いけど、セミの鳴き声だとか、それともまわりの家からテレビの音が漏れてくるとか、そういうのがちょっとでもあればいいんだけど さっきから周囲は凍りついたように静かだ。三軒茶屋も表通りはいつもにぎやかなんだけど、少し裏路地に入れば、すぐにもこんな風にひっそりとする。なぜかはわからないけど、あの女がどこかで耳をすませてるのがわかった。私がちょっと鼻をすすっただけでも きっとすぐに、その存在を察知するだろう。
そんな風に考えてると、ふいに目の前に、何かの気配がした。見ると足元で、二つのものがキラリと光ってる。
猫だ。
抜き足差し足で、ゆっくりと私の方に近づいてくる。
……待って。来ないで。
私猫は根っから大好きなんだけど、このときばかりはマジでかんべんして、って思った。
その小柄な黒ブチの猫は、さらに一歩二歩足を進めると、私を見上げて、
「ニャーッ」
って声を上げた。
「……そこかっっっ!!!」
怒号のような声が聞こえて、全身が凍りついた。女はすぐ背後の路地にいたようで、茶色いトイレで履くようなゴムのサンダルの、繰り返しアスファルトを蹴る音がこちらに向かってくる。
「……イヤッ!」
叫んで私はその場から全力で駆けた。それと女がすぐ横から姿を現したのが、同時になった。
「お前待てぇ!!」
残忍なその声と、何かが一瞬空気を切り裂く音が聞こえて、私の顔を鋭いものがかすめた。きっと女がネギを振り回したので、運よくかすめただけで済んだそれは、すぐそばの壁にバシッ、とかベチャッ、とかいった音を立てて当たった。きっとネギの緑色の部分が含んでる、水分みたいなもののせいだ。
と思ったら、今度は女はすぐさま壁に当たったネギを真垂直に振り下ろしてきた。それが私の背中の背骨をなぞる。
ゾッとして、痛む右膝にむち打って全力で走る。それでもすぐ背後の暗闇から、女のネギとそれを持ってない方の左手が伸びてきて、私の髪をひっつかんで後ろに引きずり倒されそうだ。
私はついに大声で、
「イヤアアアアアアアアッッッ!!!」
って叫んだ。
叫んだものの、特に誰かが近隣の家から顔を出してくれるわけでもない。私は生まれも育ちも根っから東京だけど、つくづく同胞は冷たい、と思った。さっきから車輪を激しく回転させるようにして走ってるんだけど、背後の女と一向に距離が離れてる気がしない。むしろ走れば走るほど、前に進むというよりその空回りで足元にズブズブとはまっていくような、そんな感じがして、いまにも女の手が私の肩をつかんできそうだ。
……絶体絶命だった。
二十五年間生きてきて、「絶体絶命」なんていう状態に自分がおちいるなんて、思ってもみなかった。だってついさっきまで、自分は渋谷の職場でいつもどおり働いて、いつもどおり仕事を終え、いつもどおりに帰宅してきただけなのだから。
それがいまじゃ、絶体絶命。生きた心地がしない。
「アキレスと亀」って話を聞いたことがある。いっくら俊足が自慢のアキレスでも、鈍重な亀は亀で一歩ずつ前に向かって進んでいるのだから、アキレスは永遠に亀に追いつくことはできない、っていう。
自分はいつしかその亀になっていたのか、無我夢中に走っていたら、知らない間にあの女の気配は背後から消えていた。
気づいたら、三宿の方まで来てしまっていたようだ。
「……助かった、のかも」
薄明るい街灯に照らされた住宅街の一角に立ち止まると、その場で息を整えた。でもまだ心臓がバクバクバクバクいっている。
必死に逃げている間、しきりに考えていたことがあった。
それがさっきから、気になって仕方がない。
女は、背後の暗闇から、私に向かって繰り返し、
「覚えてろ!」
と叫んでいたのだ。
「……覚えてろ?」
身に覚えがなさすぎて、違和感しかない。
いったい、どういうことだろうか。私があの女に、どこかで何かしたとでもいうのだろうか。
三軒茶屋の路上で、ネギを持った女に襲われなければならない理由など、私には何一つ思いつかなかった。
気を抜いたら、例の右膝が急にまた痛んできて、気づけば私は裸足だった。かかとの折れた方のハイヒールもろとも、どこかに脱ぎ捨ててきてしまったらしい。
力が抜けて、その場にへたりこんだ。生ぬるいアスファルトのゴツゴツした感触をお尻に感じる。路地には人っこ一人いない。
これからもう1度、歩いて自分の家に帰るなんて、ほとんど不可能ごとのようにさえ思えた。
◾️
その夜に痛めた右膝を見てもらいに、休日に病院に行った。
でも、「ただの打撲ですね」と言われて、湿布を処方されて終わった。
そりゃあ、確かにそうなのかもしれないけど。でも自分には、強い、強い不満が残る。
その、「ただの打撲」に至るまでの経緯が 何より重要だからに決まってる。
あんなひどい経験をして、「ただの打撲ですね」とかって結果に至った人間は、日本中探しまわっても、きっと私一人だけなんじゃないだろうか?
お医者さんというのは、そのケガに至った経緯なんていうのは、いちいち相手にしてらんないのはわかってる。彼らはただ、目の前の患者さんの悪い部分を治すためだけに存在しているからだ。
その「経緯」を専門に取り扱っている人々は、また別にちゃんといる。
警察だ。
でも私は、あの日の夜の被害届を出してはいなかった。
どうしても、そんなことをして何か意味があるだろうか、と思えてならないのだ。
これがたとえば、アパートの隣の住人の人とかだったら、迷わずそうするだろうけど。でも今回の件に関しては、妙にその現実っぽさを欠いていた。
いま思い返してみても、ただの悪い夢だったんじゃないかって、感じるのだ。
矛盾してるようだけど、こうやって一人で考えてると、本当にただの夢になってしまいそうで、それもそれで嫌だった。これを防ぐためには、警察に行く前に、誰か他の人に話をして、この事実を一緒に共有してしまうのがいいんじゃないだろうか。
腕時計で時間を確かめると、約束の時間を十分ほど過ぎていた。真美は普段から、そういうルーズなところがある。
午後二時を回ったコメダの店内は、その煩雑さが多少は落ち着いてきていた。二階の窓から、三軒茶屋の街並みが見える。
と気づいたら、ゴメンゴメン遅れて、って言って真美が向かいの席に座っていた。今日もあっついねー、なんて言って、ハンディファンで顔に終始風を送りながら、注文を取りにきた店員さんに、えーっと、アイスカフェラテ一つ、なんて言っている。
「……で ? なんだっけ、相談って」
私はひとしきり、店内を見渡した。べつにそうしたからって、なにか確固とした現実感が いますぐ取り戻せる、ってわけでもない。
でもさしあたって、これから「ネギ女」の話をするためには、ついそうせずにはいられなかったのだ。
「……ねえ(笑)。それさあ、ほんとに?」
ひとまず最後まで私の話を聞いたあとで、真美は疑い深げに苦笑いしながらそう聞いた。
「うん。本当」
話してるあいだ、私は繰り返し、湿布を貼ったシクシク痛む右膝をさすっていた。
「でもさあ……なんでその人、ネギなんて持ってんのよ」
「知らないよ、そんなの」
私は肩をすくめた。真美は半分からかわれてるのか、っていうような、そんな顔して首をかしげてる。
っていうか、そんなわざわざ友達呼び出して作り話を披露して、得意になるほどヒマなわけないじゃない。
「マジで、本当に怖かったんだから」
「で なに。最後にあんたに向かって、『覚えてろ』って、何度も繰り返し叫んでた、ってこと?」
「……そう」
コワッ、って真美は、一言つぶやくように言った。そのいかにも他人事、って感じがなんだかイラっとするし、余計に不安をかきたてる。
「ねえ、いったいどうしたらいいと思う?」
真美は一計を案じたかのように、両手をポン、と叩き合わせると、手元のスマホを取り上げた。
「つーか敦子もニブいねえ。わたしたちZ世代の秘密兵器があるじゃない」
「なにそれ」
「三軒茶屋、ネギ女、とかって検索してみれば 何かそこから出てくるかもしれないじゃん? もうやってみた?」
「……まだだけど」
さっそく真美は、Xのアプリを開くと調べ始めた。上下に繰り返しスクロールする、その両目をじっと上目で見つめていると、
「ほーら、やっぱり」
と言いながら、私にその画面を見せた。いくらか興奮してもいるようだ。
見ると確かに、「ネギ女」のハッシュタグがついた、無数のツイートが飛び交わされていた。私も慌てて、自身のアカウントで確認してみる。
ていうか、もちろん自分でも、やってみようかな、と思わないでもなかったけど 正直こんなの、怖くて一人じゃとてもできなかったのだ。
「え。待ってなにこれ。どんどん出てくるよ。最近三軒茶屋で有名な都市伝説、だって」
……都市伝説。
「……そのネギ女は、ナニワのおばちゃん風の格好をしており、色黒で額が広く、ときにその額で強烈な頭突きを遭遇したものに食らわしてくる、だって。ねえ、あんた頭突きされたの?」
「……頭突きはされてないけど」
「(笑)ていうかナニワのおばちゃん風、ってなに。アメちゃんでもくれそうってこと?」
吹き出しながら、それらのツイートをテーブルに頬杖して楽しそうに眺めてる真美を見ていると、なんだかだんだんイライラしてくる。
確かに、都市伝説、って最近(でもないのかな)よく聞く言葉で、「ネギ女」なんて話は、その枠の中にすっぽりとはめ込むのには、まさにうってつけなんだろうけど。
でもそれでは、私はとうてい納得がいかないのだ。
都市伝説、という語感からは、現実にはありえないもの、存在しないもの、かつて存在したのかもしれないけど、すでにはるか昔の過去になったもの そんな印象を受ける。
でも、私が体験したのは、そんなものではなかったのだ。
まさに、目の前にありありと現れ出た、そういうたぐいのものだった。
だいたい、仮にあのネギ女が都市伝説なんだとしても、よりによってなんでこの私が、そんなものに巻き込まれねばならないのだろうか。
……とつおいつ、そんなことを考えてると、真美がねえ、って突然高い声を上げて目を丸くした。
「これ見て」
差し出してきたスマホの画面に、目を凝らす。するとそこには、
「ブスでデブだから、きっと男に縁のないことへの腹いせだ」
というツイートがあった。
「……てか、これだけじゃないよ。似たようなのがたっくさんある」
ねえ、そいつってどれくらいブスだったの、って真美が、画面をスクロールさせながら聞いてきた。なにも答えないで、ただ黙って横を向いてる私の顔を、今度はうかがうようにじっと見てる。
…… ブスでデブだから、きっと男に縁のないことへの腹いせだ。
なんか急に胸がドキドキしてきて、息が詰まりそうになった。そして芋づる式に、淳とのあれこれを思い出してしまう。
やめようと思っても、やめられない。
……ブスでデブだから、きっと男に縁のないことへの腹いせだ。
するとそのうち反対に、今度は恐ろしく強い不快感に、私はとらわれだした。
「ねえ、思うんだけど、このことって私に言うよりさあ、その例の、あんたの彼氏に相談した方がいいんじゃないの?」
氷が溶けてしまって、水のうわ澄みばかりになってしまった自分のマンゴージュースに口をつけた。でも、おいしくもなんともない。
「……」
「いま現在、本当にあんたのことを想ってるんだとしたらさ。困ってるあんたの力になってくれなきゃウソじゃない。彼氏なんだったらさ」
……もうやめて。マジで虚しい気分になってくる。
まさか、あの淳が、目下の自分の力になってくれるとは、とうてい思えない。
私はその可能性を、きれいさっぱりと切り捨てた。
「……ねえ」
「なに」
真美がさっきから、いじわるな顔をしてみせている。
「あのネギ女、私に『覚えてろ』って何べんも叫んでたんだよ。てことはさ、また出くわすことになるかもしれないじゃない。そうしたら私、いったいどうすればいいんだろう」
真美のフッた、その淳の話をガン無視した、ってことは、私と淳の関係はいまや絶望的、ってことを、無言のうちに認めることにもなりそうだったけど それはもうしょうがない。
「うーん……あ、ていうかさ、そのネギ女とあんたの彼氏って、何か関係はないの? それこそ昔、何かあっただとか……」
イヤなところを突かれて、私はとたんにうつむいた。
その可能性も、当然ザッとは考えたのだ。
「……ない、とは思うんだ。だって私、その人の顔初めて見たんだもん」
正直、歯切れの悪くなってる自分を感じる。
だって私が知らないだけで、向こうはこっちを知ってる、ってことは、十分ありえるからだ。
真美は腕組みして、しばらく考え込んでいた。それから、自分がもう少し、あんたと家が近ければね、とひとりごちる。
「それはしょうがないよ」
「だったら……やっぱりあんたも、何かで武装するしかないんじゃないの」
「……はあ??」
いたって真顔で、平然と真美の口にしたその言葉が、あまりに唐突、と言うか意外だったので、私はしばらく耳を疑っていた。
でも向こうは、いぜん真剣なのだ。
「ちょっ。待っ。武装、ってどういうこと?」
「あんたの一方的に大好きな彼氏に助けを求めることもできない。だからって、いまの時点で警察に通報しても、絶対相手になんてしてもらえないでしょ。だったらどうするの」
「……」
「自分の身は、自分で守るしかないじゃない。ねえ敦子、あんた歳いくつなの?」
「……二十四ですけど」
「もう立派な大人じゃない。で次、もしまた出会ったら、今度はその場ですぐに警察に電話するんだよ……わかった?」
私がしばし呆然としていると、真美のスマホにラインが着信した。それを取り上げて、一目見る。と、急にソワソワし始めた。
「……あ。てかゴメン、これから私、渋谷行かなきゃなんだ」
「渋谷? どうして」
「彼氏と待ち合わせ」
「カッ 」
「今年の夏休みにさ、ディズニーシー行くんだ。その打ち合わせ? 二人で行くの初めてだしさ、もう超楽しみで!」
その話を聞いた途端、お腹の下の方に、どーんと何か黒々としたものが溜まっていくのがわかった。
ディズニーシーディズニーシーディズニーシーディズニーシーディズニーシーディズニーシー、と心の中で般若心経のように繰り返してお地蔵さんみたいになってる私を置いて、真美は伝票を取り上げると、じゃあね、なんかあったらすぐ電話しな、って言って、そそくさと席を立っていった。
◾️
職場で仕事をしていても、まったくの上の空だった。
電話に出ていても、パソコンに向かっていても、あのネギ女のことばかりが、頭に浮かんでくる。
……特に、強い根拠があるわけでもない。
でも直感で、いつかまた自分は、必ずあの女に襲われるだろう、っていう、そんな確信があるのだった。
でも、なぜだろう。なぜ、そうまで強く思えるのだろう?
この直感は、決して目を背けられないたぐいのものとして、私の目の前にぬりかべみたいにずっと立ちふさがっているのだ。
こうなると自然、だったらなんとかして、その遭遇することを避けられないか、という、そんな発想になってきた。
で、いつもの決まった帰り道を変えてみようか、と考えた。
でも、これはきっと意味がない。
なぜなら、どうしたって、自分はあの部屋に帰りつかなければならないからだ。たて込んだ路地の一角にある私の部屋は、もともとあった縫製工場かなにかを作り直したという新築マンションで、下町っぽい雰囲気のあるあのあたりは、行き方をどう変えたところで、その狭くて暗い路地を通っていかない限り、決してたどりつけないのだ。
そのことは、部屋探しの時点でも、不動産屋さんから前もって言われていた。でもそれだけを理由に、あの好物件の部屋をあきらめる、という手もなかったのだ。
じゃあ、いったいどうすればいいのか。
……淳。
「……」
私は目を伏せてまた考えこむと、身を入れずにもう一度、目の前のパソコンの画面に向き直った。
その日の仕事の帰り、田園都市線に揺られながら、私は思い切って、スマホのラインのアプリを開いた。
震える指で、淳の名前をタップする。
そして、一か月ほど前から途切れたままの状態のメッセージのやり取りに、目をやった。
……ていうか、本当は見たくない。
でも、見なきゃならない。
「死ねよお前なんか」
そんな、淳の一言で終わっていた。
その、最後のメッセージに対して、
「助けて」
って試しに入力してみた。
目の前の窓に映る、つり革を持った自分と目があった。私のまわりの帰宅する人々も、みな一様に一人残らず、疲れ切った顔で一心にスマホを眺めている。
自分の入力した、その「助けて」という言葉を、今度はジーッと見つめ直してみた。
そしてやがて、自分の中にじんわりと浮かび上がってくるだろう感情は いったいどんなものになるのか、観察してみた。
すると、そこに現れたのは、やっぱり予想したとおり、なんらかの淳に対する、「反抗心」のようなものなのだった。
「……」
そりゃあ、確かに、自分は彼と付き合う中で、少々人の道に外れたことをしてしまったのかもしれない。
そのおかげで、私と淳との関係は、ここまで修復不可能になってしまったのかもしれない。
でも、だからって、これほど人を無下に扱ってもいいものなのだろうか?
いくらラインのメッセージとはいえ 元恋人に対して「死ね」なんて口にしてもいいものなのだろうか。
そんな淳に、いま無力にもこちらから助けを求めるのは、まさに自分の非を非として全面的に認めることになるのに決まっていた。
……それは、やっぱり、自分は嫌なのだ。
「これは違う。だめだ」
私はラインのアプリを閉じると、スマホをカバンの中に押し込んで、両手で吊り革を握りしめて目を閉じた。
電車を降り、ホームの階段を上がってゆくと、見慣れた夜の三軒茶屋の町が見えてきた。
地上に出て見上げると、雨は降ってないけど、空はどんよりとして蒸し暑く 梅雨明けももうすぐだと言われてる 前回あの女に襲われた日と、フンイキがとても似てるな、ってすぐに思う。
すると急に、足が二本の棒切れのようになって動かなくなった。
週末の茶沢通りは人並みがすごくって、そんな風に道の真ん中に突っ立ってる自分を、どんどん前から後ろから、人が追い越してゆく。
……困った。
いったいどうすれば?
そのとき私は、先日コメダで真美に言われたことを思い出していた。
「自分の身は……自分で守るしかない、のか……」
アゴのあたりを、爪先でぽりぽりと掻きながら、私はその場でしばらく考えていた。
ふと正面を見ると、SEIYU、と書かれた看板が目に入った。普段から毎日のように利用する、このあたりでは一番大きい総合スーパーだ。
私はカバンを肩に掛け直すと、そのスーパーへと足を向けた。
地下の生鮮食品売り場へと続く、エスカレーターを降りていった。
普段から料理をするのが好きな自分は、外食はほとんどせず、家で自炊をすることが多い。
今日も、もちろんそのつもりだった。
なんとなく、麺類が食べたいかな、って思っていた。
麺類なら、パスタ。パスタなら、得意なミートソースがいい。ミートソースなら、ひき肉が必要だろう。
私はまず、お肉コーナーに行くと、牛ひき肉を買い物カゴの中に入れた。
それから、お魚コーナーは飛ばして、グロッサリーコーナーへと足を向ける。
一角に、輸入物のトマト缶が山積みに陳列されてあった。
その中から、ダイスカットの方を一個手に取ると、それもカゴの中に放り込んだ。
……あっと。そういえば、家にニンニクってまだあったっけ?
ニンニクとかしょうが、ミョウガや小口ネギなどの「薬味系」野菜って、家に残りがあったか、いつも迷うことない?
でもミートソースを作るのにニンニクがないのも困るので、次はお野菜コーナーへと足を向けた。
スペイン産のニンニクが安かった。名前はよく知らないけど有名? なシェフの写真がラベルについてるやつ。それのなるべく大ぶりなものを選んで手に取る。
「……」
このとき、私の頭はごく自然に、「武器」としてのニンニク、を眺めていた。
たとえば、大ぶりのニンニクって、ぐっと握りこんでみると、まるで石のように硬い。
これを、あいつに向かって投げつけてやれば。
あっ。ていうかそういえば、ドラキュラ、って「ニンニク」が嫌いなんじゃなかったっけ。
でもあいつはきっと、ドラキュラじゃないんだろうし。
いや、ドラキュラなのかもしれないけど、少なくとも私の血を吸おうとはしてこなかった。
でも、ソコの見当をがっつり外してても、なんかマヌケだしな。
次に視線を横に向けてみると、中国産のネットに鈴なり(っていうのかな)に詰め込まれたニンニクが目に入った。
……これをブン回して、あいつの顔面に叩きつけてやる。
でもなんか、あんまりスマートじゃない、って気がした。私こう見えてけっこう、そういう見た目っていうか、その手のところにこだわるので。
そんな風に、お野菜コーナーを物色しながら、ウロウロ歩いた。そういえば、淳ってすごく映画を観るのが好きで、これまでも一緒にいろんなのを観たけど、特にクエンティン・タランティーノ監督の作品にぞっこんだった。
中でも「パルプ・フィクション」が傑作なんだ、っていつも私に熱く語ってた。
なんか暴力的なシーンが目白押しで息つくヒマもなく、観ててツラくてあんまり自分は好きにはなれなかったけど、ある後半のシーンで、ブルース・ウィリス演じる人物が、必要に迫られてとある店に入り、そこでいくつかの「武器」の中から一つを選ぶ、ってところがあった。
私はふと、そのことを思い出して、いま自分のしていることを思った。
葉物野菜のコーナーをザッと見たけど、あんまりアテにできない気がして、ほとんど素通りした。というのも、なんていうのか、葉っぱってペラペラしてるし、それでバサッ、とかって叩いても、あんまり効果なさそう、っていうか。
例えばチンゲンサイとか、両手で二つ、根っこの丸いとこ持って構えてるだけで、鼻でフッ、って笑われそう、っていうか。
それから根菜ものに移った。このへんから、少し頼りがいが出てくる。まあ、当然固そうだし。てことは、相手により強いダメージを与えられる、ということだ。
……あとは、見た目だ。
ニンジンやじゃがいも、タマネギなどを見てるとなんかお腹空いてきて、カレーもいいかな、とかって余計なことを考え出してしまう。
そのとき、視界に何か黒々としたものが入った。見るとたて長のビニールに入った、宮崎県産のゴボウだ。
「……」
山のように積まれた、その中の一本を手に取った。
黒々とした土が付いてて、野菜の出す水分と混じって中で泥みたいになってる。私はそれの端っこを利き手で握って、ズッ、と前に向かって差し出してみた。
なんとなく、「武器」っぽい感じがした。
この土がほどよく付いてる感じも、なんかワイルドなおもむきがしてよい。根っこの先の方へと向かってだんだん細くなっていってる感じも、「剣」とか「鞭」っぽいっていうか。
「……これに、しようかな」
私はなぜか少し後ろめたいような、そんな気持ちになりつつ周囲を見回すと、そっとそのゴボウを買い物カゴの中に入れた。
レジで会計を終えると、ビニール袋の中からゴボウだけ取り出して、黒革トートの中に差し込んだ。
「これでよし、と」
西友の前は、いまだ無数の人々が行き交っていた。私は茶沢通りを北に向かって進んでいった。
ちょうど夕飯時で、商店街に居並ぶ飲食店は、どこもごった返してる。肩がけしたトートにゴボウを差し、左手に買い物袋を提げた私は、その華やかな雰囲気とは裏腹に、さっきから奇妙な緊張感に包まれていた。
ものすごく、イヤな感じがした。うまく言えない。
とにかく家のある方角に、これ以上一歩も足を進めたくないのだ。
でも、行かないワケにもいかない。公園で雑魚寝なんかしてたら、それこそ警察に声をかけられる。
野郎ラーメンの前を過ぎ、サードバーガーの前を過ぎて、福のからの前を通り過ぎると、右手に斜めに伸びる脇道が見えてくる。
横断歩道を渡ってそこを入り、交差する緑道を越えると、表の繁華街の様子は一変し、ひっそりとした、まるで網目のように細かく暗い路地が絡み合う、そんなエリアになる。
私は自然、そのあたりから早足になっていた。強い緊張から、強烈な胸の動悸が襲ってくる。
早くこの場所を過ぎ去って、家にたどり着きたい。どっとソファに腰を下ろして、一息つきたい。
確か冷蔵庫の中に「ほろよい」のもも味があったので、それも飲んじゃいたい。
でも不思議なことに、歩けば歩くほど、自分は前に進んでいるのではなく、後ろに進んでいるんじゃないか、って、そんな気がしてくるのだ。全然家との距離が縮まっている感じがしない。むしろどんどん離れていっている、そんな気すらする。
どんよりと曇っていた空は、いまや漆黒の闇に変わっていた。その墨汁みたいな上澄みが、いまにも頭の上にポタポタと垂れてきそうだ。かぼそい街灯の光は、ヌメヌメと爬虫類的緑色に、行く手のアスファルトを怪しく照らし出している。
前回と、まったく同じだ。物音一つしない。
東京って、こんなに静かなところだったっけ、って思う。生粋の東京生まれ東京育ちのこの私でも、妙にリアルにそう気付かされた。
そのとき、まるで金縛りにあったように体が動かなくなった。
いや、体は必死に前に向かって動かしてるんだけど、背後に感じる何かの気配に、私のすべてを掌握されてる、そんな気がするのだ。
だから、後ろを振り返って確認するのにもひどく時間がかかった。油の足りてない、古い工作機械みたいにグギギギギ、って音を出して体を向けてる、そんな感じ。
見るとそこに、あの大柄な女が立っていた。
手には前回と同じく、長くて太いネギを持っている。背後から逆光で街灯に照らされてるので、その表情は見えない。
ただ、その黒光りする、妙に出っ張った大きな額だけが、少し角度をつけてうつむいた状態で見えていた。
花柄の前掛けをつけ、例の茶色のゴム草履を履き、なんていうのか、お侍さんが鞘から抜刀し、それを投げ捨てた、みたいな姿勢で両手をハの字に広げてる。
その表情が確認できない、って思った瞬間、横長で異様に細い両目が、ギラリと光ってこっちを見ていたことに気づき、私はギョッとした。
ネギ女は、ニヤニヤと笑っていた。
「キエエエエエエエエエエエエエエッッッッ!!!!!!」
女はそう奇声を発すると、ネギを振り回して私に向かって突進してきた。
真美が言ってたように、これからカバンの中のスマホをのこのこ取り出して、110番するなんてまったく冗談じゃない。そんなヒマなんてありゃしない。
目の前の女は、その緑色の葉の部分からトロトロとした水分をしたたらせたネギを振りかざして、私との距離を光の速さぐらいのスピードで、詰めようとしていた。
私は無意識に、肩のトートに差しておいたゴボウを引き抜いて、そのビニールごと握りしめていた。
それを両手で構え、右足を前に出し、少し腰を落とした。
と、ネギ女は突進する動きを急に止め、これ以上はムリ、ってほどに目を大きく見開いた。地球にある海の水が、いま全部一瞬にして干上がってしまった、そんな顔をして驚いている。
私はゴボウを構えたまま、ネギ女と目を合わせ続けた。まんじりともせず間合いを取り続け、もう五時間くらいそうしてる、そんな気がする。
その空気に耐えられず、
「……ねえ。あなたいったい何者? 私に何の用?」
って聞いてみた。
ネギ女は、何も答えなかった。ただ、ほんのすぐそばで、夏の虫の鳴く声が、かぼそく聞こえた、そんな気がした。
でも、季節的にはまだ、少し早いように思う。
眉をひそめてると、また聞こえた。でもそれは、夏の虫の声じゃなかったのだ。
「なんで……」
ようやくそのとき、目の前のネギ女が話しているんだ、ってことに気がついた。
「えっ?」
「な、なんで……」
「……」
「なんであんたも、ゴボウ持ってんのよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!」
つんざくような声で、ネギ女はそう叫び声をあげた。
ホントに、その声のおかげで爆風がこちらに向かって吹いてきたかと思ったほどだ。マンガみたいに、語尾のよおおおおおおっっっっ!!!! が、コンクリートのブロックになって私の全身を強打したようだ。
私はその場で微動だにできなかった。
と、ネギ女はクルッとこちらに背を向けると、一心不乱に走り去っていった。私は握りしめていたゴボウを下ろした。それまでの緊張からか、その右手を開こうとしても体が言うことを聞かず、ただ震えているばかりだった。
◾️
オフィスビルの中にあるカフェテラスの窓からは、渋谷の街並みが見渡せる。
いつも座るお気に入りの席で、ほどよく空調の効いた中、ぼんやりスマホを眺めてると、ついウトウトとしてしまう。
ヨダレを垂らしてガチで寝ちゃわないよう、いつも気をつけてなきゃいけないほどだ。
……でも、今日ばかりはちょっと違った。
昨日の夜の、ゴボウを握りしめてた右手の感触が、いまだ強く残ってるのだ。
私はあのネギ女のことを、ただひたすら考え続けていた。
ポイントは、いくつかある。でも、中でも一番気になっていることがある。
それはつまり、こういうことだ。
ネギ女は、あのとき私に向かって、
「なんであんたも、ゴボウ持ってんのよ」
そう叫んでいた。
……なんであんた、も。
確かに、あいつはそう言っていたのだ。
「……」
仮に、あの日あの瞬間だけのことだったとしよう。
それでも、あのとき私は、あのネギ女と同類になっていたということを、そのも、は意味しないだろうか。
そのことに、はたと思い至ったとたん、私の背筋に何か薄ら寒いものが走った。
……何かがマズい。そんな気がした。
動揺した私は意味もなく、テラスの中を見回した。ここはビルの中に入ってるいくつかの会社の人、すべてが利用する空間なので、見も知らない別フロアの、カタカナの名前だけでは何をやってる会社なんだかさっぱりわからない、そんな企業の人々もたくさんやってくる。
正直、ハケン一年目の私には、どこか肩身が狭いっていうか。場違いなところにいるな、って思うこともしばしばだ。
視線の先に、三つ揃いのネイビースーツでバシバシに決めた背の高い男性と、タイトなベージュのレーススカートにブラウンの半袖ニットを着て、明るめのロングヘアをいい感じにアレンジした可愛い女性が、タリーズのカフェラテを飲みながら、笑顔で立ったまま話し込んでいた。男性の髪型は、つい五分くらい前に刈り上げたばかり、って感じのツーブロックヘアーで、葛飾北斎の波の絵みたいに静止画的に、一分のスキもなくセットされてる。風が吹こうが槍が降ろうが、一ミリたりともそのセットが乱れることはないだろう。着てるスーツもパツパツ過ぎて、前に淳と観たアベンジャーズに出てくる誰それの服みたい。
なんの話をしてるか知らないけど、でもとにかく楽しそうだ。
……少なくとも、令和の三軒茶屋の都市伝説の話ではないだろうと思う。
そして少なくとも、彼らはネギをふりかざした謎の女に、夜の街中で繰り返し追いかけ回されたりはしていないだろう。
私がいま、あの二人の元に駆け寄っていき、この話をしたら、いったいどうなるだろうか。
……昨晩、私はそいつに土のついたゴボウでもって応戦したんですけど、それってどう思います?
彼らは 何か非常な憐れみをもった表情で、この私をじっと眺め見るだろうか。
いけない、と私は、この思考の悪無限ループを強制終了した。頭のOSを、再起動する。
再起動するけど、でも脳内のデスクトップ上にはいぜんとして、「ネギ女」と書かれたファイルが厳然と存在しているのだ。
私は手元のスマホを取り上げると、ツイッターのアプリを開いた。そして直近のネギ女の話題はどうなっているか、確認することにした。
検索を始めて、すぐにも気がついたことがあった。
……ネギ女、の「ネ」の字もない。
いっくら調べても、あたかも海の潮がスーッと綺麗に引いてしまったように、何も出てこないのだ。
「いなく、なってる」
前に真美と一緒に読んだ過去ツイートも、見事に消え去ってしまっている。まるでそんな事実はそもそも存在しなかった、とでもいうように。
……ちょっと待って。
私は半ばテーブルの上に落とすように、スマホから手を離すと呆然とした。
これって要するに、私があのネギ女を撃退した、ってことに、なるんだろうか?
都市伝説である、あの女を?
でも、本当にそうだろうか。
昨晩、あのネギ女と対峙したとき、私は何をもっていたか。
ゴボウ、だ。
てことは あの夜、あの瞬間だけのことだったとしても、自分は自分で進んで「ゴボウ女」になっていた、ということを、それは意味する。
「……私が、ゴボウ女?」
もう一度、楽しげに会話している視線の先の男女を見た。それから慌ててもう一度、スマホを取り上げた。今度は写真のアプリを開いて、淳、と名付けられたアルバムを開く。
綺麗に淳の写真で埋め尽くされてるその画面を、どんどんスクロールさせていった。スクロールしてもスクロールしても、終わりが来ない。この、感覚だ。この感覚がないと、私は死んでしまう。
水の中に沈んでる何かにくくりついた縄を、ずっと手繰り寄せてる、そんな感じだ。でも、そのさきっちょについてるだろう何かを見たい、とは、決して思っていないのだ。
その「手ごたえ」だけを、感じていたい。
いちいち数えたことはないけど、たぶん五、六千枚は優に超えてるだろう。こうやってスクロールしててもし終わりがくる、ということは、つまり「淳の終わり」がくる、ということを意味する。
それに私は耐えられない。こうやって無限にスクロールできる、ってことは、無限に淳を、私は包括的に手に入れている、っていうことを、意味するのだ。
そんなこんなで、いつしかこの枚数になってしまった。時折スクロールを止め、淳の整った横顔を眺め見る。でもこの頃になると、だんだん淳の表情に、ある種の「不安」のようなものが浮かんできているのがわかった。
でも、私はおかまいなしに撮り続けてしまった。
写真のアプリを閉じると、今度はラインを開いた。そこには、先日入力してそのままになっていた、「助けて」という文字があった。
「……あいつはネギ女。私は、ゴボウ女」
繰り返し、心の中でそう呟きながら、スマホを強く握りしめた。
「このままあいつがいなくなっちゃったら 私はずっと、ゴボウ女のままだ」
「助けて」、というラインのその文字を、私は一文字ずつ削除していった。
◾️
下北沢からめっきり足が遠のいてしまって、しばらくたつ。
駅前の再開発も一区切りがついて、以前にも増して人の数が多くなった、そんな気がする。
三軒茶屋にユニクロができるまでは、実はコソコソ自転車で、下北のそれに買い物に行っていた。偶然淳と出くわさないかと、内心ヒヤヒヤしながら。
淳の住む部屋は、駅から北の方角に十分ほど歩いた場所にあった。一番街を入って坂を上り、角を一つ折れると、コンクリート打ちっ放しのデザイナーズマンションがある。
二階の淳の部屋には、まだ電気がついていなかった。
宅建の資格を持っていて、不動産関連の会社に勤めている淳は、残業も日課になっている。たぶん今日もその通りで、でもそろそろ帰宅する時間だろうと思う。
私は、近くの電柱の陰に隠れて彼を待った。
夜空には、煌々と白い月が輝いていた。あの月の浮かぶ宇宙空間は、きっと想像できないくらい寒いんだろうけど、その月を眺めてるここ東京世田谷区は、超がつくほど蒸し暑い。街全体から始終放出されるクーラーの室外機の熱が、まるで体にからみついてくるようだ。
こうやって、じっと淳の部屋の建物を眺めてるだけで、これまでの彼とのさまざまな思い出が、次から次へと脳裏によみがえってきていた。
映画やドラマが好きな淳は、あるとき自分も書いてみたい、とふと思いたち、半分趣味みたいな感じでいまもシナリオを書いている。
青山にあるシナリオ教室の生徒でもあって、そこで授業の一環で、超短編シナリオみたいなものをいくつも書いていた。
それを、淳の部屋で朗読してもらってよく聞いた。
なんだかよくわからない、不思議で難解なものもあれば、ときおりハッとするくらい面白いものもあった。素直にそう褒めると、彼は照れ臭そうに、でも嬉しそうに笑った。
……そんな淳に、あのネギ女の話をしたら、なんていうだろうか。
そのとき背後に、人の気配を感じた。
振り返ると、首元のネクタイをゆるめ、仕事の疲れを通り越して、呆れと多少の怯えのまぜこぜになったような、そんな表情の淳が立っていた。
彼はローソンの袋を右手に提げていた。それで自分の読みは外れたのだ、と思った。仕事帰りに、一番街にあるローソンに寄って来なければ、道順的に私の正面から、彼はやってくるはずだったのだ。
「お前、そこで何やってんの 」
彼はそう言って、道端に落ちてるなんだかよくわからない汚らしいものを見るように、私を見つめていた。
「……なんだよ。またストーカー行為かよお前」
彼の声は、ほんのわずか震えていた。
「……お別れを、言いにきたの」
確かに、私はそう口にしたつもりだった。でもその言葉は、妙によそよそしく響いた。
例えば舞台の俳優さんが、台本の内容をまったく理解せず、でも気持ちだけは過剰に込めて発した、そんなセリフの一行のような。
淳は、少しあっけにとられていた。目を見開いている。
「何かあったのか」
「えっ?」
急に私はネギ女のことを、淳に話したくてたまらなくなった。
今なら、聞いてくれるかもしれない。そして、心配してくれるかもしれない。そして、もう一度昔みたいに、優しい言葉をかけてくれるかもしれない。
「あの、実は 」
「でも、無理だろお別れなんて。お前なんかにはさ」
強烈に私の全身を、その言葉が刺し貫いた。
彼はズボンのポケットから家の鍵を取り出すと、そのギザギザを眺めるようにしてる。
もう一刻も早く家に帰りたいから消えてくれ。そんな感じだった。
「……やってみろよ。やれるもんならさ。じゃあな」
これ以上ないくらい冷たい、雪男みたいな表情で言うと、マンションの中に続く門を音を立てて開けた。
私はその背中に向かって、
「今までありがとう! さようなら!」
そう叫んだ。淳は一瞬、ピクリと体を震わせるようにしたが、そのままふり返らずに家の中に入っていった。私は彼に背を向けると、全力で走り出した。
「このままじゃダメだこのままじゃダメだこのままじゃダメだこのままじゃダメだこのままじゃダメだ」
途中何度も転びそうになりながらも、夜の下北沢の街を駆け抜けた。すれ違う人たちが、何人も私の方を振り返ってる。
「じゃないと私は 本当にゴボウ女になる」
途中走ったり歩いたり立ち止まったりを繰り返しながら、ようやく三軒茶屋までたどり着いた。
ありとあらゆるたぐいの疲れで、私は千鳥足のようにフラフラと、家までの暗い路地を歩いていた。
肩にかけたトートには、さっき通りがかりのスーパーで買っておいた、群馬県産のゴボウを包装のビニールを剥いて入れてある。
なぜだかは、わからない。でももはや、自分はこの道を歩くときは、ゴボウを持っていないと気持ちがとうてい落ちつかないのだ。
それに、このゴボウを持っていれば、あのネギ女はきっとまた姿を現すだろう。そんな気がした。
……あいつを、探しださなきゃならない。
自分の出身校の小学校の前を過ぎ、ゆるい坂を下って、さらに細い路地に足を踏み入れた、そのときだった。
背後に、何かの気配を感じた。
ていうか近頃、背後に何かの気配を感じすぎていて、そのビリビリとした感度はもう大変なことになっている。でもこのときのは、これまでのとはちょっと違った。
なんていうのか、「格」が違う、とでもいうのか、「ケタ」が違う、とでもいうのか とにかくその鋭い気配は、ほとんど「殺気」とでもいうべきものに近かった。
お鍋なんかにこびりついた汚れを落とす金ダワシで、素肌の背中をおもいっきり擦られた、そんな感覚。
耐えられずに振り返ると、五メートルくらい先に、一人の女が立っていた。
「……きたっ」
私は小声でそう叫ぶと、ゴボウを引き抜き、カバンを足元に放り投げて構えた。
と、すぐに異変を感じた。
目の前の女の身長が、異常に高いのだ。
「えっ?」
あのネギ女は、どちらかといえば横に鈍重に広い、そんなタイプだった。でも目の前の女は、思わず見上げてしまうほどに背が高い。
私はそいつの作り出す影の中に、すっぽりと入ってしまっていた。
フランケンシュタインもかくや、と言わんばかりだ。
「なんなの……」
私はただ呆然と、目を見開いて息を飲んだ。
ふと気づいて、そいつの手元に目をやった。と、さらに驚いた。
女は右手で、バットほどもあろうかという大きさの長芋を持っていたのだ。
絶叫をあげようとしたその瞬間、地響きのような低いうなり声をあげて、女はこっちに向かって突進してきた。
その服装は、はっきりいって「トイレの花子さん」以外の何ものでもない。
ただ、その白いシャツと赤のスカートの上に、この暑いのに首元のVにラインの入った白のニットベストを着ている。
髪は長くもない毛を左右の三つ編みにしていて、ふざけているにもほどがある。そのうえ、その肉体がすみからすみまで筋骨隆々なので、服から何からすべてがはちきれんばかりに小さくてパツパツなのだ。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!」
とも、
「ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!」
ともつかない、そのうなり声を聞いただけで、私の体は凍りついたようになり動かなくなった。その巨大さからは想像もつかないような俊敏さで、女は私との距離を一瞬にして詰めると、横一文字に手にした長芋を私の顔めがけて振り回してきた。
ある何かを運動させた結果、それにともなった音が聞こえる、というのが、きっと物理的には順番なんだろうけど、私には女の振り回した長芋はむしろストップモーションのように見え、それより前に、その「ブン!!」という音が聞こえたような、そんな気がした。
寒気がするようなその音で目が覚めた私は、無意識にもめいっぱい、いわゆるウ◯コ座りをしてその攻撃をかわしていた。振り回されたその長芋が、自分の背後にあった電柱に炸裂し、ドッバーン!!! という音を上げて砕け散った。長芋のそのネバついた汁が、私の首元まで飛び散ってくる。
「……なんなの、なんなの、なんなの、なんなの、なんなの、なんなの、なんなの、なんなの、なんなの、なんなの」
呪文のようにつぶやきながら、私はおばあちゃんみたいに腰が砕けたせいでとっさに立ち上がれず、四つん這いに這ってその場から逃れようとした。と、今度は女は「面」のような形で、真垂直にその長芋を振り下ろしてくる。
私はこれまたとっさに、今度は前方にでんぐり返りをした。子供の頃、ずっと器械体操を習っていたせいか、その動きは完全なアドリブだ。一回転したのもつかの間、女は二度三度と振り下ろしてくるので、そのたびに私は転がった。
そうやって、必死に長芋女から逃げ回っているうち、だんだんと私は腹が立ってきていた。
急に自分の内部に、何かギラリと光る鋭い刃物のような、そんな残忍さが匂い立ってきた。
私の女に負けない俊敏な身のこなしに、長芋女も少してこずりはじめているようだ。軽い息切れのようなものも聞こえている。
その瞬間、私は「好機」だと感じた。
私は履いていたパンプスを、両足とももぎ取るように脱いで道端に叩きつけると、ストッキングを履いた両足で道路に仁王立ちになった。そしてヒョウ! という音を上げて持っていたゴボウを一度振り下ろすと、脇をしめ、腰を落として構えた。
意識を全集中して、女を睨みつける。その気迫に、長芋女も一瞬ひるんだ。
自分の内部に、何か奇妙で邪悪な力がみなぎっているのがわかった。
……まったくこの状況は、何がなんだかわからない。
でも、こんな連中に負けてたまるか。
私は深く深く息を吸い込むと叫んだ。
「何よ! 今度は長芋なの? だったらなんでもやってみなさいよホラァ! 私が相手してあげるからさあ!」
叫び終わらないうちから、私は長芋女に向かって飛びかかっていた。そしてまずは女の顔めがけて、ゴボウをヒョウ! と鋭い音を立てて振り回した。
ほんのわずか、女の鼻先をかすめるだけの手応えを感じ、私は舌打ちした。向こうはそのままブリッジでもできそうなほどの勢いで、のけぞらざるを得なくなっている。
繰り返し、ヒョウ! ヒョウ! とゴボウをめちゃくちゃに振り回した。女はそのつど一歩ずつ後退を余儀なくされ、押され気味になる。
お互い肩で息をしながら、あらためて間合いを取り直した。
そのとき突然、私はその場で吹き出してしまった。
それと同時に、なぜか涙も流れてくる。
泣いてるんだか笑ってるんだか、よくわからないグチャグチャな顔で、
「ほらどうしたのよ! もっと来なさいよ!」
と叫んだ。
このとき私は、自分がいままでとは違う何かになっている、そんな気がした。
少なくとも、このゴボウを持っているあいだは。
……ちょっと待って。
てことは もしかしたら、この目の前の女も、そうなんじゃないか?
そして、あのネギ女も?
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!」
轟きのような声を上げて、長芋女が三分の一くらいになった長芋を振り上げて、もう一度突進してきた。私もそれに吸い寄せられるように、ゴボウを振りかざして向かっていった。
夜空には満月が煌々と輝き、どこか遠くから悲しげな犬の遠吠えが聞こえていた。
つづく
